十六夜
「同行は最小限でいい。払暁とともに出立するから、そのつもりで」
「かしこまりまして。では」
一礼とともに部下が退出すると、とたんに痺れるような疲労が手足を重くして、半兵衛は大きく息を吐いた。
油皿の灯りをすみに寄せ、板の間にごろりと身を横たえる。
書簡や地図を放りだしたままだったが、片づける気になれなかった。
―――無から一軍を興すのが、こんなに大変だとは
門地も所領もない、本当に身ひとつからの出発は、ようするに強奪と謀略の血塗られた道行きだ。
見込みが甘かったとは思わないが、綱渡りのような戦の日々は、予想以上に半兵衛の神経をすりへらした。
一の兵で千の敵を相手どる、彼我の戦力差をくつがえすは、秀吉個人の武勇のみ。
大将みずからが先陣をきって闘うのだ。否応なしに兵士たちの士気は高揚し、結束は強くなるが、おかげで豊臣の戦といえば、初手から奇計奇略の連続だった。
古今の書物に通じ、兵法に明るいと自負してはいるものの、
―――大将が真っ先に突撃する布陣なんて、書にあるわけないじゃないか
まったく、ため息も出ようというものだ。
瞼を閉じれば、酷使した頭蓋の奥に鈍い痛みを感じる。あまり、良い兆候ではない。
じくじくとした痛みをこらえて、細く息を吐いていると、
「半兵衛、少し良いか?」
「秀吉?」
襖とは名ばかりの戸板の向こう、おのが主君の声に半兵衛は身を起こした。
「すまぬな。明朝には出ると聞いたが」
「ああ、構わないよ。すこし、地勢を確かめに行くだけだ」
影暗く、のっそりと障子を開いて、秀吉は部屋に身を滑りこませた。
居ずまいを正した半兵衛の隣にあぐらをかき、床に広げた地図をのぞきこむ。
「軍師みずから偵察とはな。何か布陣に問題があったか」
「たいしたことじゃないよ。ただ、この国見図はどうも不正確なようだからね。こちらの」
指で一点、図に印された記号をさす。
「峰からみてこの道が見通せるものかどうか、実際に見てみたいんだ。相手は山城だ。可能なかぎり見つからずに近づきたい」
「……陽動か」
半兵衛は小さく笑った。これだけの情報で、それと見抜ける卓抜した度量。泥沼の状況下にあってなお、秀吉の機知にはくもりがない。
「そちらは僕が率いるよ。二十騎ほど、貸してもらえるかい」
「構わぬが……大丈夫か?」
「この際、重要なのは速さだからね。歩兵は必要ないだろう」
いずれにせよ、馬上からは剣を振るうことが難しいのだ。ましてや、目指す城は山の頂。いったん戦が始まれば、ほとんどが地に足をつけての徒戦になる。もとより余るほども無い兵力だ。無駄にあそばせる手はない。
「そうではない。気づかぬか、半兵衛」
なにげなく、秀吉が腕を伸ばす。軽く頬をなでられて半兵衛は目を丸くした。
「え?」
「板目がついておる。寝ていたのであろう?」
「えええ!」
秀吉の腕を払いのけんばかりの勢いで、半兵衛は頬に手を当てた。たまりかねてか、秀吉が笑いだす。
半兵衛は、憮然と秀吉をにらんだ。
「……そんなに笑わなくたっていいだろう、秀吉」
「いや、すまぬ。しかし、お前は少し働きすぎだ。休めとは言えぬ状況だが、せめて身体をいたわれ」
「わかってるよ。倒れて君の足手まといになるのは、僕だって不本意だからね」
頬をこする半兵衛を、秀吉は疑わしそうに横目で見た。
「本当に、わかっておるのか?」
「自分の身体のことだ、自分が一番よく知ってるよ。それよりも、秀吉。このあいだ話していた離間策だけど……っ!?」
床に散らかしたままの書簡を拾いあげ、秀吉に向きなおろうとした瞬間、半兵衛の視界はくるりと反転した。
とす、と頭の後ろに何かがぶつかり、目の前に秀吉の顎の裏と喉が見える。
「ひ、秀吉?」
引き倒されたのだ、と理解して半兵衛は慌てた。
自分が頭を乗せているのは、あぐらをかいた秀吉の腿の上。つまり、膝まくらだ。
「他に誰もおらぬのだ。寝ながら話したとて問題はあるまい」
「いや、だからって、これは……」
他人が見ている見ていないの問題だろうか。
