君の背に手が届く



 半兵衛は碁が弱い。ただし、賭け碁は別だ。
 金品がかかると、半兵衛は文字通り顔色が変わる。盤上を見つめる瞳は熱をおびて輝き、白い頬がほんのり上気して、淡い唇から我知らず微笑がこぼれおちる。
 その蠱惑的な表情に、うっかり呑まれて甘い手を打ったら、もう駄目だ。
 息をもつかせぬ早打ちで、あっという間に切り崩されて、完膚無きまでに叩きのめされるのがオチである。
 それに対して、半兵衛が負ける碁というのは、かたつむりが這うように手が遅かった。
 一手を打つに延々と吟味して、一手を返されては長々と思案する。
 そうして丸一日をかけて終局してみれば、いつも半兵衛の負けなのだ。
「なあ、お前ってさ」
―――ぱちり、
 黒石を打って、慶次は半兵衛に話しかけた。
 対局は、まだ始まったばかり。のどかな秋の陽ざしが、明るく縁側を照らしている。
 時が止まったような穏やかな空気に、碁石を打つ音が小気味よく弾けた。
「俺と打つと、いつも負けるけど」
―――ぱちり、
 ゆるやかな所作で、ほっそりとした指が白石を打つ。これで、四隅が小目で埋まった。
 ここから、どう出るか。
 シマリを打つ、カカリを打つ、さあ、どうしよう?
 慶次は腕を組んで考えた。
 今日は何も賭けていない。対面の半兵衛も大人しいものだ。
 しかし、それではつまらない。今日という今日は、タダで本気になってもらいたいところだ。
「真面目にやれば、俺に負けたりしないよな?」
「心外だな。僕は真剣だよ、いつだってね」
「そうか?それって、つまり」
 碁笥から黒石を拾い上げ、盤上めがけて一直線に指を伸ばす。
「本気で負けてる、ってことだよな?」
 ぱちり。
「―――はあ?」
 慶次の打った石に、半兵衛は目を丸くした。
 碁盤のど真ん中、勢いよく打たれた黒石は、
「……天元って、君。これ正気かい」
「へへ、新しい手を試してみようと思ってさ」
 挑発的な慶次の手に、半兵衛は嫌味っぽくため息をついた。
「本当に君ときたら……」
―――ぱちり。
「……勘がいいのか悪いのか、判断に迷うね」
「ふふん、そうこなくっちゃな、っと!」
 即座に返された半兵衛の手に、慶次はニヤリと笑った。
 

