甘い栗、涙
「ねねー!」
垣根の隙間から、ひょい、と顔を出した隣家の少年に、ねねは微笑んだ。
隣家の主人は、この家の主と同じ織田家に仕える同輩だ。その気安さから、垣根の穴を繕わず近道として使っていたが、日に何度も行き来するのはもっぱらこの少年だった。
「あら、慶次。いらっしゃい」
「これ、まつ姉ちゃんから。郷からたくさん来たんで、おすそわけ」
「まあ、栗がこんなにたくさん。どうしよう、うれしいわ」
喜ぶねねの表情に、少年も笑顔になる。
「ねね、甘いの好きだろ。甘煮にして一人で全部食べちゃえば?」
「慶次ったら、そんなわけにはいかないわよ」
「でも、秀吉は好きじゃないだろ、甘いの」
「そうなのよねぇ……」
軽く眉をよせて、ねねは首を小さく傾けた。
「ね、慶次。お腹すいてない?」
にこりと笑う綺麗なまなざしに抗える者など、この世にあろうか。是非もなく少年はうなづいた。
「お客様がいらっしゃるから、作ってみたのよ。でも聞いたら、そんなに甘いものはお好きじゃなかったみたいで、慌てて別を用意したんだけれど」
皿の上、山と積まれたおはぎに慶次は目を丸くした。
「ねね、これは作りすぎじゃねぇ……?」
つぶ餡にくるまれた大きなかたまりが、一段、二段、三段。数えて、ちょっとげっそりする。
あの体格の秀吉が主のためか、この家の料理は全般に量が多い。
「まつ殿にはいつもお世話になっているもの。そちらさまへのお返しに、多めに作ったのよ。それを引いても、私ひとりじゃ食べきれないわ」
持って帰ってちょうだいね、と別に大きな重箱を渡された。重箱は予想通りにずしりと重い。容赦なくぎっしり中身が入っていそうだ。
「半兵衛は?あいつ、こういうの好きそうな顔してるぜ」
つい最近、秀吉が連れ帰った居候の名をあげる。白い髪に白い肌、奇妙な仮面で隠してはいるものの、たぶん結構な女顔。華奢な体格も相まって、女の子のような嗜好が似合うなと、勝手に甘党に決めつけたが。
「そうなのよ。だから、てっきり、弟御もお好きなのかと思っちゃったのよねぇ……」
果たして、本当に甘党だったらしい。それにしても。
「弟?なに、客ってあいつの弟?」
「そう。織田の直臣に取りたてられたのだって。ご挨拶にみえたのよ」
「へーえ。そっか、兄が陪臣、弟が直臣って利が言ってたの、このことだったのか」
半兵衛は信長公の誘いを蹴って、秀吉個人の臣下についた。織田軍の一員であるには違いないが、直接、織田家に仕える弟よりも、身分は下になる。
「本陣詰めって言ってたもんな、やっぱ頭いいんだ?」
大将の側近く、本陣に詰める武士は単純な腕力よりも才覚や忠心を求められる印象が強い。
きっと半兵衛に似て、嫌味で冷静で色白の優男にきまってる。
そう考えた慶次の胸の内を見透かしてか、ねねは笑った。
「そうなんでしょうね。でも、兄弟だからといって似ているとは限らないものよ。まなじりが明るくて、お若いけれど体つきも立派だし、屈託のないところがね、ちょっと慶次に似てるかも」
「ええ、俺ェ?」
「うん、似てるわ。そうね、半兵衛が慶次に厳しいのは、そういう事なのかしら」
「何が?」
ねねは考えるように、頬に指をそえた。
「大切に思うものほど、遠ざけたいのね。きっと」
慶次は首をかしげた。自分が半兵衛の弟に似ていることと、半兵衛が自分に嫌味なこと、それらを等式で結んで出てきた答えが『大切なもの』とは、ものすごく奇妙な考えだ。
「変なの。大事なものなら、ずっと側にいて守っていればいいじゃないか」
絆の固い叔父夫婦を見て育った慶次には、そうする事が至極当然に思えるのだが。
「ねね?」
なぜか、ねねは顔をくもらせた。
