夢見る力に
道が二手に分かれる追分けまであと少し。そろそろ昼にしよう、と半兵衛が言い出した。
美濃の国から尾張へ、幾筋もある道のなかでも主街道から離れた道を、二人は歩いていた。
鬱蒼と茂る木立の向こう、すかし見る日輪は、まだ中天にもかかっていない。
「疲れたか?」
秀吉が問えば、半兵衛は笑って首をふった。
「いいや、そうじゃないよ。ただ、ちょうどいい頃合いじゃないかと思ってさ」
軽くすがめた双眸に、悪戯っぽい光が宿る。
何を、とは秀吉は問い返さなかった。
足を止め、歩いてきた道程を二人でふり返る。ゆるく登り勾配の裏街道は、緑豊かな美濃の山野を、細く縫うように続いていた。
「……確かにな。ここらで少し、待ってやった方が良いようだ」
秀吉がうなづくと、決まりだねと半兵衛は微笑んだ。
多くの言葉を費やさずとも、自分と同じ思考をたどり自分と同じ結末を予測できる。
そんな人間が隣に在る。
それがこれほど心楽しいことだとは知らなかった。
目の前の相手に出逢うまでは。
稲葉山城での邂逅から、半月。
秀吉についてゆくと決めてからの、半兵衛の行動は速かった。
主家であり、稲葉山城の本来の城主である斉藤氏にあてて書状をしたため、首謀者は半兵衛ひとりであり、残り十六名の罪を問わない事を条件に、城の返還に応じると伝えたのだ。
しかもご丁寧に、この書状を関係のない美濃の一豪族へ届け、内容を読んだ豪族から斉藤氏へと伝わるように仕向けた。
これでは城の返還後、どれほど腑が煮えくりかえろうと処罰を下すことができない。すれば、居城をたった十七人の家臣に乗っ取られた恥に加えて、約定をたがえた国主に対する不信が美濃の豪族中に広まってしまう。
しかも十六名の中には、半兵衛の弟や竹中一族と縁戚にある西美濃の有力氏族が含まれている。
うかつに手をだせば、再び痛い目にあうのは明らかだった。
そうしておいて半兵衛は、弟に家督をゆずり、身辺を整理して片を付けると、秀吉に言った。
「さて、それじゃあ逃げようか」
「ほう。逃げるのか」
秀吉は、からかうように片眉をあげた。欲しいのは城ではなく人だと言ったのは、確かに自分だ。
堅牢で名高い稲葉山城を、駆け引きの駒として軽々とあしらい、どう進退をつけるつもりなのか。
興味を持って見ていたのだが、どうやら本当に身ひとつで来るつもりらしい。
「もちろん。十六名の助命と引きかえに僕が進んで首を差しだすと、都合のいいことを考えるのは向こうの勝手だけどね。そんな条件、ひと言だって書いてはいないよ」
肩をすくめ、あっさりと言ってのける。
「まるで詐欺だな」
白い髪に白い肌。容貌は男とは思えないほど柔らかく、挙措はいたっておとなしやかだ。
この外見でありながら、中身は国主の暗愚に業を煮やして城を奪ってしまうほど辛辣なのだから、あまりの落差に騙されたとなじる人間は多いのではないだろうか。
秀吉の評価に、半兵衛は拗ねるそぶりで言い返した。
「君に言われるのは心外だよ。たった一人、その剛腕で城の本丸まで落としておいて、真の目的は調略だなんて聞いたことがない」
調略とは武力ではなく説得によって、敵を味方に引きこむことを言う。
圧倒的な武勇で稲葉山城を攻め落としておきながら、秀吉の要求は降伏ではなく、竹中半兵衛を口説いて連れ出すことだったのだから、これほど人をくった話もない。
「ふむ、それもそうだな」
「だろう?」
顔を見合わせ、笑う。
そして二人は稲葉山城を後にした。
昼餉といっても旅の最中、乾飯と竹筒に詰めた水で喉をうるおすだけの簡素なものだ。
道端の石に座る半兵衛の隣で、秀吉はそのまま地に腰をおろした。
