七節男
月もおぼろに、あたたかな風が吹く春の宵。
竹中半兵衛は、途方に暮れていた。
古今の兵法をあまねく修め、神算鬼謀と賞せられるこの頭脳も、今は何の役にも立ちそうにない。
「前田慶次とかけて、ナナフシととく。その心は如何に?」
目の前の主人は、たいそうな上機嫌だ。
半兵衛は、そっと溜め息をついて答えた。
「……秀吉。君、酔ってるね?」
とある時代のとある国、家臣の屋敷が軒を連ねる城下の一角に、その屋敷はあった。
当主の名を前田利家。槍の名手であり、豪放磊落な性格から慕う者も数多い。
妻のまつとの仲睦まじさで知られ、主君の覚えもめでたい様は、まさに絵に描いたような順風満帆の人生と言えた。
ただ一つ、困った甥の慶次をのぞいては。
利家の兄、利久の継子である前田慶次は、何かにつけ評判が悪かった。年の頃は利家とさほど変わりはない。甥と叔父だが、兄弟も同然の気安い仲だ。
だが、律儀な叔父が家を守っているのを良いことに、慶次は毎日を自由気ままに遊び暮らしていた。
それがけしからぬという声も何処吹く風。慶次は今日も、陽が高くのぼる頃に目を覚ました。
うん、と大きく伸びをして身を起こし、
「あー、良く寝た……って、うへぇぇぇっ!」
「おはよう、慶次君」
起きるなり、眼前に迫った顔に慶次はのけぞった。
「半兵衛?」
そこに居たのは隣家の居候だった。
姓を竹中、名は重治。通称を半兵衛という。幽霊もかくやという真っ白な髪に淡い肌の持ち主で、おまけにいつでも奇妙な仮面をつけている。寝覚めに見るには少しばかり心臓に悪い顔だ。
驚く慶次に、半兵衛は難しい顔つきで口を開いた。
「……慶次君。君、ナナフシという言葉に心当たりは」
「はあ?」
起き抜けに頓狂な質問をされて、慶次は目をしばたいた。どうも、昨夜の深酒が抜けきらない。ぼんやりした頭のまま、気のぬけた返事をかえす。
「ナナフシ、ってあれだろ?枝みたいに長くて細い虫のことじゃねえの」
ナナフシは漢字で七節と書く。文字どおり節の多い枯れ枝のように見えるため、そう呼ばれる茶褐色の地味な昆虫だ。
「だろうね。でも、それだけじゃ駄目なんだ」
半兵衛はがっくりとうなだれた。そろえた膝の上で、華奢な手指が拳をにぎる。慶次は嫌な予感がした。
「つーか、さぁ。お前、何でここに居るんだよ」
竹中半兵衛重治は、隣家の主人である秀吉が従えた、ただ一人の部下だった。当然のことながら、こんな朝っぱらから他人の枕元に座っている道理などない。秀吉は半兵衛を友人として遇しているが、下役には下役の勤めがあるのだ。
「まつ殿の許しは得ているよ。しばらく、こちらの世話になるからよろしく」
「よろしく、って……」
ようするに、今日から前田家の居候になるという事だろうか。
「お前、秀吉とケンカでもしたのか」
「まさか。天地神明に誓って、僕が秀吉に背くことなど有り得ない」
半兵衛は顔をしかめ、ご丁寧にも慶次を踏みつけて立ち上がった。
「ただ、このままじゃ秀吉に会わせる顔がないんだよ。どこかの誰かさんのおかげでね」
「痛い痛い、っててて!それって俺か?俺のせいなのか!?」
「よく分かってるじゃないか。これから朝も昼も、食事も風呂も厠もみっちり張りつくから覚悟したまえ」
ほっそり尖った爪先が、ぐりぐりと容赦なく脇腹に食いこむ。足蹴にされて、慶次は悲鳴をあげた。
「張りつくって何だよ!ワケわかんねぇよ!」
「君が理解する必要はないね」
半兵衛の言葉は、横暴きわまりない。
「じゃあお前、まつ姉ちゃんには何って説明したんだよ」
「別になにも。ただ、君のことを考えていたら夜も眠れないと言っただけだ」
「えぇぇ……本気で言ったのかよ、それ」
義姉のまつは、筋の通らないことを許す性格ではない。