「そうできたら、幸せね。でも……もっと大事な、譲れないことがあるとしたら」
呟いた横顔が寂しげで、慶次はかける言葉を失った。どうしたらよいのか分からないまま、いただきますと皿へ手をのばし、ただただ甘いかたまりを口に詰めこんだ。
目を開けると、宿の薄汚れた天井が見えた。
(――なんだ、夢か)
息を吐いて、慶次は寝返りをうった。稲葉山で半兵衛に再会して以来、昔の夢をよく見る。
記憶の底に沈めておいたはずのものが、ふつふつと浮かびあがっては、胸を苛んで目が覚める。
(――大切に思うものほど、か)
ねねは、知っていたのだろうか。自分を待ち受ける運命を。
稲葉山から大阪へ、決意を秘めて駆けた道中、道を違えて通った村を思い出す。古びた構えの館には人影が無く、朽ちるままに半ば崩れ落ちていた。そこにいたはずの家人の行方を問うても、村人たちの口は重く、明らかにその話題を忌み避けていた。
半兵衛の弟は、秀吉が織田に叛旗をひるがえす、その直前に戦で討ち死にしている。
陣詰めでありながら、最前線で一騎駆けを行ったのだという。
伝え聞いた時には何とも思わなかった不自然な死に様は、朽ちた竹中の館を前にして、慶次の背筋を震わせた。
織田は秀吉の翻意に、薄々気づいていたのではないだろうか。
そして、半兵衛自身も気づいていたのではないだろうか。
(――兄が陪臣、弟が直臣)
めでたい話題のはずなのに、利家が苦い顔で語った理由を。
気づいていたのだ。
秀吉も半兵衛も、そしてねねも。自分以外の誰もが。
だから、ねねは最期に自分を殺した秀吉を許せと言ったのか。
(――くそっ。だからって、納得なんか出来ねぇよ)
情愛という軛を滅ぼして、彼らは覇道へと踏み出した。
再会した半兵衛に、慶次は何度も叫んだ。なぜ殺した。なぜ止めなかった、と。だが半兵衛は答えなかった。それは弱さであり、必要の無いものなのだと、にべもなく突き放すばかりで。
『君の存在は、秀吉の心を揺るがせる。排除させてもらうよ』
冷たい響きで言い放つ、懐かしい声。
表情を隠す仮面の下、誰よりも揺らいでいたのは半兵衛自身の瞳だった。
「君は、さ」
うとうとと麗らかな午後の日射しをさえぎって、冷ややかな声が降ってきた。
「どうしてこうも太平楽に、眠っていられるんだろうね。しかも僕の部屋の前で」
「……んあ、半兵衛……?帰ってきたのかよ」
目を開けると、件の居候が自分を見下ろしていた。
竹中半兵衛重治。自分より年上のはずが、とてもそうは見えなくて、初対面で気安くしたら嫌われた。以来、何かとちくちく嫌味を言うので、あんまり刺激しないよう避けていたのに。
軽く残る眠気に瞬きをすると、さらに不機嫌そうに半兵衛は声を尖らせた。
「帰ってくるとも僕に他の何処へ帰れっていうんだい。君のその邪魔な図体さえなければ、部屋に入って休むことだって出来るはずなんだけどね」
「お、あ、悪ぃ」
縁側を横断して寝そべっていた半身を起こすと、後ろを軽い足音で通りぬける。
半兵衛は、戦支度のままだった。具足をはずした立襟の鎧下に、濃紺の括り袴。脛当てをほどいて手足と顔を水で清めたようだが、癖のある白い髪は頬のあたりでくしゃくしゃと縺れている。
ぼんやり見ている慶次の前で、半兵衛は鎧下を脱ぎ捨てた。長持から小袖をとりだし、まっさらな脚絆を巻きなおす。小さな行李にわずかな手回りを詰めこんで、
「……?戦は終わったんじゃねぇの」
あっという間に旅姿に身をかえた半兵衛に、慶次は思わず声をかけた。
「終わったよ、織田方の圧勝でね。君の叔父上も、一両日中には戻ってらっしゃると思うよ」
「じゃ、なんで出かけんだよ?」
