誰にも、何にも
大抵の事を器用にこなす半兵衛でも、利き手を自分で手当てするのは難しかったらしい。
「珍しいな。お前が人を殴るとは」
「………後悔してるよ。まさか、こんなに腫れるとは思わなかったんだ」
不格好に巻かれた布を解き、軟膏を塗った油紙で包んでやりながら、秀吉は嘆息した。
智謀を本領とする男が、慣れぬことをするからだ。
筋を傷めた手の甲は、無惨に腫れあがり熱をもっている。
「慶次と拳でやりあうなど、虎に素手で対峙するようなものだぞ。加減されたのは、わかっておるな」
「……うん」
半兵衛は、むっつりと拗ねた顔でうなずいた。秀吉に預けた片手以外は、まったくの無傷だ。手加減どころか、反撃もなかったのだろうと、容易に想像がつく。
―――慶次はあれで存外、甘いからな
秀吉の手にある白い指先は、握れば折れそうなほど細い。それを非力と侮れば、後で手痛いしっぺ返しをくう羽目になるのだが、初対面では見抜けるはずもない。
「で、諍いの原因は何だったのだ」
「それが………」
問われて半兵衛は、困惑したように秀吉を見上げた。
「よく、わからないんだ」
「ほう?」
打てば響くように答えが返る、明晰な頭脳を誇る半兵衛にしては珍しい。
「他人から見た僕の外見がどういうものかなんて、自分でよく知ってるよ。女子のようだと軽んじられたり、からかわれることには慣れているはずなのに。緋牡丹の京錦や女帯を似合うと笑われて……気がついたら」
「手を出していたのだな」
叱られたと感じてか、半兵衛はうなだれた。
「変だろう?」
「いや。変ということもなかろうが……」
人の事を言えた義理ではないが、慶次の趣味はとかく派手だ。似合うと言ったのは、本気でそう思ったからだろう。趣味に合いさえすれば、男女の別など頓着しない傾き者なのだ。
慶次に悪気はないのだが、普通は腹をたてて当然だった。
「変だよ」
重い息を吐いて、半兵衛はますます滅入っているようだった。
「今まで何を言われれも、平気だったのに。もっと酷い辱めにだって、顔色を変えずにいられたのに。たかだか言葉ぐらいで、自制がきかなくなるだなんて」
その昔、隣国の情勢をさぐるよう命じられ、初めて美濃を訪れたとき。秀吉の耳に入った竹中半兵衛の風聞は、その名に『沈黙の』『知らぬ顔の』という二つ名を冠していた。
何事にも動じず、いっさい内心を悟らせぬ白面は、悪意の渦中に在って半兵衛が纏った目に見えぬ鎧だ。
一朝一夕で身につけたものではない。
それをやすやすと破ってしまっては、自信が揺らぐのも無理はないが。
「まあ、よい。堪えられなかったからといって、誰かの首が飛ぶわけでもあるまい」
傷を覆った油紙を布で巻いて留め、秀吉はそっと手を放した。
「そう、かな……」
一族の命運を背負い、人質を取られて、服従を強いられていた頃とは違うのだ。
誰よりも敏いようでいて、半兵衛は己の心が自由であることに、未だ気づいていないのだろう。
いくぶん心許なげに顔を上げた半兵衛は、手当を受けた右手に微笑した。
瞳に、いつもの勝ち気な光がひらめく。
「ありがとう、秀吉。拳が得手ではないと身にしみたことだし、次からは平手で打つことにするよ」
「やめておけ。慶次は面の皮も厚いぞ」
釘をさされた半兵衛は、無事な左手を軽く握って秀吉の胸板をとん、と叩いた。頑健な肉体は弾むように固く、小揺るぎもしない。それが少々、半兵衛には面白くないようだった。
「まったく。君といい彼といい、何を食べたらこんなに丈夫になるんだろうね」
殴った方が怪我をするなど、割にあわないと言いたいのだろう。秀吉は肩をすくめた。
「我の方こそ聞きたいわ。知りたくば、まつ殿にたずねてみるがいい」
「ふふ、なるほどね」
半兵衛は吹きだし、笑いをこらえて肩を震わせた。
「じゃあ君の分は、ねね殿に聞いてみることにするよ。うまくすれば、偉丈夫になる食事の仕方がわかるかもしれないし」
例えそれが判明したとて、半兵衛の華奢な体格が変わろうはずもないが。
笑う半兵衛を眺めやり、ふと、秀吉は気がついた。
普段、半兵衛はめったに表情を変えない。誰に対しても穏やかに柔らかく、けれど一線を越えることは決してない。
半兵衛の素直な笑顔を知っているのは、おそらく自分だけだ。
しかし、怒りは?
半兵衛自身ですら途惑うような衝動を、知っているのは慶次ただひとり。
「………ふむ」
「なに?どうかしたかい、秀吉」
「いや……たいしたことではない」
胸をよぎった一瞬の影に、秀吉は首をふった。
愚かな戦に明け暮れた、この腐敗した世の中を変える。必ず、変えてみせる。
変わらぬものなど、何ひとつないのだ。傍らに在る、この友ですら。
その事に嫉妬を覚えるなど、どうかしている。
□ END □
再掲載にあたって、本の内容と同じ順に並べ直しました。
『誰にも何にも1・2』の次が『ヲルゴルナ』、最後が『誰にも何にも3』になります。まぎらわしくてすみません。