だがしかし夫婦仲のよろしき故に、まつは恋愛には寛容だった。
満ちたりた女はとかく、他人の色恋沙汰まで応援したくなるものらしい。
そして半兵衛の言い分は、字面だけなら、恋する乙女の切ない悩みそのものだ。
慶次は、もそもそと布団をかぶりなおした。
―――まつ姉ちゃん、こんな顔でもこいつ男だぞ……
義姉が何を考えたか、想像するだに恐ろしい。
「慶次君?」
「…………寝る。おやすみ」
「ちょっと!この期におよんでまだ寝るなんて、どれだけ自堕落なんだ君は」
ぐいぐい布団の端を引っぱる半兵衛に対抗しながら、慶次はげんなりと目を閉じた。
前途多難な一日の、これが始まりだった。
「なんと珍しい。慶次がこんなに早く起きてくるとは」
にこにこと、満面の笑みで飯を盛りつけ、まつは言った。
「竹中殿にお頼み申して正解でした。ささ、たいしたものもございませぬが召し上がってくださいませ」
「はあ……」
「よしてくれよ、まつ姉ちゃん。こいつの起こし方じゃ身体が保たねぇよ」
慶次は脇腹をさすってぼやいた。何事も体力一番の前田家では、朝夕だけでなく昼にも食事がでる。
正午には少し早い時間だが、二人の前には膳が並べられていた。
香の物に芋煮の汁、青菜と豆腐を煎った小鉢と、品数は多くない。
ただし、量が尋常ではなかった。
どうぞ召しませ、と差し出された椀を前に半兵衛は沈黙した。
「……………………」
うずたかく盛られた白飯は、椀のふちから垂直にそびえたっていた。もはや山盛りと呼ぶのもおこがましい。
慶次は小声で忠告した。
「残すなよ。食い物を粗末にしたら、すっげえ怒られるぞ」
「……………………………」
箸をつけない半兵衛に、まつが声をかける。
「いかがなされました。お口にあいませぬか」
「いえ。………その、あまり食欲が」
「まあ」
まつは眉をよせたが、ふと、何事か思いあたったように顔を明るくした。
「それでは仕方がありませぬ」
どうやら、いっぱいなのは腹目分ではなく胸のうちだと思われたようだ。恋い焦がれて飯が喉を通らないとでも解釈されたらしい。
きらきら輝くまつの瞳に、半兵衛も何かが違うと察したようだった。
居心地悪そうに、もじもじとうつむく様は、どう考えても勘違いを助長しているとしか思えないが。
それを横目に飯をかきこみ、慶次は内心ため息をついた。
正直なところ、半兵衛とは知り合って日が浅く、まだ親しいとも言えない仲だった。けれど一つだけ、確信をもって言えることがある。
―――秀吉、お前こいつに何言ったんだよ……
普段は大人しい半兵衛が、突拍子もない事をしでかすとき。それは十中八九、秀吉がらみだ。
考えながら漬け菜を噛んだ頬に、視線を感じて慶次は振り向いた。
「何だよ?」
「別に」
半兵衛がこちらをじっと見つめていた。その半兵衛を、ほほ笑みを浮かべたまつが見守っている。
奇妙な構図がどうにも居たたまれず、慶次は早々に飯を平らげ箸を置いた。
「ごっそさん。まつ姉ちゃん、俺、ちょっと出かけてくるわ」
事の次第となりゆきを、まず、秀吉に問いつめてみねばなるまい。
同じ頃、隣家の縁側で秀吉は困惑していた。
にぎやかな大所帯の前田家とは違い、こちらは主人と妻に居候が一人だけの慎ましやかな生活だ。
通いの手伝いはいるものの、家の中はいたって静かである。
「どういうことだ……?」
二日酔いの頭を抱えて、秀吉はうめいた。酒には弱くないが、昨夜は相手が悪かった。
久しぶりに、慶次と差し向かいで飲んだのだ。心楽しく杯をかさねるうち、ついつい度を過ごしてしまった。後で半兵衛に小言をいわれるだろうと、夢うつつに思ってはいたのだが。
目覚めてみれば、当の半兵衛が居なかった。何用にて出かけたのかと妻に問えば、返ってきたのは意味深な答えだった。
