春のかたみ
曇天に煙る白日が遠く傾きかけるころ、わずかの手勢を率いて大きな影が庵に現れた。
「……ちゃんと捕まえられたかい?」
「抜かりはない。何をしてでも必ず吐かせる。案ずるな」
「まあ、誰の差し金か、おおむね見当はついているけどね」
難しい顔の秀吉を、半兵衛は何事もなかったかのように出迎えた。
「それにしても、総大将じきじきのお出ましとは思わなかったよ」
軽く上げた目線に、非難の色が混じっている。秀吉は肩をすくめてみせた。
「我に抜かりはないと言ったぞ。他の仕事は全部、官兵衛に任せてきたわ」
「なにを威張ってるんだ。本当にもう、君ときたら……」
声をたてて笑いかけ、半兵衛は咳きこんだ。
戸板が破られた庵の中は、冷たい風が吹きさらしていた。ありったけの布をかぶせられ、身動きもままならぬ半兵衛を、秀吉は抱き上げた。
「輿を用意した。このまま京へ向かえ」
「……?今度は何の企てだい?」
「以前に話していた京の医師に渡りがついた。万事、小一郎が手配しておる。後はお前が行くだけだ」
「嫌だ」
短く、だが、きっぱりと半兵衛は拒絶した。
「聞き分けろ。お前を失うわけにはゆかぬ」
「聞き分けがないのは君の方だよ。どんな名医でも、どんな高価な薬でも、僕の死はくつがえせない」
息の細い声音は、決して強くはなかった。けれども揺るぎなく犯しがたく、秀吉に反駁を許さない。
「……………」
秀吉は、黙って半兵衛を抱えなおした。
戦場に在ったころ、自分の半分にも満たない半兵衛の痩身を、小さいと思ったことはなかった。
それが今は、ひと回りもふた回りも小さく軽くなって腕の中にある。
病が進み、とうとう床を離れることすら叶わなくなった時。
嘆いても悲しんでも、この病は治らない。ならば涙は流すだけ無駄だと言って、半兵衛は笑った。
実りのないことに時間を費やすほど、自分は暇ではないのだと。
最期の時間は、後に遺す者たちのために。
苦痛をねじ伏せてでも、微笑んでみせる鉄の意志。
彼が夢を共にした、無二の友はそういう男だった。
「調略に奔走しておるが」
言いたくはなかった言葉を、秀吉はため息とともに吐きだした。
「西国の連中の忠義は猫の目ほどによく変わる。播磨の情勢は一進一退だ。戦となれば、お前の軍略は我らの切り札ぞ」
「戦か……いつ頃、兵を発するつもりなんだい?」
「知らぬ。毛利に聞け」
半兵衛は目を丸くして、秀吉を見上げた。
「我が奥の手を必要とする時まで、生きて在れ。これは命令だ」
「……謹んで拝命しよう」
苦虫を噛んだような顔の秀吉に、半兵衛は苦笑をもらした。
この主命は、諸刃の剣だ。
半兵衛の身を案じるならば、秀吉は戦上手を通さねばならない。
ひとたび豊臣が劣勢に傾けば、半兵衛は必ず戦場に立つ。秀吉の為に策を紡いで、陣中に斃れるだろう。
一日でも長くと、勝ち続けることで友の生命を願い。
一日でも多くと、生き続けることで友の勝利を願い。
互いを思えば思うほど、命数尽きる日を算じかね、憂いを重ねることになる。
「我が侭を言って、すまなかったね」
それでも言わせてしまった事を恥じて、半兵衛は詫びた。
秀吉は鼻を鳴らして、それを一蹴した。口元に太い笑みをはく。
「何を言うか。お前ほど我欲の薄い者は世におらぬぞ」
「買いかぶりだよ、それは。僕にだって欲しいものはある」
「ほう?」
「これ、京へ持って行けないかな」
布の端から指先を出し、半兵衛が示したのは花を活けた鉢だった。
あでやかな紅梅を中心に、初春の花が野放図にあふれている。
「水を減らして、綿を詰めれば運べぬこともないな。しかし……さほど良い出来とも思えんが」
「梅が枝に花の姿の無かりせば、さ」
半兵衛は短く詠んで、下の句を続けなかった。
察するに、花が咲かなければ梅とは知らぬ不明を嘆くか、花を見なければ芳香を悟れぬ不粋を揶揄する歌のようだが。
不審に思う秀吉に、半兵衛は目を伏せて言った。
「その花、活けたのは慶次君だよ」
「慶次め、まるで上達しておらぬではないか」
一途で加減を知らない秀吉とは違い、慶次は器用な分だけ目移りが激しかった。