 その日の対局は、異例に早く終局した。
 結果、やはり半兵衛は敗北した。


「それで、お前はいったい何が不満なのだ」
「だーって、さあ」
 子供のように頬をふくらませた慶次に、秀吉は呆れて言った。
「我は一度も半兵衛に勝ったことはないぞ。それを勝っておきながら、怒る必要がどこにある」
「絶対!アイツ俺と打つときは手ェ抜いてるんだぜ。全っ然、勝った気しねぇよ」
 最近、秀吉は自分自身を『我』と呼ぶようになった。
 配下の郎党も日に日に増え、人を使う身となったからには自覚を持ってくれと、半兵衛に言われたらしい。
 その半兵衛は勝負の後、ごねる慶次を放りだして、さっさと出かけてしまった。
 置き去りにされて、ますますヘソを曲げた慶次に、
「相手が誰であれ、半兵衛が手加減するとは思えぬがな」
 どれ、と秀吉は碁盤と碁笥を引き寄せた。
「どうだ、慶次。我と一局打ってみぬか」
「今からかよ?」
「自分で言うのも何だがな。いささか腕を上げたのだぞ」
 人並みはずれた体格から、しばしば誤解をうけるが、秀吉は頭がいい。
 粗野なだけの田舎武者とは違い、機転がきくし知恵もまわる。
 ただ、囲碁だけは、大きな手指に小さな碁石をもてあまし、肩がこると敬遠していた筈なのだが。
「へえ?それじゃいっちょ、お手並み拝見といきますか」
 珍しい誘いに、慶次は破顔した。
 先番をとった慶次が黒石、秀吉が白石を取って、対局は始まった。
―――ぱちり。
―――ぱちり。
 しばし無言で打ちあって、慶次は舌を巻いた。
 強い。
 本人が言う通り、秀吉は格段に力をつけていた。以前とは別人のように、手筋が良い。
「碁は苦手だったんじゃねえのかよ」
「まあな。だが、近頃は毎晩のように打っておる」
―――ぱちり。
 慶次が仕掛けた誘いの手には乗らず、秀吉は手堅く着実に地をかせいでいた。
 よく先を読んでいるし、全体の石の配置が観えている。
「いつも半兵衛と打ってんのか」
「うむ。遊びというよりは、ほとんど講釈のようなものだがな」
「講釈ぅ?何やってんだ、あいつ」
「半兵衛いわく、碁は盤上の駆け引きが戦に似ておるのだそうだ。厳しいぞ、半兵衛の碁は」
―――ぱちり。
 よどみなく石を打って、秀吉は笑った。
「十五も石を置いていながら、あっという間に形勢を巻きかえされた時には、冷や汗が出たわ。これが戦場ならば、我はとっくに死んでいる」
「戦場って…………」
 慶次は眉をひそめた。
 喧嘩やイタズラは買ってでもするが、戦となれば話は別だ。
 死にたい者など誰一人としていないのに、大将の号令一下、互いに命を奪い合う。その理不尽さが、慶次は嫌いだった。
 にも、関わらず。
「どうした、慶次」
「……悪ぃ、なんでもない」
 もやもやとした怒りがこみ上げて、慶次は石を打つ手に力をこめた。

