春のかたみ



 気がつけば、暦は春を示していた。
 薄暗い庵のなか、淡い陽光が障子を白く滲ませている。
 山里には芽吹きの兆しもあるというが、病の身では確かめようがなかった。

 おそらくここが、終の棲み処。
 外に出ることは二度とあるまいと、覚悟はできていた。



「西国に交易船?」
 眉をひそめた半兵衛に、男は深くうなずいた。
 行商に身をやつしているが、配下では一番の手練れの者だ。
「硝石のようでございます。このところ頻々と、取引を行っておりますれば」
「ふうん……それで、対価は何を」
「大半は銀にて。他には漆や螺鈿の細工ものと食料を」
「やれやれ、秀吉も頭が痛いだろうね」
 半兵衛は小さく息をついた。
―――どこもかしこも、火種ばかりだ……
 硝石は鉄砲の弾や爆薬には欠かせない原料だが、大半が輸入品だ。それを続々と買い付けているとは、どう考えてもきな臭い。
 その上、決して安くはない取引を何度も銀で贖えば、豊かな銀山の存在は広く異国に知れわたる。
 ただでさえ、黄金の国などと馬鹿げた噂がされているのだ。欲得ずくな南蛮人の妙な野心を煽らなければよいが。
「ご苦労だった。秀吉に文を書くから、君が城へ届けてくれ」
「かしこまりました」
 紙と筆を用意させて、全員を下がらせた。
 筆の穂を墨にひたして、最初の一文を思案する。
―――秀吉は、よい顔をしないだろうな……
 療養に専念せよと、この庵に自分を押しこめた時の、彼の剣幕を思えば可能性は高い。
「……それとも、見透かされてるかな」
 熱っぽい額に手を当て、苦笑をこぼす。
 身の回りの世話のため、庵に付けられた者は、そろって精悍な面構えをしていた。
 あまりの物々しさに思わず笑ったものの、さて、その真意はといえば、いささか考えざるを得ない。
 強情な病人を、大人しく寝かせておくための見張りなのか。
 あるいは。
―――襲撃があると知られているか、だ
 城を出る前に、意図して張りめぐらせた罠は、そろそろ動きだしているはずだ。
 流されるのは自分の血か、他人の血か。
 いずれにせよ、謀議の芽は一つでも多く摘んでおくに限る。
「こればかりは、芽吹きを待つとはいかないからね……」
 小刻みに震え、咳きこむ喉をなだめながら、上申をしたためた。
 丁寧に文を結び、部下に託す。
 筆と硯を洗って片づける頃には、まるで全力の行軍の後のように息が切れていた。重い疲労に、頭が上がらない。
 高熱。喀血。激しい咳の発作。
 起きていられる時間は、日に日に短くなっていた。
―――あと、どれくらい動いていられるだろう……
 吸うことも、吐くことも、ほとんど出来ない息のかわりに。
 死にかけた肺を満たすのは、まだ見ぬ場所への郷愁だった。
 強く豊かに、誰もが虐げられることなく生きる国。
 いまだ地上に実現しない、遠い未来への望郷。
「……秀吉……」

