夜の静寂に



 草木も眠る丑三つ時、闇に沈む大坂城の一隅にて。
「ううう……」
 豊臣の軍師・竹中半兵衛は唸っていた。
「……ううううう……」
 言葉にならない葛藤が、夜の静寂に止めどなくこぼれては消える。
 苦悩する半兵衛の膝の上、事の元凶は、すやすやと無邪気な寝息をたてていた。


 そもそもの始めは、何だっただろうか。
 机に頬杖をついて、つい、うとうとと居眠りしかけたことか。止まらない咳を見咎められたことか。
 夜通し筆をとって軍略を練り、翌朝、くらりと足がよろけてしまったことだろうか。
 いずれにせよ決定打は、誰にも告げずに隠しとおした発熱を、あっさり看破されたことだった。
「恨むよ、秀吉……」
 半兵衛は深々と溜め息をついた。
 なかば抱えるように回した腕の中、眠る少年の名を石田三成という。秀吉の小姓のなかでも年少の、頬にあどけなさの残る見習いだ。
 それがどうして、半兵衛の腕で眠っているかといえば、これもまた、少年の幼さゆえの事なのだった。
 要するに、秀吉が少年を褒めたのがいけないのだ。
 半兵衛の発熱を見破り、寝床におしこんだ三成を、秀吉は大いに賞賛した。
 そこで有頂天になった少年が、半兵衛の不摂生を見逃すまいと勇み立ったとて、一体誰が責められるだろう。
「ああ、もう。仕事が全然進まないじゃないか」
 文句を言おうにも、この件に関しては半兵衛の分が悪い。 
 山積みになった書簡に密書に同盟交渉その他もろもろ。
 徹夜をしてでも即刻これを片付けたい、その理由を語るわけにはゆかないのだ。
 胸を蝕む不治の病。
 この身に許された時間が、あと僅かなのかもしれないなどと。
―――誰かに、言えるわけがない。
 言えば最後、必ず秀吉の耳に入る。それが怖い。
 夜も更け、大気は冷たく冴えている。城の最奥にある半兵衛の私室は、しん、と静まりかえっていた。
 これで三成さえいなければ、心おきなく仕事に没頭できたのだが。
「半兵衛さま、まだお休みになられないのですか」
 そう言って三成が眉をよせたのは、真夜中を過ぎた頃だった。
 文机に向かい、筆を走らせながら半兵衛は答えた。
「そういう君こそ、今日の仕事は終わりだろう?早々に下がり給え」
「半兵衛さまがお休みになったら、下がらせていただきます」
 板張りの廊下に膝をそろえて、控える三成の姿勢は折り目正しく頑なだった。
 まるで曲尺をあてたかのように、床から直角に伸びる背筋が、少年の性格を如実にあらわしている。
―――この子は、どうも苦手だな……。
 胸の裡で、ひっそりと吐息をつく。
 半兵衛にとっては邪魔でしかないが、これも秀吉への忠義のあらわれと思えば、無碍にもできない。
 かと言って、このまま好きにさせておくと、いつぞやのように寝床に押しこまれかねなかった。
 さて、どうしたものだろうか。
 文を書き、策を練る頭の片隅で半兵衛は考えた。
 いっそ布団でくるんで簀巻きにしてしまえば、大人しくなって良いかもしれない。
 横目でちらりとうかがえば、三成の頭がふらふらと揺れている。
 さすがに、そろそろ疲れてきたのだろう。
―――好機だね。
 笑みを押し隠し、半兵衛は筆を置いた。
「三成君、眠いのなら意地をはらずに休み給え」
 かくん、と首が下がり、反動で三成が目を覚ます。
「はっ……い、いいえ。大丈夫です!」
「そう言うけれど、君、僕が眠るまでそこに居るつもりなんだろう。廊下で居眠りされては困るよ」
 慌てて姿勢を正す三成を、小さく手招いて半兵衛は言った。
「仕方がないな。おいで、今日は僕の部屋で寝てゆくといい」
「えっ?」
「僕が眠るのを見届けて、君もそのまま寝ればいいだろう」
 少々わざとらしく欠伸をしながら、とまどう三成に駄目押しをかける。
「廊下で寝かせて風邪でも引かれたら、僕が秀吉に叱られるからね」
「秀吉さまが……」
 案の定、三成の顔つきが変わった。思惑どおりだ。
 文箱を開いたまま机を隅によせ、枕をならべて横になる。夜具は一人分しかないので、親子のように身をよせあっての就寝だ。