―――ぱちり。

 俺から我へ、改められた自称。
 戦を模して打たれる碁。
 ひとつひとつは、とるにたらない小さな事柄だ。
 けれども、確かに何かが変わり始めている。

―――ぱちり。

 それは、ひどく寂寞とした予兆だった。

 隣にいたはずの友の背が、いつのまにか遠く離れていたような。

―――ぱちり。


 長く影ひく秋の夕映え。
 朽ち葉を染めてきらきらと燃ゆる残陽に目を射られ、慶次は終局を待たずに投了した。
 結果は、慶次の完敗だった。



「それで?もう碁はやらないと駄々をこねたのか、君は」
「いいだろ、別に」
「馬鹿を言うな。良くないに決まっているだろう」
 ぱこん!と、半兵衛は手にした板切れで慶次の頭をはたいた。
「痛ってぇ!何すんだよ!」
「君がそんな事を言うから、秀吉がしょげてるじゃないか」
 数日後。空は高く澄み渡り、風もうららかな昼下がり。
 秋めく城下をふらふらと歩いていた慶次は、ばったり半兵衛に出くわした。
 常に奇妙な仮面をつけた半兵衛の喜怒哀楽は、他人には分かりにくい。
 が、わずかにのぞく眉の角度や唇から、なんとなく危険を悟った慶次は、素早く回れ右をした。日頃の学習の賜物だ。
 しかし、間一髪の差で逃げ切れず、
「君、暇だろう?暇でないとは言わせないよ。ついて来たまえ」
「…………………」
 にっこり笑った半兵衛に、襟首をつかまれて慶次は観念した。
 有無を言わさず近くの茶店に連れこまれ、いったい何事かと思いきや。
「だーかーらーさぁ、碁を打とうが打つまいが、俺の勝手だろ」
 茶請けの団子もそこそこに、小言を食うはめになって、慶次はふてくされた。
 こと秀吉に関する限り、半兵衛の言動には見境がない。
 手加減なしに打たれた後頭部が、じんじんと痛んだ。
「たかだか碁で負けたぐらいで、何を拗ねているんだ」
「…………そんなんじゃねぇよ」
「じゃあ、何だというんだい。君だって、いつも僕に勝っているじゃないか」
 半兵衛の言葉に、慶次は唇を曲げた。
「勝たせてもらっても嬉しくねーよ」
「勝たせる?」
「だって、そうだろ。俺より強い秀吉が、お前には歯が立たねぇって言ってたぜ。お前が俺より弱い訳ないだろうが」
 むくれた顔の慶次を、半兵衛は横目で見た。
「……何だよ」
 底の読めない深い色の瞳に、凝と見つめられて思わず後退る。
 気圧された慶次に、半兵衛は大きく吐息をこぼした。
「君は馬鹿だね」
 肩をすくめ、両手のなかで温くなった茶に目を落とす。
「秀吉は将だ。勝ち方を覚えなければ兵が死ぬ」
 語る横顔は、どこか淡々と冷めていた。
「けれど、全ての戦に勝つ事は現実に不可能だよ。そんな時、秀吉の盾となって負け戦を引き受けるのが、僕の役目だ。秀吉が勝ち方を覚えなくてはならないように、僕は負け方を知らなければならない」 
 また、戦の話か。
 慶次はそっと胸の内で毒づいた。
 世の中は、どちらを向いても戦ばかりだ。その事実は、慶次とて否定しない。
 身を立てるには戦働きが一番であることも、戦わねば攻めよせる軍勢に蹂躙されるだけだということも、よく分かっている。
 兵を率いる秀吉。戦を語る半兵衛。それが時代の流れとして、当然の方向を向いているのだとしても。
 慶次は、そういう二人の在り方が、どうしても好きにはなれなかった。
 何が嫌なのか、うまく言葉にはできないが、嫌なものは嫌なのだ。
 だから、もう碁はしないと言ったのだが。
「君はいつも突拍子もない事ばかりするからね。思うようには打てなくて、正直、君の碁は苦手だよ」
 もの思いにふけっていた慶次は、半兵衛の言葉を半分ほど聞きのがした。
「……へ?」
 間の抜けた応答に、半兵衛が顔をしかめる。ぼんやりしていた慶次の耳を、半兵衛は忌々しげにつねりあげた。
「僕は秀吉に、秀吉は君に、君は僕に勝つ。三竦みだとは、思わなかったのかい」
「痛てててて!痛ぇよ!」
 縦並びの優劣ではなく、循環する力関係。
 そんなことも―――ある、のだろうか。
 目を白黒させて、はた、と慶次は気づいた。
「いや、待て待て待て。だったら、賭け碁の時に必ず勝つのは何なんだよ」
「ああ、それは……」
 指を突きつけられた半兵衛は、しごく平然と答えた。
「イカサマに決まってるだろう」
「はあ!?」
「君ね、いくら早碁でも石を一路ずらされている事に気がつかないのはどうかと思うよ。人の顔を見ている暇があるのなら、もっと盤面をよく見たまえ」
 悪びれるどころか逆に説教されて、慶次は脱力した。
「……もう、いい。よくわかった」
 まともに悩むだけ馬鹿らしい。
 どうせ慶次の気持ちなど、半兵衛が考慮するはずもないのだ。賭け碁以外は真面目に打っているのだと、わかっただけでも良しとすべきである。
「――?そう、それならいいけれど」
 急に物分かりの良くなった慶次に、半兵衛は不思議そうに瞬いた。



 心地よい日だまりに、かすかに冷たい秋の風が吹く。
 いつのまにか陽は傾き、行き交う人々は足早に道を急ぎはじめていた。
 昨日とは違う、今日という日が終わろうとしている。
 そしてたぶん、明日も今日とは違う一日になるのだろう。
 そうやって少しずつ、時は流れ、人は流れて、最後に何処へたどりつくのか。
 己の未来を計りかね、慶次は茶店の軒先から空を仰いだ。