「君には関係ない」
ぴしゃりと、とりつくしまもない返答。慶次はムッとした。
「そういう言い方ねぇんじゃない?お前、なんか顔色わるいぞ」
二ヶ月に及ぶ旅征から戻ったばかりで、即座に遠出をするなど無茶な話だ。どんな偉丈夫でも、蓄積した疲労に倒れてしまうだろう。ましてや半兵衛は、さほど身体が丈夫ではない。
「だから君には関係がな……って、うわぁ!」
「ってててて痛い痛い!半兵衛それ俺の腕!」
「だったら掴むな放してくれ僕の足を!」
つい、足を掴んで引き留めた慶次は、体勢を崩した半兵衛に思いきり踏まれて悶絶した。
それでもめげずに手を放さず、慶次は重ねて言いつのった。
「いやだって、お前ちょっと無理してる気配がありありだし?」
「大きなお世話だよ!」
大の男が二人、口やかましく騒いでいると、
「何を騒いでおるのだ。半兵衛、慶次」
「「秀吉!」」
左右同時に叫ばれて、屋形の主は目をしばたいた。
「どうした?二人とも」
「ちょっと、聞いてくれよ。こいつさぁ!」
「聞いてくれ、秀吉。君の友人ときたら」
問いの答えも、また同時。ぴたりと重なる二人の声に、秀吉は感心したように顎をさすった。
「……息があっておるな。いつの間に仲良くなったのだ、お前たち」
「別に、仲良くなんかねぇけど」
「まったくだ。それは君の勘違いだよ、秀吉」
「そうか?そう言うならば、そういうことにしておくが。しかし、これは勘違いではあるまい―――半兵衛」
表情を変えず、厳しい声音で秀吉は言った。
「美濃へ行くことまかりならぬ」
「――っ」
かすかに、半兵衛の肩が揺れた。
「君に迷惑はかけないよ。少し、調略の下準備をしてくるだけだ」
「ならぬ。今、動けば、生きてかの地を踏むことすら出来ぬかもしれぬのだぞ。それほど情勢が危ういことは、お前が一番わかっているはずだ」
「わかってる、わかっているよ。だからこそ!僕が」
「竹中の家督はお前ではなく、弟にある。当主に従うは一門の務め。お前にそれを曲げることはできぬ」
「でも!」
「ならぬ!」
主従二人の激しいやりとりを、慶次は目を丸くして見上げた。主従といいつつ、秀吉と半兵衛の間に上下の礼節はない。互いに互いを無二の友と呼び、言葉少なくして通じ合うような強い絆を結んでいることが、はた目にも明らかで面白くないことも度々あったのだが。
「僕は自分が許せないんだよ。これが君の足枷になるくらいなら、いっそのこと僕の手で……!」
「ならぬと言っておる!」
秀吉は、半兵衛の眼前に指を突きつけた。
「覚悟を共にすると誓ったは、お前にそのような事をさせるためではない」
「………………」
唇を噛み、身を震わせて半兵衛はうなだれた。その白い髪に、秀吉の大きな手が乗せられる。
「あきらめがよいのは、お前の悪い癖だ。情勢がどう転ぶのか、まだわからぬではないか。お前の弟は、お前ほど図抜けた智者ではないかもしれぬが、それでも、家督を譲るに足ると見込んで後を託したのであろう?ならば、信じよ」
「………わかった。君が、そう言うなら」
低く、感情を殺した小さな声で、半兵衛はうなづいた。
うつむく半兵衛の髪をなで、秀吉は手を放した。
「ねねが風呂の用意をしておる。お前も汗を流して、身を休めよ。よいな」
「……うん」
立ち去る主の背が見えなくなると、力なく、半兵衛はその場にへたりこんだ。
支えを失くしたように無防備な背中。乱雑にもつれた髪。
その姿は、慶次を妙に落ち着かなくさせた。
「……なあ」
常に毅然とふるまう半兵衛しか覚えのない慶次には、弱々しい後ろ姿が意外にすぎて調子が狂うのだ。
「…………」
「なあ、ってば」