いわく、おなごにはおなごの秘密がございます。殿方には申せませぬ、と。
あっけにとられた秀吉に、ねねは弾けるように笑って、買い物に出かけてしまった。
女の秘密と言われてしまえば、男の自分に為すすべはない。
かくして、誰もいない家で一人さみしく頭をかかえた秀吉は、当惑のため息をこぼしていた。
「おなごの秘密……?」
そもそも半兵衛は、立派な成人男子だ。それがどうして女の秘密になるのだろう。
にぶい頭痛に悩まされ、いっこうに思考がまとまらない。
おまけに、先程から隣家がひどく騒々しいのだ。怒号とも悲鳴ともつかない奇声をあげているのは、慶次だろうか。
秀吉が顔をしかめていると、声はだんだん近くなり、家境をこえて庭に飛びこんだ。
「秀吉ぃぃ!」
垣根の破れ穴から転がりこみ、慶次が叫ぶ。
「お前、あいつに何言ったんだよ!」
「あいつ?」
「半兵衛だよ!あいつ、今朝から俺のこと……あ、やべぇ!こっち来た」
状況が飲みこめず、目を白黒させた秀吉に慶次は詰め寄った。
「心当たりはないのかよ。たぶん絶対、お前の所為だぞ」
思い出せと言われても、何が何だか、さっぱり分からない。
「いったい何が……」
「慶次君!」
秀吉が問い返そうとした時、慶次の背後で冷ややかな声がした。
「君、秀吉におかしな事を吹きこんでいないだろうね?」
ぎくりと振り向いた慶次は、剣に手をかけた半兵衛が、すでに鯉口を切っていることを見て取り、すばやく身をひるがえした。
「ちょ、抜くな、斬るな、危ねえって!」
跳ね踊るように半兵衛の剣先をかわし、慶次は逃げだした。
「待ちたまえ慶次君!」
伸縮自在の関節剣をふりかざして、半兵衛が後を追う。秀吉は、あわてて半兵衛を呼びとめた。
「半兵衛、これは何の騒ぎだ?」
「……秀吉」
足を止め、半兵衛は秀吉を振り返った。真っ直ぐな眼差しが、憂いを帯びて暗く翳る。
「すまない。かならず答えを見つけるから、どうか僕を信じてくれ」
決然と踵を返し、走り去る半兵衛の後ろ姿を、秀吉は呆然と見送った。
どうやら事の発端は自分にあるようだ。だが、当の自分を置きざりにして、いったい何が起きているのだろう。
たずねてみようにも、家の中には誰もいない。
秀吉はもう一度、ため息をついた。
遠く往来のむこうで、かすかに慶次の絶叫が聞こえた。
半兵衛は真剣に悩んでいた。
書物の上での知識が、現実を前に屈することなどざらにある。ゆえに、理論をふまえていかに応用するのかが、臣として自分に問われる力量なのだと半兵衛は思う。
それなのに、だ。
「なあ」
前をゆく慶次が、仏頂面で振り返った。
「お前、どこまでついて来るんだよ」
「朝も昼も、みっちり張りつくと言っただろう。忘れたのかい」
「だからって、本当に厠のなかまでついてくるのはどうかと思うぜ」
「僕に二言はないよ。覚えておきたまえ」
へぇい、と慶次は不貞腐れた態度で肩をすくめた。
あてもなく、二人はぶらぶらと城下を歩いていた。
のどかな陽気に温められた田畑から、ゆらゆらと鄙びた土の香りが漂う。
鍬をふるう農夫のひとりが、慶次に気づいて手を上げた。
「よう、じっちゃーん!ばあちゃんの具合、よくなったのかい」
手をふって応え、慶次は声をはりあげた。
道すがら、慶次はずっとそんな調子だった。数歩と進まず次から次へと、通りすがりに声がかかる。
道端で馬喰と世間話に花をさかせ、泥にはまった荷車を助けて干し柿を受け取り、その干し柿を手土産に市女たちに声をかけ、女たちの噂のタネを一目拝もうと物見高く寄り道し、そこで出会った行商に耳にしたばかりの馬喰の話を披露する。かわりに行商から聞き出した京の珍事を、今度は武家の下人と話し込み……その様子を、半歩下がって見ていた半兵衛は、指折り数えた人数が両手をこえたあたりで諦めた。