 残りの団子を平らげて、茶をすする。
 もぐもぐと頬張る慶次の隣で、おもむろに半兵衛は席を立った。
「そろそろ行くよ。君と違って、僕は忙しい」
「ん、じゃあ。帰る前に、ここの勘定よろしくな」
 ひらひらと手を振った慶次の頭を、半兵衛はあきれたように睨めつけた。
 先程から手にしていた凶器がわりの板を、慶次の膝に投げてよこす。
「何だこれ」
「もう、碁はやらないんだろう?君にあげるよ」
 板に見えたそれは、薄く平らな木箱だった。蓋をあけると、中には四角い駒がびっしりと詰まっている。
「将棋……じゃねえよな」
「違うね。この駒は箱から出さずに使うんだ。箱の側面を見てごらん、一ヶ所だけ切れ目があるだろう」
 半兵衛は切れこみをふさいでいた駒を、一つだけ抜いた。
「この隙間の分だけ、駒を移動させることが出来る。こうやって少しずつ動かしていって、色のついた一番大きな駒だけを、切れ目から箱の外に出せば上がりだ」
「へーえ、面白そうだな」
 試しに指先で駒をつついてみる。
 板底に蝋が塗ってあるのか、駒はなめらかに動いた。
「僕は上がりまで八十一手かかった。君は、何手かかるだろうね?」
 半兵衛は、すう、と目を細めて言った。
「僕より少ない手数で上がれたら、ひとつだけ、君の言うことをきいてあげてもいいよ」
 抑揚の低い声音は、いつも以上に素っ気ない。
 高飛車な言いぐさに慶次は眉を上げ、次いで喉の奥で小さく笑った。
 半兵衛は、あまのじゃくだ。素直ではない言葉の裏を読むならば、これはきっとイカサマの埋め合わせなのだろう。
「言ったな、半兵衛。今の言葉、忘れんなよ」
 仮面の下で、半兵衛はかすかに笑ったようだった。
「せいぜい頑張りたまえ。ちなみに、この大駒を大陸では将軍に、他の駒を敵兵に見立てるそうだ」
「……戦ごっこかよ」
 うんざりと顔をしかめた慶次を制して、言葉を続ける。
「この日の本では、同じ大駒を箱入り娘と呼んでいるけどね」
「箱入り娘?」
「逢い引きか、夜遊びか。深窓のご令嬢が親や奉公人の目をぬすんで、家から抜け出す様に見立てているんだ」
 茶店の主を呼んで銭を支払い、半兵衛は慶次をちらりと見て、言った。
「いかにも君好みだろう?」
 戦の話と恋の話。どちらがいいと聞かれれば、もちろん、恋の話に決まっている。
 決まっているが、半兵衛の口から出る言葉とも思えない。
 まじまじと見上げた慶次の視線をかわして、半兵衛は背を向けた。
「駒にも石にも、何も書かれてなどいないんだ。盤上に何を見るかは、人次第だということだよ」
「……半兵衛」
「拗ねてないで、また、こちらに顔を出したまえ。秀吉が寂しがる」
 じゃあね、と手を挙げ、半兵衛は去っていった。
 用件が済めば、ためらいなく次へと向かう。愛想のかけらもない、毅然とした後ろ姿。
 けれど。
「これ……わざわざ持ってきたんだよな?」
 遊技板を手に、慶次は首をかしげた。
 ここで会ったのは偶然だとばかり思っていたが、半兵衛は最初から、そのつもりで慶次を探していたのではないだろうか。でなければ、こんなものを持っているはずがない。
―――盤上に何を見るかは人次第。
 半兵衛は、慶次の本音に気づいていたのだ。その上で、あえて戦を否定しないところは、半兵衛らしく容赦がないが。
 それでも、気遣ってくれた。
 慶次の気持ちを重んじて、ここまで追ってきてくれた。
「へへ、そういうことか……」
 慶次は頬をゆるめて、苦笑をこぼした。
 いつのまにか、慶次を置いて何もかもが変わってゆく。
 世の中は戦に乱れ、その渦中に身を投じようとする友の背は、日ごとに遠くなるばかりで。
 慶次は、それを止める言葉を持たないけれど。

 今はまだ、手を伸ばせば届く距離だ。


 遊技板を片手に、かたかたと音高く鳴らしながら。
 黄金色に暮れなずむ町並みを背にして、慶次はひとり家路についた。





□ END □

『箱入り娘』は古くからあるスライディングパズルの一種です。戦国時代にあったかどうかは微妙ですが。
中国では大駒を三国志の曹操に見立てるそうですよ。
ちなみに一般的な駒の配置で、最小の解は八十一手。半兵衛は謝る気がありません……。