嘘歌 -翼折れた鳥の歌-
[ 4 ]
ひと目みて、戦慄に全身が震えた。
柔らかな髪に白い肌。薄い唇は色が淡く、優美な所作は人ならざる者のように麗しい。
例えるならば、一羽の鳥。
大空から地上の些事を眺めおろす、透徹した神の視点。
その智謀、神の如しとは言ったものだ。
天に棲む鳥は、憂える瞳に地上の有様を映すばかりで、目の前の自分を見ようとはしない。
「あきらめたまえ。僕は誰かに仕えるつもりなどない」
難攻不落の名城を、たった十六人で陥落させておきながら、鳥は城を捨てて飛び去った。
以来、数多の武将が面談を望んだが、鳥は誰にも囀らず、ただただ天を舞うばかり。
それが酷くもどかしく、男は身を乗り出した。
「ならば、友として迎えよう」
思いの丈を言葉にこめる。空をゆく鳥に向けて、声の限り。
「この内乱を収めぬかぎり、いつか日の本は滅ぶ。我と共に来い、竹中半兵衛」
ふと、視線が動いた。
「内乱?」
ゆるやかに首を廻らせ、焦点を結んだ瞳が彩りを帯びる。
「この戦国乱世を内乱と言い切るのか、君は。―――いいだろう」
くすりと微笑い、鳥は高らかに歌った。
「僕の全てを、君に与えよう。誓うよ、世界の全てが敵になろうとも僕は君についてゆく」
神の鳥は舞い降りた。理想を謳う男のもとに。
「高麗の薬人参ですよ!せっかく殿が特別に取り寄せてくださったというのに、あの方ときたら!」
怒りにふるえる両手に、空の茶碗がカタカタと鳴る。盆を抱えた三成は、憤然と主人に訴えた。
「人参は嫌いだなどと、子供のように駄々をこねて」
「……ほう?」
秀吉は首を傾けた。
半兵衛に食べ物の好き嫌いがあるとは初耳だ。
失敗に終わった演習の後、半兵衛は高熱を発して床に伏した。もとより知られた蒲柳の質だ。しばしの休養に異を唱える者もなく、兵務のない長閑な小春日和が、城のなかに満ちている。
ただ、今度の風邪はやけに長患いだった。床に就いてから随分経つというのに、熱の引く様子がまるでない。
「しかし、粥は食べたのだろう?茶碗が空ではないか」
「そ、それは……っ」
秀吉の指摘に、三成の頬が紅く染まった。
「そう言うからには三成は子供ではないのだろう。ひとくち食べて美味しそうな顔をしたら、食べてもいいと、その………そのようにおっしゃるので……」
「食べたのか」
「はい……も、申し訳ありません!」
全身で恐縮する少年に、秀吉は笑いを噛みころした。
ようするに、美味しそうな顔に見えないと言われては、ひと匙ずつ食して、結局すべてを平らげるはめになったのだろう。
大陸に産する薬人参は、滋味深いかわりに独特の臭気がある。
もの慣れない少年に、美味そうに喰えというのは酷な話だ。
見舞いに訪れた枕元で、秀吉は半兵衛に言った。
「あまり三成をいじめるな」
「いじめられたのは僕のほうだよ。まったく、耳元であんなに腹の鳴る音がしたら、眠れる訳がないじゃないか」
枕に頭をつけたまま、半兵衛は笑った。
育ち盛りの三成は、どれだけ食べてもすぐに腹の空く年頃だ。くうくうと、憐れに鳴る腹の音を聞けば、食べさせてやりたくなる気持ちはわかる。
だが、そもそもは病人の薬として求めたものなのだ。本人が食さねば意味がない。
眉をよせた秀吉に、半兵衛はうそぶいた。
「大丈夫だよ。こんなに長い間、ぐうたら寝かせてもらったんだ。きっと明日には、床払いができるんじゃないかな」
「嘘を申すな」
奇妙なことに、半兵衛の熱は昼に低く夜に高い。夜半、熱にうなされ苦しむ様は、到底ただの風邪とは思えなかった。
「嘘だなんて、ひどいな」
「以前にも言っただろう、お前は嘘が多すぎる」
「他人の事は言えないよ。山崎で、三成君を本陣から脱走させたのは君じゃないか」
「何のことだ。我は三成に、厠の近道を教えただけぞ」
「その言葉、僕に信じて欲しいのかい。秀吉」
だったら僕の言葉も信じて欲しいよ、と半兵衛は呟いた。
額にかかった白い髪を、指でそっと払ってやる。汗に湿る柔らかな髪が、くるくると渦を巻いた。
「では、お前の何を信じて欲しいのだ、言ってみよ」
「そうだね。―――僕が、人参を嫌いな事とか」
「嘘だろう」
即座に返された秀吉の否定に、半兵衛はむくれて次を続けた。
「―――三成君をいじめてなんかいないとか」
「嘘だな」
「―――布団に隠れて書きものをしてないとか」
くだらない応酬のひとつひとつに答えながら、秀吉は半兵衛の顔を指先でなぞった。
落ち窪んだ両の目蓋。耳から顎にかけて、研いだような頤の輪郭が痛々しい。
「―――元親君が飼ってる喋る鳥は、発条仕掛けで空を飛ぶとか」
だんだん意地になってきたのだろう。半兵衛は脈絡なく、でたらめばかりを並べはじめた。
「―――南蛮異教の礼拝では、腐ったイカを祭壇に祀るとか」
「それも嘘だろう」
「―――昔、君が初めて僕を訪ねてきた時、居留守なんて使ってない事とか」
声をだす度、痩せ細って形もあらわな喉仏が上下する。
「―――僕が、君を好きだって事だとか」