だが、秀吉の太く逞しい左腕が、胸元をおさえていて身動きもままならない。
「それで、策は成りそうなのか」
「あ、うん。地縁血縁いりみだれて、複雑な土地だからね。対立を仕組まれていると気づいても、誰が糸を引いているのかなんて、心当たりがありすぎて分からないよ。何処に火種を仕込むか、目星はついた。やらせてくれないか、秀吉。次の戦までに、内乱で彼らの力を削いでおきたいんだ」
秀吉は半兵衛の手から書簡を取りあげた。目を通して、短く問う。
「時間は」
「三ヶ月のうちには、必ず」
「よかろう。お前に任せる」
半兵衛の額に手をのせて、秀吉は苦笑した。くすぐるように、白い髪を弄ぶ。
「今の戦も始まらぬうちから、もう、次の戦の話とはな。だが、これを勝ち抜けば……」
「……そう、畿内への足がかりになる」
「うむ」
うなずき、秀吉は表情をあらためた。油皿の芯に小さく灯る、朱い炎がその横顔の陰影を険しくする。
床に落とされた視線は、地図ではなく、さらに遠くの何かを見据えているようだった。
「……………………」
主の膝から秀吉を見上げ、半兵衛は沈黙を守った。
秀吉の思考をさまたげる気は毛頭ない。ないのだが。
先程から、猫をなでるように秀吉が自分の髪をなでているのは、いかがなものだろう。
―――わかってるのかな
大きな手が、するりと髪を滑る。
―――これじゃ、閨の睦みごとめいてるよ……
しばらくの間、されるままに身を委ねていたものの、秀吉が止める気配はない。
「あのね、秀吉」
迷ったあげく、そっと声をかける。
「何だ」
「いくら家臣が君主をしのいで成り上がる世の中だといっても、主人を枕にする部下はいないと思うよ」
「我はかまわぬ。先例がないというなら、お前が最初の一人になればよいだろう」
秀吉の答えは、どこか上の空だった。考えごとに没頭しているのは明らかだ。
「そういう問題じゃ…」
言いさして、半兵衛はあきらめた。ため息まじりに語尾がすぼむ。
「……ないんだけど、ね……」
柔らかく癖のある白い髪を、たわむれに梳く秀吉の手は心地よい。
凝りこわばった頭の痛みを、ゆっくりと溶かすように温かい。
半兵衛の知るかぎり、秀吉は衆道を嗜まない。とはいえ、その気があったとしても拒むつもりは半兵衛にはなかった。
生国で耐え忍んだ屈辱を思えば、なにほどのことがあろう。秀吉の指は優しい。
けれど。
秀吉の手慰みとして心を満たすのは、本来ならば別の人間の役目だったはずなのだ。
その苦い事実が、半兵衛をしてためらわせた。
―――ねね殿……
彼女の献身とかしこさが、今は恨めしい。秀吉は、夜空に輝く月のように真円の存在であるはずだった。こんな形で欠けるべきではなかった。
目に見えぬ欠落は、無意識の飢えとして秀吉を蝕んでいる。
それが、戦場において秀吉を陣頭に駆り立てているのだ。
秀吉は強い。壮大な夢を描き、強靱な思考と明快な力をたずさえて、未来へと進みつづけている。そら恐ろしいほどの速さで。
十年の展望を一年で実現しかねない凄まじさは、半兵衛を内心おののかせた。
可能なかぎりの確かな布陣と、先手をうっての献策をもって、主の身を守るべくあがいたとしても。
秀吉の胸の裡で広がる野火は、いつか秀吉自身を滅ぼしてしまいかねない。
―――怯えているのか、僕は
己の予見に、半兵衛は暗澹と目を閉じた。
我が身をもって、秀吉の欠落を埋めることが出来るか否か。埋めたとして、それが正しい方法なのか。
解の見えない問いを前に、今は立ちすくんでいても。
いずれ、答えは出されなければいけない。
十五夜の満月より僅かに欠け、ためらうように月の出は遅い。十六夜の月。
このままでいられない事はわかっている。
でも今だけ、もう少しだけ。
この曖昧な温もりに身を預けていたいと願うのは、許されない事だろうか。
いざよう自分を蔑んで、半兵衛は眠りに落ちた。
□ END □
十六夜の月の「いざよい」は、「一瞬のためらい」を意味する古語「いさよう」が語源だそうです。