ヲルゴルナ
「君は話しが回りくどいよ、慶次君」
きっぱりと断じて、竹中半兵衛は茶をすすった。
日射しの明るい閑かな西の角部屋。文机と書見台の他には何もない、簡素な佇まい。
半兵衛に与えられた私室にて、相対してのことである。
「要点は二つ。大切な物が壊れた。それを僕が直せるか否か。たったそれだけのことだろう」
「まあ、そう言われればそうだけどよ」
つくづくと呆れた口調で言われ、慶次は思わずむっとした。が、努めて腹立ちをこらえる。
とにかく、自分の手には負えない一大事なのだ。ここで半兵衛に喧嘩を売るのは、得策ではない。
「つまり君が京を発ってからの道中と、首をつっこんだ数々の騒動や美味しい団子屋の話は必要ない。まったく、延々と話を聞いた僕が馬鹿だったよ」
嫌味の締めくくりに半兵衛は、でもこの団子は本当に美味しいね、と呟いた。
「だろー?最近、城下でも評判なんだってさ。このために、わざわざ街道まで買いに出る奴もいるってくらい」
茶請けは慶次が持参した団子だった。
餡も醤もからめていない、つやつやした素の白玉。噛めば、もっちりと練りあげた粉の、ほのかな甘みが舌に後を引く。
甘味に目のない清洲のご婦人方の間でもちきりの、噂の品だ。
いつか気になるあの子への手みやげに、などと慶次も狙っていたのだが。
―――どれだけ顔が綺麗でも、相手は半兵衛だもんな……
よもや、男に貢ぐ羽目になろうとは。青少年の夢想を打ち砕かれて、床にめりこみそうな自分を励ましつつ、
「で、どうなんだよ?」
慶次は、ずい、と身をのりだした。
二人の膝の間には、鮮やかな七宝を嵌めこんだ小さな箱が置いてあった。
蓋をひらいたその中に、螺子や歯車を複雑に組みあげた鉄の塊が納められている。
「ふむ……僕も実物を見るのは初めてだけど、これ、ヲルゴルナというんだろう?」
オルゲン、オルゴルナ、オルゴヲル。ひとりでに音を奏でる南蛮渡来のカラクリ楽器。
半兵衛は指先を丁寧に拭うと、一列にならんだ金属片を爪で弾いた。
韻と響くかすかな振動が、美しい音色を予感させる。
「直せるか?」
「それは無理」
すげない即答に、慶次はガックリと肩を落とした。
「そうだよな。いくら、お前の頭が良くても」
「そうだね。壊れていないものを直せと言われても、僕だって困るよ」
「え?」
「壊れてない」
「マジで?でも、蓋あけても音が鳴らねぇし」
「あのね、慶次君。発条仕掛けのカラクリは、発条を巻かないと動かないんだよ。君、ちゃんと螺子巻きを使ってみたかい?」
やれやれと息を吐いた半兵衛に、慶次は首をひねった。
「螺子巻き?」
「そう、ここに穴が空いているだろう?ここから螺子巻きを差しこんで、回すんだ……って、指を入れても無駄だよ。専用の螺子巻きが付いていただろうに」
「そんなもん、あったかな」
心当たりが全くない。頭をかかえて唸りだした慶次を見かねて、半兵衛は口をだした。
「穴の大きさと発条までの寸法からすると、かなり細くて、長さは……このくらいかな」
両手で幅をとってみせた半兵衛に、慶次は突然、大声をあげた。
「ああーッ!」
跳ねるように立ち上がり、半兵衛に指を突きつける。その勢いに、半兵衛は思わずのけぞった。
「それだ!」
「はあ?」
「ありがとうな、半兵衛!俺、ちょっと行ってくる!」
言うやいなや、縁側の障子を開け放ち、慶次は外へ飛び出した。
「待ちたまえ慶次君!君、裸足で何処へ行く気…………ああ、もう、本当に仕様のない」
あっけにとられた半兵衛を尻目に、見る見るうちに遠ざかる。
口中で何事か独りごち、半兵衛は頭をふった。
清洲から京へは、美濃から近江へ抜ける路と東に下って海沿いに路を選ぶ、二つの道に大別される。
慶次の手土産である団子の店は、美濃路の沿道にあった。
距離は、徒歩にして約一刻。近在の民が行き来する途中、足を休めるには手頃なあたりだ。
その店を目指して、慶次は全力で走っていた。
走って、小枝を踏んづけて、もんどりうって転がった。
「あ、痛ってぇ!」