五十歩百歩とは、おしゃべりが過ぎて歩が進まないことの例えだったろうか。
物や人、ささいな世間話を振りだしに、次々に新たな情報と引き替えにしてゆく様は、まるで昔話のわらしべ長者だ。
へらへらと楽しげに喋る慶次の後ろ頭をにらみ、半兵衛は考えた。
なるほど確かに、前田慶次はただ者ではない。
武芸の腕前は、あの秀吉に匹敵するほど。家柄もよく、ひととおりの教養は修めている。加えて、この異様なほどの顔の広さだ。
前田家の家督は、慶次が継子であることを理由に、慶次の義父から利家へと受け継がれた。当時のいきさつは知るよしもないが、能力だけなら、慶次は利家に劣る器ではないだろう。
この子供じみた言動と奇抜な服装がなければ、だが。
「どうした、半兵衛。疲れたか?」
思わずついた吐息に気づき、慶次は半兵衛の顔をのぞきこんだ。
高く結った髪の上で、珍妙な羽根飾りがぷらぷらと揺れている。
白い毛皮の手甲に朱の太帯、同じく白い獣毛で縁取られた袖無しは目の覚めるような山吹色だ。
まったく、この派手な男の何処がナナフシなのか。
昨晩、上機嫌で帰宅した秀吉に半兵衛はひどく難渋した。酔漢はどこでも寝たがるものだが、さすがに家の主を土間に転がしておくのはまずい。肩を支え、なだめすかして寝間へ運ぼうと四苦八苦する半兵衛に、秀吉が発した言葉がこれだった。
『前田慶次とかけて、ナナフシととく。その心は如何に?』
ナナフシとは何ぞや、と問われたならば半兵衛はすらすらと答えただろう。ナナフシという虫の姿形から、呼び名の由来、故事来歴まで何でもござれだ。
しかし、その知識を前田慶次という男に応用せよ、とはどういうことか。
困ってしまった半兵衛に、秀吉は笑って言った。
『さすがの半兵衛にも、わからぬ事があるのだな』
この言葉に、半兵衛は衝撃を受けた。ついうっかり、背にした秀吉を床に取り落としてしまったが、酔っていた秀吉が覚えているかどうか。
どうにか寝間におしこんで、自分も部屋に戻ったものの、半兵衛は一睡もできなかった。
智は力なり。力を請われて臣に下ったにもかかわらず、主人に無力と評されるのはいかがなものか。正しい解を導きださねば、秀吉の側にいる資格はないに等しい。
夜通し半兵衛は考えた。
前田慶次がナナフシ。
ナナフシが前田慶次。前田慶次がナナフシで、ナナフシが前田慶次でナナフシがナナフシで前田慶次が……前田慶次で前田慶次が前田慶次……
「おーい?半兵衛、大丈夫か?」
はっと我に返れば、慶次が心配そうにこちらを見ていた。半兵衛の頬を両手ではさみ、顔色を確かめる。
「そういえば、全然寝てないって言ってたな。ちょっと休むか」
半兵衛の手を引いて、慶次はすたすたと歩き出した。
大きく枝を広げた黒松が、沿道に涼しげな影を落としている。その下に二人で座りこみ、足を伸ばした。
「眠いんだったら、少し寝ろよ」
「…………………」
「いや、逃げない。逃げないって。何だよ、その目は」
逃がすまいと、ぎゅっと裾をつかんだ半兵衛に、慶次は呆れた声で言った。
「お前さ、秀吉の何処がそんなにいいんだよ」
半兵衛が秀吉に心酔しているのは、傍目にも明らかだ。しかしそれが単純な忠義かといえば、いささか首を傾げざるをえない。
一介の農民の出である秀吉に対して、半兵衛は三代続いた城盗りで名の知れた武家の総領だった。そもそもの身分がまるで違うのだ。
値踏むように細く目をすがめて慶次を見上げ、半兵衛は口を開いた。
「……秀吉の左手に」
指先で、手のひらの央をしめす。
「手の甲から貫通した、大きな傷の跡がある。知っているかい」
「知ってるよ」
慶次は面白くなさそうに答えた。
「何があったのか僕は知らない。けれど、秀吉がこの国の在り様を憂えるとき、いつもその傷が心の底にあるのはわかる」