「…………………何?」
のろのろと面を上げた半兵衛と目線があって、慶次はうろたえた。
「何って、えっと……ほら、これ」
あわてて袖を探り、折りたたんだ懐紙をとりだす。
「お前にやる」
「……干し栗?」
広げた懐紙のなかには、滋味の濃い色をした栗の実が、ひとつかみ入っていた。
「砂糖で煮て干したんだって、ねねにもらった。あとで食おうと思ってたけど、お前にやる」
「どうして僕に」
「だって、甘いの好きなんだろ」
何かを答えかけて言葉にならず、半兵衛は押し黙った。
慶次の手のひらで転がる甘い塊を、じっと見つめ、やがて小さく吐息をもらした。
「……嫌いだよ」
言って、一粒を口に放りこむ。強情な言い草が、いかにも半兵衛らしかった。
「嫌いなのかよ」
「そう言ってるだろう。君には耳がないのかい」
澄ました顔で抜け目なく、細い指が次の一粒をつまみとる。いつもと変わらぬあざとさに、慶次は少し安堵した。
「お前って、やっぱよくわかんねぇ」
「わからなくて結構だよ」
「ちぇ」
不貞腐れたふりをして、慶次は再び寝ころんだ。やっぱり半兵衛は、こうでないと困る。何が困るのかは自分でもわからないが。
だから、白い睫毛からこぼれた涙は見なかったことにするのが一番よいのだと、慶次は目を閉じた。
夜明けも間近、かすかに白みはじめた薄闇のなか、慶次は天井の板目を睨みつけた。
懐かしい、けれど不都合な思い出ばかりが目蓋の裏によみがえる。
秀吉とねね、半兵衛、そして自分。この日々が続くと無邪気に考えていた、あの頃。
穏やかに見えるその影で、皆が抜き差しならぬ想いに苦悩していたのだと。
今ならわかる。
今の自分なら、わかる。
ねねと半兵衛の弟。どちらが先で、誰の故意だったのか、真実を知る術はないけれど。
止められるはずがない。
あの二人は互いに、同じ喪失を負ったのだから。
(――それでも、お前たちは間違ってる)
本当は、心を殺せてなどいないくせに。それはもう無いのだと、痛々しいほどに傲慢な彼らの在りようが。
無性に腹ただしくて、だから慶次は決めたのだ。
(――絶対、一発ぶん殴ってやる。ぶん殴って、それから)
それから、もう一度あの二人から離れよう。
ねねは死んでしまった。許せないその過去は、変えようがない。
けれど遠くから、それは間違っていると叫ぶ声がある限り、彼らは自分にも過去があるのだという不快な事実を忘れまい。
「――…ッっそ」
堪えきれずに小さく毒づけば、隣で、きゅぅ、と細く声があがった。
「悪ぃ、夢吉。起こしたか?」
もそもそと、首のあたりで柔らかい毛玉が動く。手をのばし指先で軽くなでてやると、それを遊びと思ったか、ぴょんと跳ねる気配があって、次の瞬間
「む……!何だこれ」
口のなかに、何か押しこまれた。夢吉はかしこい。たとえ悪戯であっても、食べられないものを他人の口には入れない。
おそるおそる噛んでみると、ほんのりと覚えのある甘さが舌に広がった。
干し栗だ。
「……はは、甘ぇ」
甘くて苦い。どうしていいかわからない。遠い昔を思い出させる、複雑な味。
(――ねね……)
忘れて欲しくなかった。過去になど、したくはなかった。
それでも目を背けた事実に向きなおり、閉じていた時間が動きだしてしまった以上。
もう、足を止めることはできない。
(――ごめんな。最期のねがい、かなえてやれそうにないよ。俺……)
無理矢理のみこんだ甘い塊は、涙に似た味がした。
□ END □
半兵衛の弟の死因は確か戦死だったように思うんですがウロ覚え。他も丸ごと捏造です。
というか、もはや捏造が多すぎて何処から謝ればいいのかわからなくなってますスミマセン……。