春のかたみ
夜半、ふいに半兵衛は目を覚ました。
誰かに呼ばれたような気がしたのだが。
灰をかぶせた火鉢、炭箱、文机の長い影。暗い室内は、物音ひとつなく静まりかえっている。
―――いや、
半兵衛は、ゆっくりと身を起こした。
―――……来る。
自分でも説明できない何かが、そう告げている。
この病も末期、そろそろ彼岸が近いのだろうか。いつになく五感が冴えわたり、指先まで神経がゆきとどく。
身体が軽い。
それは戦場の感覚に似て、ふつふつと胸を沸きたたせた。
策に嵌め、いぶりだした獲物が今まさに罠へと足を踏み入れようとしているのだ。
―――さあ、来るがいい。
知らず、暗闇に笑みがこぼれる。
この庵を襲う者は、かならず逃がすようにと配下には命じてある。
近隣の村人に、馬を引く馬喰に、炭焼きの杣人に。目立たぬよう土地にとけこんだ幾つもの監視が、庵を包囲していることに、襲撃者は決して気づくまい。
餌を食いちぎり意気揚々と巣に戻る、その背を黙々と尾行する影があることなど、思いもよるまい。
おびきよせ、わざと取り逃して泳がせ、敵の正体を確実に暴く。
これは、最初からそういう罠だった。
いかに面従腹背の臣とわかっていても、証拠もなく処断は下せない。まして、その裏に他国との密約が臭うならばなおさらだ。
秀吉が庵につけた者たちや慶次の出現は、いささか想定外ではあるものの、目論見どおりに計画は進んでいた。
闇に神経を研ぎ澄ませ、枕元の剣をひきよせる。
寝具の上で膝をたてた、その時。
こつり、
という音を前触れに、激しい音をたてて雨戸が蹴破られた。
荒々しい気配が嵐のように進入し、続いて襖も打ち倒される。
―――月が綺麗だ。
さっぱりと見通しのよくなった部屋の向こうに、月光の降りそそぐ庭木を見て、半兵衛は場違いな感想をいだいた。ほのかに白い庭を背に、襲撃者の輪郭が黒々と際だつ。
その影をめがけて、半兵衛は炭箱を蹴倒した。
病の身で敵にかなうとも思えないが、それでも武門の意地として、ひと太刀ぐらいはあびせたい。
鞘を抜きはらい、構えたその時、
「半兵衛さま!」
抜き身の刀を引っさげて、小者が飛びこんできた。襲撃者の影が大きく揺れる。
「駄目だ!来るな!」
とっさに、半兵衛は叫んでいた。ここで曲者を討ちとってしまえば、策は台無しだ。
そう考えての事だったが、おのれの迂闊さに気がついたのは、不覚にも眼前に刃が迫ってからだった。
何のことはない。
今の応答で、自分が竹中半兵衛であると明言したようなものだ。
めざす首級がこれであると知れたなら、敵もためらうわけがない。
―――ああ、これが僕の死か。
刹那の感慨に、半兵衛は目を閉じた。
いままで、どれだけ人を殺めてきただろう。
夢みた世界のために、いったい幾人を犠牲にしてきたことか。
いまさら、自分の命を惜しむなど許されるはずもない。
閉じた目蓋の暗闇に、身を任せる。
最期の一撃を、避けるつもりはなかった。
だが、
『慶次……あのひとを、責めては、駄目……』
その言葉が耳に甦った瞬間、半兵衛は動いていた。
殺意をこめた太刀筋が、空をすべる。
紙一重で逸れた刃は、そのまま隣の小者の頸を斬り裂いた。
「―――……!」
無声。
長く尾をひいて、血飛沫があがる。
襖を赤く染めた向こうから、怒号とともに人がなだれこんだ。
「半兵衛さま、お早く!」
下男に腕を引かれ、抱えられるように庭へと逃れる。
枝折り戸の影で、こらえきれずに半兵衛は膝をついた。
―――何故だ?
