いずれ永遠がたどりつくところ
竹中半兵衛の訃報を、前田慶次は越後の地で聞いた。
稲葉山城占拠にて、天下に名を知らしめてより六年弱。
動乱の表舞台に立った期間は短く、友であった時間は更にわずかだった。
空高く、澄んだ青が何処までも広がる上天気。
二度と訪れるまいとの覚悟で去った大阪城の城門を、慶次は皮肉な気分で見上げていた。
実は相当ごねたのだが、上杉の客将という立場はやはり弱い。友誼を重んじる慶次としては、いかに豊臣が気に入らない相手でであろうと、自分を謙信に推してくれた直江兼継に迷惑をかけてしまうのは本意ではないのだ。
「働かざるもの食うべからず、ってね。まあ、禄高もらってる分くらいは、働いてくるとするか」
つぶやく声にも、いまひとつ精彩を欠く。
重い足取りで、慶次は門衛に来訪の意を告げた。
本能寺の変以降、諸国の力関係は微妙な緊張を強いられていた。
尾張の魔王の消息は知れず、織田に背いた明智光秀は何者かに討ち取られ、日の本の勢力図に広大な空白地帯が出現したのだ。
新たな覇者に名乗りを上げるは容易いが、混迷を極める状況下、いつどこで足元を掬われるか予測もつかない。
当面の敵と相対するために、敵の敵とよしみを結ぶは必然の流れだった。
「上杉殿の意向はあいわかった。甲斐の虎が軍神との戦に専念してくれるならば、こちらとしても悪い話ではないな」
上座にて相対し、秀吉はうなずいた。
豊臣の基盤である畿内の西は、織田の領地をはさんで甲斐の武田と向かい合う。
上杉にとっても、慶次を通じて僅かなりとも前田家や豊臣とよしみを結ぶことは、今後の戦に大きな意義を持つ。
返書をしたためるため、祐筆が支度する様を横目に、秀吉はぽつりと呟いた。
「お前が、仕官するとは思わなんだ」
慶次は肩をすくめてみせた。
「ただの客分だ。謙信は友達だからな」
「そうか」
それきり、再び沈黙が落ちる。
厳めしく唇を引き結んだ秀吉の顔は、どこか疲れた色を漂わせていた。
秀吉と半兵衛は、豊臣という車の右輪と左輪のようなものだった。片輪だけでも車は進むが、その負担はどれほど重いことだろう。
富をあつめる逢坂の町、強大な軍隊、広大な曲輪の中心にそびえたつ城。
そのすべてを、たった一人で背に負って立ち。
俗に千畳敷と呼ばれる壮麗な御殿のなかで、秀吉の姿はひどく孤独に見えた。
受け取った返書を懐に、早々に城を辞す。
いずれ両軍の間で正式な使者が交わされるが、今はまだ内々のため供応もひっそりとしたものだった。
門前で、ふと慶次は見送りの男にたずねた。
「墓、でございますか」
「半兵衛の墓、どこにあるんだ?まさか播磨じゃないだろ?」
慶次が最後に会ったとき、半兵衛は肺を患って病の床にあった。播磨の陣中にて没す、と伝え聞いたときには耳を疑ったものだ。
「播磨にて経をあげ荼毘に付したのち、縁の寺でお骨を預かってございます。美濃にあります御一族へ、いずれ送り届ける事となっておりますが、今はまだ」
遺骨を預かる当の寺院は、ここからさほど遠くないと教えられ、慶次はうなずいた。
「悪いけど、ついでに道順も教えてもらえねぇかな」
「今から詣でるおつもりで?」
「このまま線香の一本もあげずに帰ったら、あいつ怒って化けてでそうだろ」
悪口めいた慶次の物言いに、男は面食らったようにまばたき、やがて微笑んだ。
「では、しばしお待ちを。某めが、ご案内つかまつります」
怒るかと思っていた慶次は、肩すかしをくった気分で男を見た。
秀吉の配下にしては武張ったところがなく、物腰が柔らかい。が、飄々とした表情には、どことなく癖のある強かさがうかがえた。
理知的な明るい眼差しが、半兵衛に少し似ている。
「あんた、名前なんていったっけ」
不躾な慶次の問いにも、やはり微笑んだまま、男は答えた。
「黒田官兵衛と申します。貴殿の事は、竹中殿より常々うかがっておりました」