何事もそこそこにこなすが、腕を上げるよりも早く、興味が他にそれてしまう。
「そうなのかい?まあ、大器は晩成なり、とも言うからね」
「褒めておるのか、それは」
「さて、どっちだろう」
年齢を重ねてから成功をつかむ者を、大器晩成と言う。だが本来、老子の説く大器晩成は、無限に大きな器は永遠に未完成である、という意味だ。
「賭けてみないか、秀吉」
「うむ?」
「僕の策が成就するか、否か。それは慶次君しだいだからね」
「慶次が大成するとは思えぬが」
「それじゃ、賭にはならないな……」
口ぶりだけは皮肉げに深く吐息をついた半兵衛は、どこか嬉しそうに見えた。
夢見るような遠い眼差しが、落ちた瞼に閉ざされる。
「半兵衛?」
「……うん……」
まどろみかけている、その安らかな表情を妨げるのは気が引ける。
けれど、あまりに無垢な微笑に秀吉は背筋が寒くなるのを堪えられなかった。
「眠ってはならぬ、半兵衛」
「ん……大丈夫、君の命に背く僕だと思うかい……ああ、そうだ。秀吉」
「何だ?」
「殺しちゃ、駄目だよ」
目を開けるのは、辛いのだろう。白い睫毛の先が震え、小さく瞬く。
「この先、どれだけ僕が生きても、どれだけ君に策を献じても。前田慶次が僕の最後の策、最期の形見だ。忘れないでくれ」
「どういう事だ」
「君が天寿を全うする頃に、わかるよ………」
つぶやきとも喘鳴ともつかぬ声で囁いて、言葉は途切れた。
ふつり、と糸が切れたように眠りに落ちた半兵衛を輿に乗せ、秀吉は出立を命じた。
昏々と眠り続ける頬は血の気が失せて青白く、枕元に据え置いた鉢の、真白い綿からのぞく花は血を吐いたように紅い。
その色彩の忌々しさに、梅花を捩じ切りたい衝動にかられ、秀吉は拳を握りしめた。
さりとて、滅多に物をねだらぬ半兵衛が欲しいと望んだこの花を、壊してしまうわけにもいかない。
半兵衛には、欲というものがまるで無い。
総大将に次ぐ兵権を持ちながら、半兵衛個人の禄高はあきれるほど低かった。戦において諸将を指揮するものの、直属の部下は数えるほどしかいない。
俸禄は暮らすに足れば、それで充分。一軍の将として兵を養えば、軍師としての機敏さを欠く。
そう言って、半兵衛は報償を拒みつづけた。
それは新興勢力の豊臣の下に、野心をもって参じた武将達との確執をふせぐ、世知なのだろうと思っていたが。
今になって、ふと思う。
半兵衛の本来の望みは、初めから、非常にささやかだったのではないか。
自分に逢うことさえなければ、半兵衛は戦ばかりの乱世を見限り、世を捨てて穏やかに暮らしていたのではないか、と。
その半兵衛に、稲葉山城にて相まみえ、百年の夢を吹きこんだのは他ならぬ自分だ。
あれほど蔑んでいた国取りの戦に采配をふるい、見事なばかりの屍の山を築かせて。
挙げ句の果てに、病に痩せほそり倒れてなお、戦に備えよと命を下してしまった。
―――それでも、あれは詫び言すら言わせてはくれぬ
懺悔を口にすれば、半兵衛は厳しく自分を叱るだろう。
過去を振りかえることは、許されない。
最初に犠牲を出してしまった以上、後ろを顧みて悔やむのは死者への最大の侮辱だからだ。
―――前だけを見て、進め
―――百年先の未来のために
そうしていつか、自分は半兵衛のことも忘れねばならない。
忘れるなと半兵衛が言った、ただ一つのことを除いて。
「最期の形見、か」
輿に随伴して馬を歩ませ、秀吉は呟いた。
暮れなずむ山野は、雪解けの水を含んで黒々とした土肌を露わにしている。
沿道のどこかで、花開いているのだろう。野に咲く花の微かな香りが漂っていた。
「……天寿を全うする頃とは、また遠いな」
何を案じて、どのような手を打ったのか。おそらく半兵衛は明かすまい。
だが、その策は必ず自分とともに在る。
目には見えずとも、この先ずっと。
清々しくも匂やかな、この早春の風のように。
□ END □
本来の意味は、真に大きな器は大きすぎるゆえにいつまでたっても完成しない。
つまり、本当の大人物は未完成であるように見える、ということらしいです。