それでようやく目線の高さが同じになるのだから、自分の体格がずば抜けている事を差しひいても、半兵衛は小柄な方だといえる。
それを言うと、半兵衛は苦笑した。
「否定はしないけどね。君と並んで話していると、少々、首が痛くなるよ」
「別に我を見上げなくとも、話は出来るだろうに」
「そう思っても、つい、顔を上げてしまうんだ。君と話すのは面白いし」
並んで歩く道すがら、二人はとりとめなく様々な話をした。
戦の話、各国の情勢、鉄砲鍛冶や具足師、南蛮渡来だという西国のからくり兵器の話に始まって、尾張の城下で行われている市の統制について、今年の天候と米の出来や珍しい京の慣習にいたるまで、この世のあらゆる風物が話題にのぼる。
話の内容は雑多だが、いずれも示唆することはひとつだ。
曰く、天下はどう在るべきか。ために兵はどう調えるべきか、市はどう制するべきか、地はどう治めるべきか。
話をしながら、半兵衛はよく笑った。
稲葉山城で初めて会った時、波ひとつない湖面のような、醒めた瞳をしていたことが嘘のような表情だ。
「戦、戦、どこもかしこも天下取りの戦ばかり。今まで僕の周りには、戦よりも先の世を見通すことができる人間がいなかった。僕に百年のちの天下を語った人間は、君が初めてなんだよ。だから、ちょっと浮かれているのかな」
照れているのか、半兵衛は伏し目がちに頬を染めた。
鋭い舌鋒で世の有様を斬る一方、ふいに子供じみた素直な気質が見え隠れする。
これが今孔明と天下を大いに騒がせた、当の男というのは面白い。
目が離せないと思うのは、秀吉も同じだった。
「ひとつ、不思議に思っていたのだが」
乾飯を食べ終えて、ふと、抱いていた疑問を口にしてみる。
「何を?」
「お前は、自分で天下を取ってみようとは思わなかったのか」
かの信長公ですら攻めるに手を焼いた稲葉山城を、たった十七名で奪取したのだ。決して天下を狙えぬ器ではない。
「秀吉……僕は、夢を見ない」
飲みかけた竹筒をしまい、半兵衛は居ずまいを正した。
その巨躯と豪腕ゆえに武勇が表にたつ秀吉と、水際だった手並みと容貌ゆえに智謀のみが喧伝される半兵衛と。
まるで異なる高さの視線が、真っ直ぐに重なる。
「たとえば、この道。追分けで二つに分かれたこの道が、それぞれ何処へたどりつくのかを僕は知っている。道中に何があるのか、予想することだって出来る。けどね、どちらの道を行くか、僕は選ぶことができない」
「ほう?」
「自分で言うのも何だけど、僕は頭が回る。でも、どれだけ先を読めても、道を選ぶ役には立たないんだ。未来を予測することと、未来を夢見ることとは、まったく別のことだからね」
夢を見ないとはそういうことだ、と半兵衛は微笑んだ。
いっそ優美とすら言える表情とは裏腹に、瞳の色は厳しい。
初対面で見せた、冷徹な眼差し。凪いだ水のように澄み、未来を諦観した賢者の瞳。
そこに、射抜くような強い意志の光が宿る。
「夢を見るのは王者の資質だよ、秀吉。忘れないでくれ、君の夢見る力に僕はついてゆくんだ。この命ある限り」
「……………」
とっさに、返す言葉が出てこない。
稲葉山城の噂を聞いて、この男が必要だと直感した。その閃きをこそ、人は天啓と呼ぶのではないだろうか。
――この出逢いは、必然だ。
確信を、言葉として唇にのせようとした、その時。
「………来たね」
低くつぶやいて、半兵衛が立ち上がった。
手回りを素早く片づけ、道中かぶることのなかった編み笠を、結い紐で首から背中へ落とす。
特徴的な白い髪が、隠れもなく風になぶられた。
ふわふわと靡く柔らかい癖毛を、別人と見誤るものは美濃にはいまい。