慶次を待たせ、男は部下に指示を与えながら城内へ引き返し、やがて墓参の花をたずさえて戻ってきた。
「急ぎましょう。日暮れにはまだ間がありますが、寺門は早くに閉じますゆえ」
肩を並べて足を進め、奇妙な連れだと慶次は横目で男を盗み見た。
何と言っても、つい先年、たった一発、拳で語るためだけに大阪城に殴りこんだ身の上だ。
危険人物であると、にべもなく扱われるなら話はわかる。
だが、男の態度は親しみやすく丁重だった。
その上、いがみあってばかりだった自分の事を、半兵衛が他人に話していたとは驚くよりほかにない。
途惑う慶次に、男はわずかに首をかしげてみせた。
「さて、某は軍略の一環として、御大将をとりまく状況を語って聞かされただけにございます。貴殿の行動は、予測不能であるゆえ天災にあったと思ってあきらめろ、と」
「ひっでえな。あいつ、そんな事いってたのかよ」
「そういう時の竹中殿は、いつも笑っておいででしたな」
懐かしむように目元を和ませた男に、慶次はふうん、と気のない相づちをうった。
なんだか面白くなかった。
もともと、半兵衛とのつきあいは秀吉に比べれば浅く短い。それでも友だという自負が、慶次にはあった。
熾烈な口喧嘩も、殺意を交えた闘いも、その根底をくつがえすには至らなかった。
それなのに。
自分の知らない半兵衛を、この男が知っているのだという事が、妙に引っかかる。
訣別してから、それなりの年月を経ているのだから当然といえば当然のことなのだが、それでも面白くないのだ。
「どうかされましたか?」
「いや……なあ、アンタ、その足どうしたんだい?」
問いに問いを返して、話をはぐらかした慶次に、男は微かに苦笑した。
「お恥ずかしながら、戦で虜囚の憂き目にあいまして。以来、少々不自由をしております」
慶次の指摘どおり、男は片足をわずかに引きずりながら歩いていた。馬に乗るにも戦に出るにも、足が不自由ではままならない。この時代、それは武将として致命的な傷だった。
「そりゃ、悪いこと聞いたかな」
「なんの、自業自得にございます。某は、豊臣の将としては新参でして」
男は元々、西国は播磨の出身であるという。かの地の諸将は今、毛利の傘下におさまるか新興の豊臣になびくかで、大きく揺れ動いている。四国では長曾我部が勢力をのばしている事もあり、誰が何処と内通しているのか、疑心暗鬼にならざるをえない。
「敵に捕らわれた際も、帰陣せぬ某を、誰もが死んだか裏切り寝返ったものと思ったそうです。ただ一人、竹中殿をのぞいては」
男は、おだやかに慶次を振りあおいだ。
「某の生還をうたがわず、節を曲げぬと信じてくれた。その恩人の墓に詣でたいと申される方を、何故おろそかに出来ましょうや?」
「………あー、いやその………」
軽やかな口調で、さらりと核心をついてくる。つまらない嫉妬を見透かされたようで、慶次は苦笑いしつつ降参した。
「アンタと喋ってると、半兵衛は楽しかったんだろうな」
なんとなく、そんな気がする。
半兵衛の頭の回転に、ついてこれる者は多くない。大半の人間が、半兵衛にとっては一を十にも噛み砕いて話さなければならない相手でしかなく、それで慶次は何度も叱られた覚えがあるくらいだ。
一を話して十を知る、この男との会話は、さぞ小気味よかったに違いない。
「実のところ、話す機会は多くありませんでしたが。何気ない言葉のひとつひとつが、忘れがたく記憶に残っております。あの方は、そういう御方でしたな」
「そうだよな。俺も、あいつの強烈にまわりくどい嫌味は、忘れたくても忘れられねえし」
「はあ、さようですか」
慶次のぼやきに、男は肩を震わせて笑いをこらえた。
暮れなずむ町並みを北に抜け大川を渡った向こう、寺院が多く建ち並ぶ一角に、その寺はあった。
本堂の脇、こぢんまりとした宿坊の奥に、半兵衛の遺骨は仮安置されていた。