「………………………」
半兵衛の天命は尽きかけているのだろう。これほどの死相が、治る病とは思えなかった。
鳥が海を渡るように、人もまた、いつかは遠く旅立つものだ。
高価な薬も精のつく食べ物も、去りゆく命をつなぎとめることは出来ない。
「嘘だって、言わないのかい?」
「そうだな――……」
途切れた会話に、半兵衛は不思議そうにこちらを見上げた。
出会った頃から変わらぬ、黒目がちの大きな瞳。
澄んだ眼差しが初めてこちらを映した時の、あの歓びを今も覚えている。
「秀吉?」
怪訝そうに名を呼ぶ生気の乏しい唇は、戦化粧のように青褪めていた。
「どうかし――、た……―!?」
秀吉は身をかがめ、その唇にくちづけた。
「――……ん、ぅ……」
柔らかく食み、ゆっくりと舌で形をなぞる。息を奪わぬよう、何度も繰り返し舐めるうち、色の失せた唇がほんのりと血の気を取り戻した。
そっと唇を離して、秀吉は言った。
「どうせなら、いっそ、友だというのも嘘にしてしまえ」
「……ずるいよ、君は」
笑おうとして失敗し、顔を歪めた半兵衛の声が震える。
「嘘つきなのは、お互いさまだ」
「確かにね」
くつくつと喉で笑った半兵衛の瞳から涙がこぼれ落ちた。
それから長い長い時間をかけて、秀吉は半兵衛に触れた。
冷えた手足を温めるように口に含み、熱の篭もる下腹を撫で、誰も暴いたことのない秘めた肌を、すみずみまで指で探る。
白い裸身を褥にさらし、ゆるゆると感極まった半兵衛は、細く幽かな喘ぎをこぼして力尽きた。
互いの身体を交えることのない、穏やかな情事。
眠りに落ちる寸前、ごめん、と半兵衛は呟いた。
ただ触れるだけの行為ですら命を削る切なさに、秀吉は黙って目を閉じた。
半兵衛が倒れたのは、翌年の半夏生、百日紅の咲きそめる水無月の頃だった。
初夏の空は軽やかに雲を浮かべ、どこまでも青かった。
木々の梢を渡る風が、さわさわと葉を鳴らして波のように吹き抜けてゆく。
腕のなかの半兵衛は、眠っている。
数日前から、寝たり起きたりを繰り返しながら軍務に就いていた半兵衛は、ついに今日、陣屋の中で意識を失った。
口うるさく養生をすすめていた医者も、とうとう匙を投げた。
戦場に死ぬことが武士の本懐というのなら、思うままにすればいい、と。
秀吉は、半兵衛を抱いて陣屋を出た。
切り立った崖の先から、なだらかに広がる平野を望む。晴れた空の向こうに、鉛瓦を輝かせ、籠城を続ける敵方の城がよく見えた。
「―――半兵衛……」
陣中の常として青く染めた唇に頬をよせ、口づけを落とす。舌で舐めとった戦化粧の下、素顔の唇もまた青褪めていた。
これでは病に斃れたのか剣に死んだのか、余人にはわかるまい。
そうまでして、半兵衛は戦に死にたかったのだろうか。
半兵衛は最後まで、病の名を明かさなかった。
「……ひ、――でよし……」
掠れた呻きをあげて、半兵衛が目を開いた。
「起きたか」
「―――………………」
焦点のあわない瞳が、茫洋と空を見上げた。唇が微かに動き、声なき声で何事かをささやく。
おそらく、直前まで気にしていた豊臣方の付城のことだろう。
「待っておれ。今、そこまで連れて行ってやる」
悲しいほど軽い身体を抱えなおし、秀吉は歩き出した。山道を下ることしばし、林を抜けて急に空がひらけた。明るい昼の日射しが、頭上に降りそそぐ。
黙って揺られていた半兵衛が、小さく身じろいだ。
「……秀吉、降ろしてくれ……」
急に驚くほど明瞭な言葉をかけられて、秀吉の足が止まる。
「どうした、苦しいのか」
「違う……こうしていると、空しか見えないから」
手を取り身体を支えてやると、半兵衛はよろめきながら立ち上がった。
震える足に力をこめ、真っ直ぐに顔を上げる。
「思い出したよ。君と出会った時のこと」
ほんの数年前の出会い。それが今は、遠い昔のことのように思われた。
二人で歩んだ長い戦いの道の末、一兵も持たなかった秀吉は豊臣の総大将となり、半兵衛は死にゆこうとしている。
まるで夢と命を引き替えにして天下を掴む力を得たかのように。
あまりに酷い代償に、秀吉は拳を握りしめた。
ほんの少し眩しそうに目を細め、半兵衛が微笑った。
「……見てみたかったんだ。君と同じ地に立って、君が見ようと望むものを」
空の高みからではなく、遠くまで地を歩いてこそ見える景色を。
―――だから、最後まで一緒に歩かせて。
差しのべられた手が、握りしめた拳をなだめるように包みこんだ。
「大丈夫、ちゃんと歩けるよ」
「……嘘をつけ」
「こんな時まで、君は本当にひどいね」
半兵衛は、色褪せた唇で綺麗に笑う。秀吉は指を解き、拳を開いた。手と手が重なる。
「――我と共に行くか」
「うん」
嘘と欺瞞を積みあげて、二人でここまで歩いてきた。
繋いだ手と手が離れたら、
そこからは、一人で行くのだとわかっていても、
まだ少し、あと少しと、ささやかな嘘を願って再び歩き出す。
嘘をつくことすら出来なくなる日は、すぐそこなのだから。