続いて半兵衛の隣に立ち、秀吉は鼻を鳴らした。
「ずいぶんと侮られたものだな。たった、これだけの手勢とは」
道の向こう、ゆるく折れた下りの先に、馬蹄の響きと槍の穂の白いきらめきがひしめいている。
「君を軽んじているわけではないよ。侮られているのは、僕だ」
歩を進め、道の央で静かに待つ。半兵衛が剣の柄に手をかけていることを見てとり、秀吉は大きく息を吐いた。
秀吉は、半兵衛が剣をふるう有様を目にしたことはない。それでも、
「………お前の元の主人は、よほどの節穴だったとみえる」
「それは酷というものじゃないかな。君だって、真の武器は剛力ではなく頭の中身だと、見抜かれることは稀だろう?」
揶揄するような物言いに、秀吉は答えなかった。
答える必要もない。だからこそ、竹中半兵衛は今、自分の隣にいるのだ。
「ここは、僕ひとりでやらせてもらうよ」
「うむ。だが、やりすぎるな。生き残りがおらねば、策の意味がなかろう」
この言葉に、半兵衛は目を丸くして秀吉を見上げ、声をあげて破顔した。
それは真実、心の底からの会心の笑みだった。
「ああ、本当に。君は面白いよ……了解した、秀吉」
快活に言い放ち、剣を抜く。異形の構えで静止した、次の瞬間、無音で白刃は閃いた。
半刻の後、その場に直立しているのは半兵衛と秀吉のみだった。
「まあ、こんなものじゃないかな」
気負いもなく言う半兵衛に、内心、秀吉は舌を巻いていた。
累々と地に横たわる、人、人。
旗印こそ掲げてはいないものの、明らかに彼らは半兵衛の元の主人が遣わせた兵だった。
その全てをほぼ一撃で斬りふせ、半兵衛は剣を鞘に収めた。
息ひとつ切らさず、その白面に返り血が散ることもない。
「生きておるのか、これで?」
「大丈夫。半分くらいは、叩きつけられて気を失ってるだけだよ」
生きて帰った兵士たちは、主に告げるだろう。竹中半兵衛が、のうのうと美濃の国境を越えたことを。しかし気を失った彼らには、追分けを前に半兵衛がどちらの道を選んだのか、行き先を知る術がない。
やり場のない怒りは討ちもらしたことで増幅され、姿を見失ったことで永続する。
この先、美濃の国にのこされた竹中の一族や他の十六名に、報復の矛先が向くことは無いだろう。仇敵の筆頭に、竹中半兵衛の名があり続ける限り。
「……損な役回りをするものだな」
「君がこれから背負うであろう悪名に比べれば、ささやかすぎて申し訳ないくらいだけどね」
乗り手を失った馬を軽く叩いて野に放し、やれやれと半兵衛は首をふった。
「待たせてすまない。これで、僕が美濃ですべき事は終わったよ」
「そうだな。次にこの地を訪うのは、我と共に、この国を切り取りにかかる時だ」
「うん。行こう、秀吉」
互いに頷き、旅路に戻る。
陽はすでに中天より傾き、緑濃い影が二人の足元に落ちていた。
午後の陽気の下、だらだらと延びる登り勾配の裏街道。その末に、標柱もなくひっそりと、道は二手に分かれる追分けに突きあたる。
「………………」
「………………」
つい、隣を見やった秀吉に、至極真面目な視線が返ってきた。柄にもなく、少しばかり面映ゆい。
「ゆくぞ、半兵衛。ついてこい」
無造作に道を選んで、一歩を踏み出す。
「……もちろんだよ、秀吉」
背後に、くつくつと忍び笑う気配を感じて、秀吉も笑いを噛みころした。
声のない笑いは、それからしばらく静かな街道を震わせて続いた。
二つの影が、再び隣に並ぶまで。
□ END □
ドラマCDで秀吉がプロポォズしちゃってるので、半兵衛から告らせてみたかっただけなんですが。
つきあい始めの、お互いの事を知るのに夢中な時期ってこんなカンジじゃなかろうかと。