 紙燭の灯りを吹き消して、おやすみと目を閉じたまま、半兵衛は機をうかがった。
 間近に感じる三成の体温が、妙にくすぐったい。
 子供特有の、ほかほかと温かい熱が肌に心地よく、つい、眠ってしまいそうになる。
 それを堪えて、どれほどの時間がたっただろうか。
―――やれやれ………やっと眠ってくれたね。
 肩越しに健やかな寝息が聞こえてきて、半兵衛は静かに身を起こした。
 あとは、このまま三成を布団でくるりと巻いてしまえば、一丁上がりだ。
 これで思う存分、朝まで仕事ができる。
 そう、密かにほくそ笑んだ、その時だった。
 ひゅん、と空をきって足が舞う。
「――――………!」
 闇のなか、間一髪で足を掴み半兵衛は呻いた。
「三成君?」
 返事はない。ぐっすりと眠る三成は、むにゃむにゃと口の端をうごめかせ、寝返りをうった。
 楽しい夢をみているのか、うーん、と伸びをするように腕が動く。
「――危な……ッ!」
 ぶん!と机をかすめた腕が、文箱のふたを吹っ飛ばす。
 もう少しで、あやうく墨壺ごと引っ繰り返るところだった。
 あわてて三成の腕を掴み、半兵衛は少年の身体を抱きこんで抑えた。
 片手片足を封じられ、もぞもぞと動いた三成の頭が、半兵衛の膝の上に納まる。
「わざとやってるんじゃないだろうね。三成君……」
 よもや、枕にされるとは思わなかった。
 おまけに、これでは半兵衛自身も身動きがとれない。
 試しに足を放してみたら、狙い澄ましたように机を蹴り上げられて肝が冷えた。
―――これだから、子供は苦手なんだ。
 一人前の意志はあるくせに、大人の理屈では動かない。
 まったくもって、子供という生き物は謎だった。
 そもそも、どうしてこんなに暴れながら眠れるのかが、不思議でならない。
「……腕が疲れるな」
 半兵衛は溜め息をついた。
 いつまで三成を抑えておけば良いのだろう。
 簀巻きにしようにも、手を放そうものなら、机を引っ繰り返されるのは目に見えている。
 罠にかけたつもりで、罠にはまったのは自分の方かもしれない。
「………………………」
 戦場では冷徹と評判の天才軍師も、こうなっては形無しだ。
 すやすやと眠る三成が小憎らしく、半兵衛は腕のなかの寝顔を見下ろした。
 ひとつ、ふたつ、と意味もなく寝息を数えてみる。
 さらさらと癖のない銀の髪からは、どこか懐かしい柔らかな匂いがした。
 これほど間近に子供と触れたのは、いつ以来だろうか。
 おかげで、妙に気分が落ち着かない。
 そわそわと胸騒ぎがして、心の臓に潮が満ちるような奇妙な感じがする。
「―――……?」
 この感覚は知っている。
 知っているけれど、思い出せない。
 戦場で敵軍を前に号令をかける時の高揚に似ている……ような。いや、違う。
 どちらかといえば、ふと秀吉と視線が合った時の気持ちに近いけれども―――それと同じであっては困るので却下だ。
 いったい、この感情は何なのか。
 分からないのが、ひどくもどかしい。
「ううう……」
 気がつけば、半兵衛は唸っていた。
 この自分が、たった一人のただの子供に翻弄されている。
 身も、心も、為す術もなく。
「……ううううう……」
 夜の静寂に、言葉にならない葛藤が零れ落ちる。
 いとけなく眠る三成を膝に、東の空が白むまで、ひたすら半兵衛は呻き続けた。


 その得体の知れない情動が、一般には『いとおしさ』と呼ばれるものだと、半兵衛が悟るのは数ヶ月も後の事である。






□ END □

2010年3月に無料配布した『桜日和』収録の小話を、単品に書き直し。元々は『嘘歌-翼折れた鳥の歌-』の没エピソードでした。三成は秀吉が大事→だから秀吉が大事にしている半兵衛も大事→なのに半兵衛が自分を大事にしないので、不摂生をしないように見張りという名のストーキング、という話です。
BASARA2でのお子様同盟への態度をみる限り、半兵衛は子供の扱いが苦手というか、よく分かってない気がします。