誰でも気軽に香を上げられるよう、祭壇は解放されており、弔問の花が所狭しと供えられている。
清々しく匂う樒や大輪の白菊、あでやかな紫の桔梗にまぎれて、米だの野菜だの子供の玩具だの、よくわからないものが山のように積みあげられた、その中央に。
骨壺なのだろう。
小さな壺と位牌が祭壇の上、がっしりとした木枠の内に納められている―――のは、わかるのだが。
何故か、木枠は厳重に鎖で縛られており、鎖の端は近くの柱にくくりつけられていた。
「ああ、これはですな」
あっけにとられた慶次に気づき、男は苦笑した。
「仏舎利のごとく、ありがたがる兵士たちがくすねて行こうとするもので、このような仕儀に」
「なんだそりゃ」
「まあ、言うなれば博打の神様とでも申しましょうか」
「博打ィ?」
確かに戦における軍略は、一か八かの博打のようなものだという。しかし、いかに智謀を誇る天才軍師であるとしても、そのような意味をもつまでになるだろうか。
「あれは、いつのことでしたか。軍令にて、博打を禁ずるべしという声が諸将の間からあがりまして」
記憶をたどるように、男は遠い目をして顎をなでた。
「賽子のような手軽な博打は、行軍中の兵にとって唯一の娯楽ですが、中にはタチの悪い者もおりましてな。イカサマで金品を巻き上げたあげくの喧嘩騒ぎに流血沙汰。風紀を乱すこと、目に余るものがあると」
香炉に抹香を足し入れ、両手をあわせて、しばし瞑目する。
「その時、ただ一人、これに反対したのが竹中殿でした」
「またかよ」
慶次は顔をしかめた。つくづく、竹中半兵衛という人間はあまのじゃくに出来ている。誰もが是とする事柄も、おのれの基準で間違いならば、否と言わずにはいられない性格なのだ。
男は楽しげに小さく笑った。
「原因と結果、因果の順序が間違っている。そう、おっしゃられましてな」
おどろく諸将を尻目に、半兵衛は一人で兵卒の間に入っていったのだという。
そして私財を餌に、みずから賽子博打の勝ち抜き戦をもちかけて、大々的に兵を巻きこんだ。勝ち抜くにつれ賭け金はうなぎ登りに跳ね上がり、それにつられて件のイカサマ連中が周囲に群がりはじめた。
その途端、
「あの方は、ああいう外見でしたから。それはもう、にこやかな優しい顔で身の毛もよだつような悪辣な手口をさらりとしてのけ、連中の身ぐるみを剥いでおしまいになられて」
要するに、イカサマをイカサマで返したわけだ。
難癖をつけて暴れようにも、相手は泣く子もだまる豊臣の軍師である。権威を背負っているだけに、そこらの破落戸よりも数倍タチが悪い。
「以来、ふらりと一般兵に混じっては博打で手癖の悪い者を叩いてゆかれるので、泣きをみていた兵たちからは絶大な人気がありましたな」
「へぇぇ………」
それは兵のためと言うよりも、単に自分が博打好きだっただけだろう。喉元まで出かかった言葉を、慶次は危うく呑みこんだ。
これだけ皆に慕われ惜しまれているのだ。なにも水をさすことはない。
慶次は祭壇の前に進みでた。
男にならって香をあげ、手を合わせる。
立ちのぼる青い煙が、つん、と鼻奥を刺した。
―――本当に、もう、半兵衛はいないんだな……
今更ながら、そんな事を思う。
彩りあざやかな献花、雑多な供え物。ここにあるのは、故人を偲ぶ思い出ばかりだ。
自分が知る半兵衛も、知らない半兵衛も。
その思い出が増えることは、もう二度とないのだと。
瞑目した目蓋の裏が、じわりと熱くなって。
そうして初めて、慶次は半兵衛の死をしみじみと悼んだ。
一を聞いて一を知るでもなく、十を聞いてようやく一を分かりあえる。
それならば、つまらない意地など張らずに、もっと話しておけば良かったと、今になって悔やんでいる。
罵りあいでも、くだらない話でも、何でもいいのだ。
生きていてくれさえするのなら。