枝先が尖っていたらしく、足の裏に小さな傷が開いていた。さすがに、このまま走るのは拙い。
「ちっくしょ、時間がねぇってのに……!」
毒づきながら、手ぬぐいで足を巻く。固く縛って立ち上がった時、来た道の向こうから栗毛の馬が駆けてきた。
風に散る、淡い髪色。的確でしなやかな手綱捌きには、見覚えがある。
「……半兵衛?なんでここに?」
「なんで、じゃないよ。まったく」
馬を止め、真横につけた半兵衛は肩で息をしていた。相当、急いで追ってきたらしい。
懐から草鞋を引き出して、慶次の頭の上に落とす。
「どうやら手遅れだったようだけど、無いよりはましだろう」
「俺の草鞋?わざわざ届けてくれたのか」
「まあね。人の家の軒先に置いてゆかれても、迷惑だ」
素っ気ない口ぶりで、半兵衛は肩をすくめた。
―――何しに来たんだろうな、こいつ
ありがたく草鞋を受けとり、緒を結びながら慶次は驚いていた。
迷惑というなら、隣の前田家に預けるだけで済むのである。慶次を追いかけて届けるなど、日頃の半兵衛ならば、無駄な労力と判じるはずだ。
「この先の団子屋に、例の螺子巻きがあるのかい?」
「え、何で団子屋って分かったんだ?」
「そりゃあね、いくら君でも日帰りできない場所なら、それなりに支度をして出るだろう。道々、裸足の派手な男を見なかったかと尋ねてみれば、街道を西に走っていったという。だったら、行き先なんて考えるまでもない」
「派手って、お前」
「地味だと思っているのなら、医者に目を診てもらうんだね」
「………………」
一日中、妙な仮面をつけたまま暮らしている人間に言われたくはない。
慶次は軽く地を蹴り、草鞋で踏みしめた。裸足の時よりは、ずっと足元に力が入る。
「助かったぜ、半兵衛。この礼は、帰ったら必ずするからよ」
身をひるがえして走りかけ、ふと、慶次は背後を見た。
騎乗したままの半兵衛の、馬の首がこちらを向いている。
「……ついて来んの?」
「いけないかい?」
ますます不可解だった。世にも聞こえた賢い頭で、いったい何を考えているのやら。推して知るのも難しい。
「まあ、好きにすりゃいいけどさ」
「言われなくても、そうするよ。急ぐのだろう、早く行きたまえ」
「へいへい。飛ばすから遅れんなよ!」
気合いを入れて、慶次は走り出した。
馬を走らせる半兵衛の方が断然有利だと、気がついたのは暫く経ってからだった。
家族、という言葉を耳にするたび、目に浮かぶ光景がある。
祝言の席、利家の隣で面を伏せ頬をそめるまつの姿だ。
赤の他人同士が杯を交わし、夫婦の絆を誓いあい、家族として結びつく。
血が繋がらなくとも家族になれると、信じることができたのは叔父夫婦のおかげだった。
走る理由はただひとつ。何よりも大切な、絆のために。
「かんざし?」
陽が傾き、吹く風も冷たく影が長く伸びはじめる頃。
慶次と半兵衛は、馬を引いて街道を歩いていた。城下までは、あと少し。夕暮れに追われるように、二人は帰路を急いでいた。
「じゃ、ねぇかと思ったんだよ。細いし、こんな風に稲妻の形に折れててさ、飾り彫りになってて」
結局、目的の物は見つからなかった。
件の団子屋に駆けこんだ時には、既に何処かへと運ばれた後だったのだ。
慶次は、ため息をついた。失意と疲れで足が重い。
「落とし物だと思ったけど、まさか自分の落とし物だなんてな……居合わせた店の客に、そのまま渡しちまって」
「客の行方はわからない、か。手詰まりだね」
「あーあ、どうしよっかな………今から鋳物をあつらえるんじゃ、間に合わねぇし」
なかば自棄ぎみに小石を蹴った慶次を、半兵衛は横目で見た。
「急ぐ理由を、聞いてもいいかい」
「ん?」
「傾いた風体で見た目にこだわる君が、なりふり構わず裸足で飛び出すなんてね。何事かと思うだろう」
「いや、まあ、たいした理由じゃないんだけどよ……まつ姉ちゃんがさ」
慶次は照れくさそうに頬をかいた。
「毎年、この日になると言うんだよ。利と祝言あげて何年目だ、って。女の人って、結構そういうの数えてたりするみたいだな。ねねも似たようなこと、前に言ってたし」