眼前の死を避けたばかりに、一人が身代わりに斬られた。
この先、たかがしれた命だ。惜しむつもりなど毛頭ない。
それなのに、死ねないと思ってしまったのは。
―――ねね殿……
秀吉でも自分でもなく、慶次に向けた彼女の最期の言葉。
それが何故、間際に自分を動かしたのか。
わからない。
来襲と同じくらい唐突に、襲撃者たちは闇に紛れて消えていった。
引き際の鮮やかさは、訓練されたものに違いなく、いずれの郎党か忍びの者に相違なかった。
夜明けとともに、散々に荒らされた庵の有様があらわになるにつれ、半兵衛は憂鬱になってきた。
手筈のとおり、配下が襲撃者を追っている。さながら猟犬のように。
そうして追われる獲物が行きつく先は、罠と相場が決まっているのだ。
帯刀したまま後かたづけに働く下男のひとりから、山一つ向こうまで、兵が出張っている事を知らされて、半兵衛はため息をついた。
的を絞って仕掛けた自分を利用して、大きく網を張った秀吉の方が、今回は一枚上手だったということだろう。
平素からそのように、あうんの呼吸で動いてきた仲だ。不快ではなかったが、
―――無為に死なせてしまったな。
土間に寝かされた遺体が、ただただ申し訳なく、半兵衛は静かに唇を噛んだ。
「……一体、何があったんだ」
慶次が庵を訪れたのは、鈍く光る冬の日射しが中天にさしかかった頃だった。
いつものようにやって来た訪ね先の、ただならぬ様相に仰天したのだろう。
問う面差しは鋭く引きしまり、いつになく険しい。
「刺客だよ。放っておいても先は見えているというのに、ご苦労なことだ」
慶次が肩に落としてくれた長羽織の影で、半兵衛は低く自嘲した。
打ち倒された建具。破れた襖。踏み荒らされて、泥だらけの床。畳と夜具を黒く汚す、横倒しの炭箱。
壊れたものは繕える。汚れたものは、根気よく清めればいい。
けれど、失われた命は二度と戻らない。
前途のある者と余命の限られた者。生き残るべきはどちらなのか、考えるまでもないというのに。
「死んだ者には、本当にすまない事をした。でも、城を離れれば必ず誰かが動くと、最初から分かっていたんだ。驚くには値しない」
忸怩たる思いから、半兵衛の口調は皮肉な響きを帯びていた。
慶次は不快そうに眉を寄せた。
「秀吉は、この事を知ってんのか」
「言う必要はないよ」
「無いわけねぇだろうが」
「……君と別れた、あの時から。僕に、暗殺者の影が無い日はなかったよ。今さら言わなくたって、秀吉もわかっているさ」
「だったら!あいつは知ってて、お前を放って置いたのかよ!」
「秀吉だって、常に命を狙われている」
半兵衛は長く息を吐いた。身体中がだるくてたまらず、言い争うのもおっくうだった。
「僕らがしてきた事は、そういう事だと非難したのは君だろう」
「戦を、やめる事は出来ないのか」
「無理だね。それに、たとえ天下を統一しても危険がなくなるわけじゃない。戦が終われば、秀吉は国の基を変えるよ。あらゆる土地を測り、度量衡を一つに定めるつもりだ」
何もかもが、今更だ。後悔したところで、何が変わるわけでもない。
どれだけの屍を積み重ねようとも、どれだけの恨みを背に負おうとも、歩き続けるより他に道はないのだ。
願うだけでは、世界は変わらない。
だからこそ、自分は秀吉についてゆくと誓ったのではなかったか。
「既存のやり方で利権を得ていた者たちは、こぞって秀吉を恨むだろうね」
「そんなこと、する必要があるのかよ」
「各地で産する黄金や、石見の銀。異国が目の色を変えるものが、この日の本にはある。国の基盤を整えて、民を富ませ、強兵を育てることにしくじれば、いずれ……」
ふと、目の端に鮮やかな紅をみとめて、半兵衛は語りを止めた。
禍々しく繁吹く血の渦の真ん中に、ぽつりと咲く花の紅。
荒れ果てた室内で、慶次が活けた梅花の鉢だけは、奇跡のように無事だった。
―――ああ、そうか。
唐突に、半兵衛は理解した。
『……あのひとを、責めては、駄目……』
あの時、最後の息で囁かれた彼女の言葉。
その言葉が、葛藤に立ちつくす秀吉の背を押し、怒りと悲しみに目のくらんだ慶次の激情をとどめた。
もしも、彼女の言葉がなかったならば、感情のままに激突した二人のうちのどちらかが、あの場で命を落としていたに違いない。
―――だから、なのか。
この数日、思い返すたびに病の胸を温めた、ささやかな夢想。
慶次との他愛もない会話からうまれた、目蓋の裏の景色。その光景に、二人が欠けることなく必要なら。
「わかってくれとは言わない。君は君の望むように、生きればいい。ただ」
半兵衛は、慶次をふり仰いだ。淡い冬の光が、ひどく眩しくて目が霞む。
「ひとつだけ、君に頼みがあるんだ」
―――僕も、彼女のように。
命絶える前に、言葉を伝えなければいけない。
もう、ここから動けなくても。ほんの少しでいい、夢見た場所へ近づきたい。
それすら、叶わぬものならば。
せめて、一粒の種を遺してゆきたい。
目蓋の裏に夢見た未来が、いつか花開くよう。
最期の、形見を。
□ END □
半兵衛パート前半だけでも話としては完結するんですが、秀吉パートのフォローも兼ねて。
「梅が枝」の句は、死を目前にしてはじめて彼女の言葉の重みに気づいた事に対する自虐、
または、どれだけ願っても形(言葉)がなければ伝わらない、ぐらいの意味に思っていただけると助かります。