 あの日、君が僕に示した夢は、今もこの胸に生きている。





 夜ごとの高熱にうなされて病み疲れ、枕から頭の上がらぬ日々が続いた。
 肺病の熱は、夜に高く朝に低い。
 うつらうつらと浅い眠りと発作をくりかえして、たまさか目を覚ました折に、思いもよらない来訪者があった。
「慶次……君?」
「よう、久しぶりだな。お前が寝こんでるって聞いてさ、あ、これ土産」
 半兵衛は目をしばたたかせた。
 夢――ではないようだ。
 慶次が突きだした紅梅から、馥郁とした強い香りがたちのぼる。
「……春の匂いがする……」
 冬から春へ。庵の外で四季は確かに移ろっているのだと、半兵衛は微笑んだ。
 鮮やかな芳香を浴び、熱に浮かされた思考がくっきりと晴れ渡る。 
「不調法ですまないね。先に使いをだしてくれれば、ちゃんと床を上げておいたんだけど」
「あ、いや……」
 非礼を詫びた半兵衛に、慶次は気まずそうに目線を泳がせた。
「悪いのはこっちだ。宿をとらずに直接、来ちまったから」
 落ち着かない様子の慶次を横目に、半兵衛は身を起こした。
 とたんに、咳が喉をついて出る。
「おい、無理すんなって。寝てろよ」
「……大丈夫。今日は、調子がいいんだ」
 強がりであることは、悟られているだろう。半兵衛は心のうちで嘆息した。
 慶次の態度は、非常にわかりやすい。
―――秀吉が知らせたな……
 面と向かえば互いに否定しあうくせに、どうしてこんな時だけ通じあうのか。二人の関係は、昔から半兵衛には不可解だった。
「それに、この香りを肺の奥まで吸いこめるなら、咳をするのも悪くない」
「そんなに匂いが強いか、この梅」
 慶次は、しきりにこちらの容態を気にしているようだった。
 らしくもない渋面の、寄せた眉の深い皺がうっとうしい。
 どこまで聞いたかは知らないが、辛気くさい見舞いを言われるのは御免だった。
「君は鼻が慣れているんだよ。こうすれば……」
「何すんだ、こら!」
 梅花の香りにかこつけて、指をのばし鼻をつまんでやる。案の定、表情が崩れた。
「ほら、ね、いい香りがするだろう」
 笑う半兵衛に、慶次は子供じみた仕草で唇をとがらせた。
「お前な………おい、そんなに笑うなって」
 その拗ねた顔がますます可笑しくて、笑いが止まらなかった。
 慶次には悪いが、これだけ笑ったのは城を出てから初めてかもしれない。
―――でも……
「何がそんなに可笑しいんだよ、いいかげんに……」
―――ああ、やっぱり駄目か
 震える胸骨の底から、ひやりと悪寒がこみあげる。
「半兵衛?」
 懸命にこらえた喉が、ごぼりと鳴った。
―――血が、
 手のひらに散る赤。鉄錆じみた、肺腑の匂い。
 一度、咳きこんだら、もう止まらなかった。
「半兵衛、お前…!」
「ごめ……ん、せっかく、来てくれ、た、けど……」
 会うべきではなかった。
 見せるべきではなかった。
 過去のいきさつを置いてまで、身を案じてくれた慶次の心は嬉しいが、これでは負い目が残るばかりだ。
「半兵衛……!」
 横倒しに崩れた身体を、慶次があわてて支える。霞む視界で見上げた顔は、悲痛にゆがんでいた。
 胸が苦しい。