不思議だと思わないか、と半兵衛は長い睫毛をふせた。
「君だって、喧嘩の相手を殴りかえすことはあっても、周りで見ていた野次馬にまで拳を向けようとは思わないだろう。された仕打ちは相手にやり返して、それで終わりだ。何も生み出さず、何も変わらない。でも、秀吉は違った」
我が身を蹂躙した理不尽に、秀吉が出した結論は。
―――強者が欲しいままに罷り通るこの国を、変える。
その一言で、思い知るには充分だった。
旧主に対して、城を奪い、その愚行の代償を支払わせることしか出来なかった自分とは、違うのだと。
「秀吉は、僕など及びもつかない視点で未来を見ている。その夢が実現したとき、世界がどう変わるのか。僕はそれを見てみたい」
黙って聞いていた慶次は、松葉の下に寝ころんで言った。
「要するに、好奇心か」
身も蓋もない言われように、半兵衛はむっとした。
「違うよ」
「違わねぇだろ。お前って、なんか興味津々の猫みたいだよな。この髪とかさ」
くせのある柔らかな白い髪に手を伸ばし、乱暴にかきまわす。
「何をするんだ君は!」
髪を引っぱられ、半兵衛はもつれるように慶次の隣に転がった。
横になったとたん、くらりと強い睡魔におそわれる。しかし、いまだに答えは見つからないのだ。ここで眠ってなるものか。
唇を噛み、ますます目を見開いた半兵衛に、逃亡失敗と慶次がつぶやいた。
穏やかな春の陽光は、そろそろ西に傾きはじめていた。
その頃、同じ西日を天に仰ぎ、秀吉は何度目かもわからない溜め息をついていた。
こつこつと地を這う小虫をついばんでは、庭飼いの雌鶏が首を上下する。
片手で雑穀のくずをまいてやりながら、ぼんやりと空を眺めて、秀吉は長々と息を吐いた。
あいかわらず、誰も帰ってこない。
影のさす大きな背中に、そこはかとなく哀愁が漂いはじめた。
結局のところ、何の成果もないまま二人は帰路についていた。
否、無いと思っているのは半兵衛だけで、慶次はいたって普通の一日であったのだが。
「いいかげん機嫌直せよ。これ、後で半分やるからさ」
両手いっぱいに筍を抱え、慶次は言った。これも例によって、通りがかった知り合いが持たせてくれたものだ。
むっつりと押し黙り、半兵衛は返事をしなかった。城下のはずれを、ゆるく蛇行しながら流れる大川のほとり。水面を逆巻く風が、気まぐれに白い髪を吹き散らす。
「ああ、もう。仕方ねぇな」
急に立ち止まり、慶次は半兵衛の手に筍を押しつけた。
「お前に全部やる。落とすなよ」
「え?」
そんなに物欲しげな顔をした覚えはない。まごつく半兵衛をよそに、慶次は一歩踏み出して呼ばわった。
「こそこそしてないで、出てきなよ。そこに居るのは分かってるんだぜ」
呼びかけと同時に、土手に広がる茅野の影から、ぱらぱらと数人の男が現れた。
素早い動きで前後に位置取り、道をふさぐ。
暮れなずむ空の下、笠に隠れた顔はうかがいしれないが、いずれも刀を帯びていた。
「慶次君、これは……」
「あんた達だろ。ここ最近、俺のこと聞きまわってたのは」
囲まれたことを意に介するふうもなく、慶次はのんびりと腕を組んだ。
正面に相対して、賊の中心とみられる男が口を開く。
「我々は貴殿に仇なす者ではございません。是非とも、我らの悲願を聞き届けいただきたく」
「へえ、そいつは大層な話だね。で、俺に何の用だい」
低く張り詰めた男の声に不穏な響きを感じとり、半兵衛は静かに身構えた。両手の筍が邪魔でしょうがない。
「単刀直入に申し上げる。貴殿に前田家の家督を継いでいただきたい」
「あんた達、知らないのかい?前田家の当主は前田利家だぜ。そういう事は、利に子供が出来たら言いなよ」
慶次は笑って答えた。
緊迫した空気のなか、慶次の物腰は場違いなほど軽かった。今にも鼻歌でも歌いだしかねない。