「それで、京から舶来物を?」
「二人には、世話になってるから。あの箱に入ってる音、神様の子供を授かった夫婦の歌らしいぜ。それを聞いて、絶対これがいいと思ったんだよ。でもなぁ……」
子を授かる夫婦の歌。
けれど、どんな由来の歌も聞くことができなければ無意味だ。
慶次の話に耳を傾け、半兵衛は考えこむように腕を組んだ。
「………君は、それでいいのかい?」
「何が?」
「もしも、子供が産まれたら」
血脈ゆえに、前田の家督は慶次の父から利家へと継がれた。利家に子が産まれたなら、家督はその子や孫へと継がれてゆく。
「いいんだよ。それでも俺が、家族だってことには変わりねぇんだから」
慶次は笑った。
「……君は、変わってるね」
半兵衛は、ぽつりと呟いた。
「なんだよ、お前にだって家族はいるんだろ?」
「武門の一族にとって、家督の安堵は何にもおいて重要だ。嫡子以外は予備にすぎない。僕を含めてね」
「そんな言い方すんなよ」
「事実だよ。今どき、骨肉の争いなんて珍しくもない。僕は昔から身体が弱くてね。家督を継いだ時も、僕が早死にして弟が家長に立つだろうと、皆が当然のように思っていたし」
「お前、弟が嫌いだったのか」
仮面の下で、半兵衛は長い睫毛をゆっくりと伏せた。
「………誰にも、どうしようもない事はある」
「そうじゃねぇって、好きか嫌いか聞いてんだぜ」
「だから、仕方がないと言ってるだろう」
「あー、何でわかんねぇかな」
慶次は顔をしかめた。なんだか会話が空回りしている。
「君はいったい、僕に何を言わせたいんだ?訳がわからないよ」
「難しい話じゃねぇっての。単純な二択だろうが」
不毛な言い合いに、二人は往来の真ん中で睨みあった。
―――頭が良すぎんのも、考えものだな……
好きか嫌いか、答えは胸に問うだけでいいはずなのに。
論点を理解していない半兵衛の瞳を、寂しい目だと慶次は思った。
なんとなく手を伸ばし、一段低い位置にある真白い髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。
「………本当に変な男だね、君は」
いつぞやのように殴られるかと身構えていたのだが、半兵衛は大人しかった。
「まあ、いい。君がそう考えているのなら、可能性を追求してみるのも悪くないだろう」
もつれた髪もそのまま、思案するふうに首を傾ける。
「慶次君、君が螺子巻きを手渡したご婦人の特徴は?」
「え……っと、若草の小袖に茜の帯の旅姿で、髪の先を丸くまとめて簪をさした、あんまりこの辺りじゃ見ない感じの美人だったな。でっかい行李に、子供と猿を連れてた」
「どういう身の上の人だと思う?」
「どうって」
「ごく当たり前の身分の女は、旅なんかしないよ。垂れ髪が主流のご時世に、簪で髪を束ねる奇抜な格好、おまけに猿まで連れている」
「旅芸人?」
「軽業か、猿回しか。君のように、趣味でそんな姿をしているんじゃない限り、可能性は高いね」
「お前、いちいち一言多いな」
慶次の抗議を、半兵衛はあっさりと聞き流した。
「女子供だけで辻芸をするなら、必ず土地の筋に話を通すはずだ。街道を下ったにしろ上ったにしろ、清洲で稼いだなら手がかりはある」
「って、ことは」
「万に一つ、見つかることがあるかもしれないね」
慶次は、まじまじと半兵衛を見た。
「お前、やっぱ頭いいな」
「それはどうも」
「なのに、どうしてだろうな」
「何が?」
不思議そうに、こちらを見返す澄んだ眼差し。
半兵衛の智謀を指して、人は今孔明と呼ぶ。誰もが羨む才能が、これほど不幸に見えたのは初めてだった。
「慶次君?」
「何でもねぇよ。独り言」
もう一度、半兵衛の頭をなでた慶次は、次の瞬間、強烈な肘鉄をくらってよろめいた。
「ぅおっ、と!何すんだよ、こら」
「……君といい秀吉といい、まったく呆れるくらいに頑丈だね」
かろうじて踏みとどまった慶次に、ち、と舌打ちする。
肘の角度だの初速の勢いがなどと、物騒な呟きが後に続いた。
「なに研究してんだよ、お前……」