 もう、ここから動けなくても。
 ほんの少しでいい。
 夢見た場所へ、近づきたい。
 それすら叶わぬものならば、
 せめて、

 せめて―――――………



 突然の見舞いの、その後。
 何を思ったか、慶次は毎日のように足繁く庵を訪れた。
「なーんか、この部屋、色気が足んねぇんだよな。殺風景っていうかさ」
 現れた慶次は、腕いっぱいに華やかな初春の花を抱えていた。
 色とりどりの艶やかな梅に、つつましくも可憐な野の花がよく映える。
 暗い庵の中が、やわらかな春の匂いで充ち満ちた。
「この花……一体、どこで摘んできたんだい」
 記憶にあるかぎり、近在の宿場からこの庵までの道筋に、紅梅はあっても白梅や唐梅はなかったはずだ。
「へへ、毎日同じ道もつまんねぇから、山のなかを通ったり、村のなかを通ったり、いろいろとな」
「君ね、そのうち山で迷って野垂れても知らないよ」
 憎まれ口をたたきながら、半兵衛は内心、眉をひそめた。
 豊臣には敵が多い。とりわけ、自分には敵が多い。
 この庵を狙う者がいる今の状況で、慶次の行動は不用心にすぎる。
 どこで曲者と鉢合わせるか知れないのだ。できるだけ人通りの多い、ありきたりの道を通ってほしい。
 何よりも、もうここには来ないようにと言いたい。
 けれど。
「何か器になるもの貸してくれ。しおれねぇうちに活けとかないと」
「活ける?君が?」
「まあな。何だよ、その顔は」
「いや……何でもないよ」
 何故だか、それを口にする事ができなかった。
 ためらう半兵衛の枕元で、鋏と鉢とを借りうけた慶次が、鼻歌まじりに枝を詰めてゆく。
「やっぱ、逢坂のほうが春が早いな。京は、まだまだ底冷えが厳しくってさ」
 無造作に高さを整え、花が次々と鉢に投げこまれる。
 手を動かす隣で、ぽつりぽつりと交わす会話には、穏やかな空気が漂った。
「京での暮らしはどうだい?」
「そうだなあ、喧嘩したり恋したり飯くって酒のんで遊んだり」
「本当に相変わらずなんだな、君は」
 問われて語る慶次に、半兵衛はあきれた目線を投げた。
「いいじゃねぇかよ、別に。あ、近所に越してきた長唄の師匠がさ、これまた美人で……うぉっ、わかった!わかったから、その鋏をおろせ!危ねぇだろうが」
「くだらない事しか言えない舌なら、切ってしまった方がいいかと思ってね」
「閻魔さまかよ、お前は」
 ぼやきながら、半兵衛の手から鋏を取りあげる。
「そうだな、あとは……最近、ちょっと変わった喧嘩をしたな」
「変わった喧嘩?」
「喧嘩ってのは、殴ったり刀交えたり、実力がある方が勝つもんだろ」
「口喧嘩というのもあるけど」
「それだって、言葉の達者なヤツが勝つだろうが。そうじゃなくってさ、負けてんのに勝ったんだよ」
 意味がわからない。半兵衛は枕の上で、首を傾けた。
「負けて勝つということかい」
「違う、違う。あー、なんて言やいいのかな」
 とりとめなく冗長な慶次の説明を、かいつまむと話はこういうものだった。
 京の都に、強引な手腕でなりふり構わず利益をあげる大商人がいた。
 市を牛耳る豪商に、身ひとつの振売や小口の商人などが意見できるはずもない。無体な仕業に泣きをみる者が続き、行き詰まって困窮するにいたって、慶次と仲間たちは一計を案じた。
 始めは、ちょっとした噂話から。知恵と機転をはたらかせ、泣きをみた者同士が裏でそっと手をつなぎあい、とうとう最後に大商人を市から放りだすことに成功したのだという。
 数ならぬ身の人々が、一滴の血を流すこともなく。
「ふうん……それは確かに、面白いね」
「だろ?」
 熱をおびた息を吐いて、半兵衛は考えた。
 秀吉と慶次。二人の気質は、相反するものとばかり思っていたが。
―――案外、似たもの同士じゃないか……
 私欲と名利に明け暮れ、国土を荒らし民を踏みにじる者たちに武力で抗し、軍を興した秀吉と。
 人と人、踏みにじられた民を繋いで、非力なままでも抗えることを示した慶次と。
 外なる力と、内なる力。
 形は違えど、その本質は同じものだ。
「……うん、悪くない……」
 半兵衛は瞼を閉じて、微かに笑った。
 度し難く乱れるこの世を変えるため、秀吉は高みを目指している。天下をあまねく掌握して、百年の計に着手すべく見渡した民草のなかに、慶次と、慶次に感化された人々を見いだしたなら、彼はどんな顔をするだろう。
 瞼の裏の想像は、素直に心を温めた。
 その時、自分は彼の隣には居ないけれど。

 たぶんそれは、悪くない光景だ。





□ END □

もうちょっと続きます。