「本来ならば、先代の長子である貴殿が継ぐべき地位だ。悔しいとはお思いになられぬか」
「親父と俺は、血が繋がってないんだけど」
何が面白いのか、慶次はニヤニヤと笑っている。男は苛立たしげに反駁した。
「したが、母御の無念をお忘れではあるまい」
「これだから、武士ってのは野暮なんだよな。女の愚痴は黙って聞き流すのが一番だぜ。それに」
組んだ腕を解き、悠然と男に歩み寄る。
「あちこち聞いて回ったなら、俺の評判くらい知ってるだろ。喧嘩好きでお調子もので、どうしようもない悪たれだって言われなかったのかい」
「貴殿が当主の座に値する、才気にあふれた御仁であることは我らも承知しております」
「やれやれ可哀想に。あんたら、耳が悪いんだな」
慶次は相変わらず笑っている。その背中に、剣呑な力の漲りを感じて半兵衛は総毛立った。
「とりあえず、俺に向かって当主になれって言う奴は、一発殴ることに決めてるんだ。どうしてだか知りたいかい?」
次の瞬間、凄まじい怒気が放たれた。
「―――それは、俺が手のつけられない傾き者だからさ!」
間一髪、慶次の間合いから逃れた半兵衛は、横ざまに茅の草陰へと飛びこんだ。
男たちには、何が起こったかもわかるまい。
嵐のような暴力が、正面の男の頬骨を叩き割る。鞘すら抜かず、慶次は長大な槍を突きこんだ。そのまま穂先を旋回させ、数人まとめて殴り飛ばす。
実力の差は歴然だった。
ようやく刀を抜いた男達も、慶次の迫力に気を呑まれて動くことすらままならない。
丈高い草に隠れた半兵衛もまた、その凄まじさに身を低くするのが精一杯だった。
「つまんねぇなあ、もう終わりかい?」
獰猛な笑みを浮かべて、音も無く慶次は動いた。まるで野生の猛獣を相手にするようなものだ。殺意でも悪意でもない、ただひたすら、純粋な衝動が爛々と目を輝かせている。
よくもまあ、他人を猫だと言ってくれたものだ。半兵衛が猫なら、慶次は午睡の虎だった。
それと知らずに尾を踏んだ男たちこそ、いい面の皮だろう。
―――この姿を、あの二人は知っているのだろうか。
ふと、半兵衛は疑問を覚えた。
甘すぎるほど慶次に甘い、前田家の現当主とその妻。人の好い彼らは、このような連中が慶次の周辺をうろついていると気づいているのか。
これは当主の交代に端を発した、いわゆるお家騒動だ。
ことによっては、家名に傷がつきかねない。
「……悪いな、半兵衛。無事か?」
剣戟の音と悲鳴が途絶えて、しばし。がさがさと冬枯れた薄をかき分けて、慶次が声をかけた。
―――知らないのだろうな。
その顔を見て、半兵衛は思った。
固く引き締められた横顔は、憑き物が落ちたように悄然として孤独だった。
得られたはずのものを数えては、恨みを募らせる輩は何処にでもいる。そんな下郎どもにとって先代の長子という存在は、まさにうってつけの大義名分に違いない。
否応無しに向けられる醜い欲望の矛先を、慶次はこれまで幾度も飲みこんできたのだろう。
はた迷惑な傾き者の、ごくありふれた喧嘩として。
たった一人、誰に理解されることもなく。
枯れ草の中に半兵衛を見つけて、慶次は小さく吹き出した。
「お前、それ抱えたままだったのかよ」
半兵衛は後生大事に筍を抱えたまま、草むらにしゃがみこんでいた。
「落とすなって言ったのは君だろう」
「いや、まあ、そうだけどさ」
「食べ物を粗末にすると、怒られるんじゃなかったのかい」
唇を尖らせた半兵衛に、慶次は肩を震わせた。こらえようとして喉をつまらせ、何度も咳きこむ。
「……慶次君」
とうとう声をあげて爆笑した慶次の脛を、半兵衛は蹴りとばした。
「あは、痛ぇッ!ははは……本ッ当、お前って変な奴だよな」
急所への蹴りをものともせず、目に涙を浮かべて笑い続ける慶次に、半兵衛は溜息をついた。