禍福のいずれかはさておいて、その才は確かに半兵衛をして学習させていた。
この次は蹴りがくるかもしれないと、暮れなずむ空を仰いで慶次は考えた。
身の生計として芸を売る人々を、俗に河原者などという。
文字どおり、無税の地である河原に住まいすることが多いからだ。
城下にたどりついた慶次と半兵衛は、川沿いに道を選んで女の行方を尋ね歩いた。主に慶次が話しを聞き、半兵衛は後ろに離れて馬を引く。
鞍を置いた軍馬を見れば、開く口も開かなくなるというのが半兵衛の言い分だが、奇妙な仮面を着けた姿は慶次と同じくらい道化ているのだ。誰も半兵衛を武士とは思うまい。
もうすぐ陽が落ちる。慶次は焦りはじめていた。
「なあ、半兵衛。やっぱり二手に分かれて聞いたほうが」
言いかけた慶次を、半兵衛は指を立ててさえぎった。
「慶次君、あれ……」
水面に枝を張り出した大きな川柳。糸のように細い末葉にまぎれて、何かが動いている。
子供よりも小さく、すばしっこい影。
「猿だ」
「しかも、よく見て」
布の端切れだろうか。可愛らしく首に結んだ帯の後ろで、きらりと光るものがある。
夕闇せまる最後の光が、かろうじて映した細い軸。
「かんざし!」
「螺子巻きだよ」
半兵衛は冷静に慶次の言葉を訂正した。が、慶次は聞いていなかった。
そろりと柳の根元に近づき、一番下の枝に足をかける。
「まさか登る気かい?それは、さすがに無茶だろう」
幹がどれだけ太くとも、柳の枝は細くて良くしなる。おまけに猿は天辺の枝にいるのだ。
「平気、平気。俺、木登り得意だし」
見上げる半兵衛に答えて、するすると登る。自分で得意と言うだけあって、巧みな身のこなしだ。
しかし、下で見守る半兵衛は冷や冷やしていた。
上に登るにつれ、大柄な慶次の体重に柳がたわんでいる。
「よーし、いい子だ。動くなよ……あと、ちょっと」
幹に爪先をかけ、ぎりぎりまで腕を伸ばす。猿の目の前で、ちょいちょい指を動かしてみせた。
興味をひかれた猿が、ぴょいと跳ねて近づいてきた。
首元の帯に指をひっかけ、素早くつかまえる。
「よっしゃ!……っ、ええ!うわわ」
掴んだ瞬間、限界までたわんだ枝に爪先が滑った。真っ逆さまに落下する。
下は浅い川縁だ。頸を折るか腕を折るか、いずれ無事では済まない。
「慶次君!」
半兵衛が叫んでいる。
ぐん!と強烈な負荷が慶次の身体を振りまわした。水しぶきが高くあがる。
「……………あれ?」
慶次は目を見開いた。爪先が川底についてない。宙づりにされて首が苦しい。
「慶次、怪我はないか?」
「秀吉!?」
よくよく見知った隣家の主が、呆れた顔で慶次を見下ろしていた。
どうやら、空中で慶次の襟首をつかんで止めてくれたらしい。人並み外れた剛腕だからこそ出来る芸当だ。
「半兵衛が出かけたきり帰らぬと、ねねが言うものでな。探しておったが、二人ともここで何をしておるのだ」
岸辺に上がり、秀吉は襟を離した。膝からずぶ濡れの慶次に、半兵衛が手ぬぐいを差し出す。
「ごめん、秀吉。心配をかけた」
「悪いな。ちょっと探し物でさ」
叱られた子供のように、二人そろって首をすくめる。
とばっちりで濡れた秀吉は、自分の手ぬぐいを使って身体を拭き、少し笑った。
「我は構わぬが、慶次。夕餉の席が揃わぬと、まつ殿が機嫌を損ねていたぞ」
「うわ、まずいな」
今日は特別な日なのだ。怒らせるのはよろしくない。
慶次の腕できぃきぃと騒ぐ猿の首から、帯留め代わりに差しこまれた軸を半兵衛が引き抜いた。
とたんに帯がほどけ、猿が逃げ出す。
「あ、行っちまった」
「慶次君、間違いないよ。ほぞの形が一致してる。これが、君の螺子巻きだ」
「本当か!」
慶次は目を輝かせた。
「やれやれ、これで一件落着だね」
「何かは知らぬが、良かったではないか。慶次、急ぐなら貸してやるから馬を使え」
半兵衛が連れていた栗毛の馬の、轡をとって慶次に渡す。
もともと半兵衛は馬にこだわりがない。ゆえに隣家の飼い馬は、すべて秀吉のものだった。
「恩にきる、秀吉。乗らせてもらうわ」