『お願いだから、君は秀吉より先には死なないでくれないか』
半兵衛が慶次に託した、最後の願い。
それは、どういう意味だったのだろうと、今にして思う。
―――秀吉の心配しかしてねぇと思ってたけど……
少しやつれた秀吉の孤独な横顔を思い出し、慶次は心のうちで舌打ちした。
―――半兵衛の奴、夢枕にでも立たねーかな
そうすれば、問いただす事ができる。それこそ、もっと馬鹿げた話だって出来るのに。
案内の礼を言って、寺の門前で男と別れる。
茜色に染まる夕映えに照らされ聳え立つ、大坂城の巨大な影を仰ぎ、慶次は長い間その場に立ちつくした。
宿に預けた夢吉を引き取り、夕餉をかきこんで早々と床につく。
正直、旅の疲れよりも気疲れの方が身にこたえる。格式ばった遣り取りも、やってやれないことはないが、やっぱり自分の性には合わない。
枕に頭をつけるなり、深く寝入ったつもりだったのだが。
「………ぶはぁっ…!!」
何故だか急に息苦しくなって、慶次は目をさました。あろうことか、誰かに鼻をつままれている。
武士にもあるまじき失態に、慶次はあんぐりと口を開いた。
「半兵衛ぇぇ?!」
『望み通り夢枕に立ってやったっていうのに。何だい、その反応は』
枕辺に立っていたのは、竹中半兵衛その人だった。戦場に在った頃そのままの、純白の戦装束に紫の仮面。
顔を覆う奇妙な仮面は冷ややかな光を帯びていて、相変わらず表情がよめない。
「お前、何でこんな所にいるんだよ?」
驚いた慶次の問いに、鼻をつまんだ半兵衛の細い指先に力がこもった。
『それは僕が聞きたいよ。何だって僕が此岸に呼び戻されなきゃいけないんだ』
「ちょっ…半兵衛、息!息が出来ねぇよこれ!」
『……口から呼吸をしたまえ』
「あ、なるほど」
『…………………………』
半兵衛は、あきれたように指を離した。すーはー呼吸を整えた慶次に、ため息をついて言う。
『君は健やかでいてくれと、そう言っただろう。なのに君ときたら、こんな所で魂を迷わせて』
「こんな所?」
言われて初めて、慶次はあたりを見回した。
寝ていたはずの布団がない。それどころか宿の中ですらなく、全体に薄ら明るい淡い靄に包まれている。
「何処だ、ここ?」
『中有とも中陰とも言うね。平たく言えば、この世とあの世の中間だ』
「へぇ、初めて来たな」
『当たり前だ。生者のくせに、そうそう何回も来たら命を削るよ』
「っつーかお前、幽霊なんだよな。半兵衛」
もの珍しい気持ちで、半兵衛の陣羽織の裾をつまむ。ごく普通に布の感触がして、慶次は感心した。
「なんか全然、そんな気がしねぇんだけど」
『……君はどうしてそう緊張感がないんだ』
半兵衛は額をおさえて呻いた。
『さっさと用件を言ってくれないか。一体、何のために僕を呼んだんだい』
「えーっ、と。用件、用件ね……」
慶次はあわてて言葉を探したが、焦れば焦るほど思い出せない。
「……何だっけ?」
確かに、夢枕に立って欲しいと願ったのは自分だが。
『……帰るよ僕は』
「わあ、待て待て。話がしたいと思ったのは本当だっての。嘘じゃねぇよ」
『だから、何の話を?』
「なんていうか、こう、馬鹿話みたいな」
『そんな事のために自分の寿命を縮めようとしたのか、君は!』
完全にあきれかえったのか、半兵衛はがっくりと座りこんでしまった。
「半兵衛?」
『慶次君、これで満足かい。僕はこんなに馬鹿な話を他に知らないよ……』
頭をかかえた半兵衛に、申し訳ない気がして慶次はそっと声をかけた。
「あー、悪ぃ。半兵衛、怒ってるか?」
『……別に。他に用がないなら、もう行くよ。長居をすれば、君が戻れなくなる』
「行くって、何処にだよ」
『この格好を見ればわかるだろう?僕は生前、戦でたくさんの命を奪い、人を陥れ、業を重ねてきた。しかも、それを悔いてはいない。浄土にゆけるはずもないよ。罪に応じて、六道を巡ることになる。永遠にね』