まったく笑えない。
前田慶次とかけて、ナナフシととく。その正しい解を知ったからには。
もう、笑えそうになかった。
たなびく薄雲を茜に染め、ゆるやかに夕闇がしのびよる時刻。
ようやく帰ってきた家人に、秀吉は顔を上げた。
「遅かったな。いままで何処へ行っていたのだ」
右に左に傾きながら、半兵衛はふらふらと歩いていた。おぼつかない足取りで床柱にぶつかり、あやうく転びかける様子に秀吉は眉をひそめた。
熱でもあるのではなかろうか。線の細い身体のわりに、半兵衛は何かと無理をしたがる癖がある。
「すまない、やっと分かったよ」
秀吉の前に立ち、半兵衛は厳かに告げた。
「前田慶次とかけてナナフシととく。その心は―――」
ふらりと、その頭が揺れる。
「―――守るために身をあざむく、だ」
前のめりに倒れた半兵衛を、秀吉は慌てて抱きとめた。やはり熱があるのか、それとも怪我か。
動転した腕の中から、すこやかな寝息がもれて秀吉は目をみはった。
「……半兵衛?」
まったく、肝が冷えるとはこのことだ。秀吉の腕に身を預け、半兵衛は熟睡していた。
安堵に胸をなでおろし、秀吉はようやく事の顛末をさとった。
昨晩、酔って帰宅した自分を半兵衛は咎めなかった。責めぬかわりに、秀吉を誘った慶次の遊興三昧をやんわりと皮肉ったのだ。
ここはひとつ、友の名誉のためにも言わねばなるまいと、からかいまじりに謎掛けたのものの。
言うだけ言って、今の今まで忘れていた。
「そういうことか……」
慶次は軽薄だが、決して見た目どおりの馬鹿ではない。浮ついた言動も子供じみた振る舞いも、すべて理由がある。
ナナフシは、身を守るために小枝に化ける。
前田慶次は、守るために身をあざむく。
守りたいのは己の身だけではなく、奇抜な衣装に隠された正体は、とても無害とは言いがたいが。
それでも、前田慶次は七節男だ。
「しかしまさか、本当に解き明かしてしまうとはな」
すまないことをしたと、秀吉は苦笑した。
秀吉の言葉を真に受け、半兵衛は奮闘したのだろう。すやすやと子供のように眠る姿は、どことなく誇らしげだった。
半兵衛が慶次を見誤っていたように、自分も半兵衛を見損なっていたようだ。
目を覚ましたら、きちんと詫びてやらねばなるまい。
夕映えに影を濃くした勝手口の奥から、帰宅を告げる妻の声が響いた。
「で?結局、何だったんだよ」
湯気のたつ籠をかかえて、慶次はぼやいた。
灰汁をぬいて下茹でされた筍は、まるまると立派な胴回りをしていた。聞けば、半兵衛が隣家に置き忘れたものだという。
それを届けに使いに出され、家にあがりこんだ慶次は囲炉裏端に丸くなって眠る半兵衛を見て頬をかいた。
「朝からくついてくるかと思えば、急に帰っちまうし。訳わかんねぇよ、こいつ」
「うむ……それは」
答えかけて、秀吉は説明をやめた。今日一日、ずいぶんと味気ない思いをしたのだ。ささやかな出来心ぐらい許されてしかるべきだろう。
「お前の日頃の行いが悪いのではないか」
そらとぼけた秀吉を、慶次は疑わしげに横目で見た。
「秀吉。お前、何か知ってるだろ」
「いいや、知らん。俺は知らんぞ」
「その顔は絶対知ってるって。白状しろよ」
首に組みついた慶次をかわし、軽く拳でやり返す。
どたばたと揉みあう二人の足元で、半兵衛がむずがるように寝返りをうった。
台所では妻と手伝いの下女が、遅くなった夕餉の支度にあわただしく働いている。一緒に食べてゆけと慶次を誘い、秀吉は笑った。
後日。
さっぱりと興味の失せた様子の半兵衛に、どうやら振られたらしいと察したまつが、ちょっぴり慶次に優しくなったことは、また別の話である。
□ END □
読んで下さった方から大体あってると言われて安心した覚えがあります。