実をいうと、手当てもせずに走ったせいで足の裏の傷が擦れて痛んでいた。
たいした傷ではないものの、そう速くは走れそうにない。
「ほんと助かったぜ。ありがとうな」
「礼なら、言葉ではなく形で欲しいね。僕は、あの団子屋の白玉がいいな」
「そんなに気にいったのかよ。わかった、店にあるだけ買い占めてやるから好きなだけ食え」
「一度にそれだけ食べられないよ。もったいないから日割りにしてくれ」
「案外、吝嗇だな。お前……」
「我は一括で構わんぞ」
「って、秀吉お前も食うのかよ!お前はそれじゃ足らねーだろうが!」
「ふうん?きちんと謝意を示すことも出来ないなんて、前田家の男子にもあるまじき行いだね」
「うむ、まつ殿が聞いたら何と言うだろうな」
「おーまーえーらー」
息をあわせて畳みこむ二人のやり取りに、慶次は歯噛みした。
「くっそぅ!後で絶対、嫌っていうほど食わせてやるからな。覚えてろよ!」
借り受けた馬の鐙に足をかけ、鞍上から言い捨てる。
走りだした背後で、笑い声が弾けた。
城下といえど、わずかな盛り場を過ぎれば灯りひとつ無い夜の闇が降りてくる。
「……行ってしまったね」
「間に合えば良いがな」
遠ざかる馬蹄の音を並んで見送り、二人も歩きだした。
ひんやりと漂う夜気を透して、涼やかな虫の声が鳴り響く。道の端に茂る下草が、爪先を露で湿らせた。
「それにしても、君の友人は変わってるね」
「何かあったか」
秀吉は、言葉を控えて短く尋ねた。性格の違いからか、半兵衛と慶次は何かと諍いが多い。
「何もないよ。無いどころか、半日も行動を追ったのに何ひとつわからなかった」
軽く笑った半兵衛は、こころなしか消沈しているようだった。
真の気性は苛烈であるものの、半兵衛は争いを好まない。慶次と衝突するのは、それだけ相手を理解しようと望んでいる証左だ。
「前に、話したことがあっただろう。兵法の五徳は、知・信・仁・勇・厳だと」
秀吉は、慶次の去った先を顎で示した。
「あれが仁だ」
半兵衛が僅かに目をみはる。
「彼が、僕らに『欠けたるもの』だというのかい?」
「おそらくは、な」
理詰めの半兵衛に、慶次の直情は理解できまい。
半兵衛は、人の心を能く読む。だが、それは人の情を読むのではなく、人の欲を読んでいるのだと、秀吉は思う。
愛欲、物欲、功名心に征服欲。なべて、人は自らを満たすために動いている。
無欲ゆえにか、半兵衛は掌をさすように他人の欲を見抜いた。故に、謀略に強い。
だが、慶次の行動は情愛であって愛欲ではないのだ。理解しがたいのも無理はなかった。
「だとしたら………彼を、連れては行けないよ」
「わかっている」
秀吉は重い息を吐いた。
捨ててゆくもの、捨てざるをえないもの。
誰にも理解されない道を行こうとしている自分達には、背に負えないものが多すぎる。
せめてもの償いに、自分達がここを去り忘れ過ぐるその後も、息災であってくれと願うばかりだ。
「ヲルゴルナ……どんな音色か、聞いてみたかったな」
ちょっと残念、と半兵衛は肩をすくめた。
「折りをみて、頼んでみればよかろう」
「いや、いいよ。きっともう、この先そんな時間はないだろうし」
「……動いたか」
「うん。そろそろ、ここも危険だ」
うつむきがちに歩を進める半兵衛の、ふわりと跳ねた白い髪を撫でてやる。
秀吉の大きな手を頭に乗せたまま、半兵衛は唇をとがらせた。
「僕の頭は、そんなに撫でやすい形をしてるのかい」
「泣くな」
「―――?泣いてなんかいないけど」
「そうか。ならばいい」
半兵衛は、自分が今どんな顔をしているのか分かっていない。
仮面にあらかたを隠しても、自覚のない悲哀はこぼれおちる。それは自分も同じなのかもしれなかった。
「帰るぞ。ねねが心配しておる」
「そうだね」
いずれにせよ、天意を問う定めの時は近づいている。流れを止めることは、もう出来ない。
闇に紛れ、先の見えない道を二人は歩いていった。
□ END □
作中にあるような櫛歯を弾くタイプのシリンダーオルゴールは中世の日本には存在しませんが……。