六道とは、生命あるものが輪廻転生するという六つの苦の世界を指す。慶次が暮らす人間の世界も、そのひとつだ。
半兵衛が病で死んだように、生病老死の苦があるとされている。
『君は浄土に行けるよう、せいぜい功徳を積むんだね』
「そりゃ無理だろ。だって、俺も仕官したし」
合戦になれば、どうしたって殺生の罪は避けられない。半兵衛は怪訝な声を出した。
『君が仕官?どういう風の吹きまわしだい?』
「謙信は友達だからな、って……これ、秀吉にも説明したぞ俺」
『秀吉に会ったのか』
「まあな。お前こそ、秀吉に会ってないのかよ」
半兵衛の性格からすれば、それこそ真っ先に夢枕に立ちそうなものだが。
『君みたいに死者を呼ぶほど愚かじゃないよ、秀吉は。それに、秀吉も僕に劣らず業が深いからね。輪廻の内で、また巡り会うこともあるだろう』
「ふーん……」
死者と語る死後の話。
半兵衛と話したかったのは、そんな事だっただろうか。
ふと気づいて、慶次は少し悲しくなった。
話したい事があったのだ。けれどもそれは、生きている人間と話してこそ、意味のある事ではなかったか。
ならば、話をする相手は秀吉であるべきだ。お互いに、まだ生きて命があるのだから。
死出の旅路を引き留めてまで、自分は何をしたかったのだろう。
「なあ、半兵衛」
慶次は半兵衛を手招きした。かがむように指で示して、近寄せた半兵衛の顔から素早く仮面を奪いとる。
『―――慶次君!?』
驚く半兵衛に、慶次はひょいと仮面を掲げてみせた。
「いつか何処かで、また三人で逢おうぜ。これは、その時まで俺が預かっとく」
『はあ?』
「輪廻しつづけるんだろ。だったら、永遠の何処かで逢う約束したって、バチは当たんねえと思うぜ」
『何を言い出すかと思えば………』
半兵衛は目をみはり、次いで小さく溜息をこぼした。
丸みをおびた白い頬に、淡く色づいた薄い唇。露わになった半兵衛の素顔は、病の床で見た時よりも明るく澄んでいた。
猫を思わせる柔らかな髪の下で、すう、と目が細くなる。
『……つくづく、君の能天気には呆れるね』
うんざりとした口調で肩をすくめながらも、半兵衛の目は笑っていた。
やっぱり、半兵衛は素顔の方がずっと優しい。
『わかった。この仮面は、約束の証拠に預けてゆくよ』
「おう。その時までに、お前に話したかった事、ちゃんと思い出しておくからさ」
『期待しないで待ってるよ。じゃあね』
軽く手を挙げ、半兵衛は踵を返した。淡い靄が、遠ざかる背を覆い隠してゆく。
「じゃあな、また」
見送る慶次の周囲もまた、ゆるゆると靄が濃くなってゆく。
水底のように靄が渦を巻いて光を呑みこみ、あたりが急に暗くなって、そこで慶次は目を覚ました。
「……変な夢……いや、夢じゃねぇのかな」
寝床から半身を起こし、慶次は呟いた。
目覚めてみれば、夢だった気もするし、そうではないような気もする。
そろりと開いた両の手のひらに、約束を示す仮面は無かった。ただ、あの冷たい紫を思わせる、ひんやりとした感触だけが指先に残っている。
―――やっぱ、あるわけ無いよな
夢の中で受けとったものが、目覚めたあとまで残っているはずがない。
けれど、不思議と落胆する気にはなれなかった。
―――まあ、どうせ実物は秀吉が持ってるだろうし
友の形見を、秀吉は手放したりしないだろう。
冷酷非情と責めながらも、何故かそれだけは確信が持てる。
「もし逢えるなら、皆で花見でもしたいよな………」
ごろりと寝転がり、慶次は再び目を閉じた。
うららかな春の空。
あたたかい風が吹き、雲まで花びらに染まるような、
大きな桜の下がいい。
自分が約束を、秀吉がその証をたずさえて。
きっと、かならず、
いずれ永遠がたどりつく場所で、また逢おう。
□ END □
あの頃は、まさかモブから昇格するとは思ってなかったんだ……。