あけめやみ




 戦の勝敗は、始めからついていた。
 敵を侮り驕るそぶりは、挑発としても兵を勢いづける意味でも有効だが、本当に相手を見くびり手抜かるようでは話しにならない。
 情勢は、ほどなく一方的な殺戮へと推移した。
 やぶれかぶれに切り結び、あるいは震える足を叱咤して逃れようとあがき、やがて物言わぬ骸になる。
 逃げる大将の捨て駒に、殿軍として置き去りにされた兵卒の悲惨。
 そのことごとくを粉砕して地に沈め、ようやく戦は終わった。
「僕らの勝ちだね、秀吉」
 ほっそりとしなやかな影が、音もなく傍らに寄り添う。
「……うむ」
「どうかしたのかい?」
「……いや」
 強きものは身の丈にそぐわぬ虚言を吐きちらしながら今なお在り、弱きものは既に物言わぬ。物言わぬ真実が、累々と荒地に横たわる。
 それが、この日の本の現状だ。
「この国は、弱いな」
「……そうだね。今は、まだ」
 握りしめた左手の、古い傷跡が痛みを訴える。
 癒えたはずの傷の下で、踏みにじられた記憶が疼いている。
―――未だ我が願い事成らず。ならば、我が身もまた弱きものか。
 幾多の命を奪った剛腕も、この痛みだけは握りつぶせない。それが、酷くもどかしかった。

 血の色をした落日が、最後の光で戦場を赤く染めていた。




「秀吉、まだ眠らないのかい?」
 勝ち戦を終えて数日。ようやく戦功の検分から失われた兵の弔い、新たな戦への備えを済ませて、皆がつかの間の日常を取りもどす頃。
 夜なお皓々と灯りがともる主の部屋に、竹中半兵衛は気遣わしげに眉をよせた。
「………半兵衛か」
 ゆるりと緩慢に首をまわし、秀吉は親友の姿を視界におさめた。
 部屋の角に手燭がひとつ、照らす影はほとんどが空の徳利である。濃厚にただよう酒精の香りに、半兵衛は顔をしかめて、後ろ手に襖を閉めた。
「僕だよ。まさか、それも分からないほど酔っているんじゃないだろうね」
「酔ってはおらぬ」
 その言葉には耳をかさず、半兵衛は秀吉の手から杯を取りあげた。
「御酒も過ごせば毒になる。それに君、最近ほとんど眠っていないだろう。昨日も一昨日も、その前も」
「…………………」
 むっつりと押し黙ったまま秀吉は、半兵衛を押しのけて腕をのばした。引っつかんだ徳利を、そのまま口元へ運ぶ。
「秀吉!」
 止めようと揉みあった半兵衛は、秀吉の腕に振り払われて、したたかに背を打った。
 元より身の軽さが本領だ。怪我をするほどではなかったが、それでも肺腑に響いて咳がでた。
「………すまぬ!半兵衛」
 咳きこむ姿にようやく、自分のしたことに気づいた様子で、秀吉は身を起こした。
 苦しげに震える背をさすると、涙のにじんだ眦でにらまれる。
「酔ってるだろう」
「そうかもしれん。だが、いくら飲んでも眠れぬのだ」
 低く沈んだ声音で、秀吉は答えた。陰鬱な目の色を、疲れたような半眼の下に湛えたまま、壁際へと視線をなげる。
 部屋の隅の暗がりに、もやもやと闇が凝っていた。
 つられて目を移し、半兵衛は小さく首をふった。
「そこには何も無いよ、秀吉」
「わかっておる。だが、………」
 それきり、口を閉ざして秀吉は動かなくなってしまった。
 長い沈黙が、二人の間に落ちた。
 自分を追いつめがちな秀吉の一途さは、決して欠点ではない。思い極める力がなければ、時代を動かすことなど不可能だ。
 だが今この時に、いったい何がこれほど秀吉を焦燥させているのか。それが分からない。
 半兵衛は、そっと息を吐いた。
 分からないのなら―――――待つしか、ない。
 ただひたすらに、無言で座り続ける。身じろぎもせず、息を潜めて。
 やがて手燭の蝋も溶けくずれた頃に、ぽつりと。
「―――昔、俺がまだ一兵卒として戦働きをしていたときに」
 秀吉が、語りだした。
「ひどい負け戦に遭ったことがある。場所は……忘れた。ただ、山が深くて暗かったことは、覚えている」
 負けた軍勢が陣を引き敗走する際の、行軍の末尾で敵を止め本隊を逃がす闘いを、退き戦という。
 勝利に酔った敵軍を、ほんの少数の兵で迎え討つのだ。退き戦では、兵の大半が死兵だった。
「戦っては逃げ、追いすがられては、また戦う。いつの間にか陽が暮れて、己が目を開けているのか閉じているのか、それすらも分からぬ暗闇になっていた」
 秀吉は、他に抜きんでて体格に恵まれている。膂力があり、気力をそなえ、誰よりも多く生き延びる可能性をもっている。
 それはつまり、誰よりも死に至る道程が長いということだ。
「獣道を抜け、沢を渡るたびに、隣に聞こえていたはずの仲間の足音が消えてゆく。遠く後ろに悲鳴が尾を引いて、まだ追われているのだと知れる―――この間の、戦のように」
 乾いた笑いが、秀吉の唇から漏れた。
「おかしな話だ。あの戦を思い出すと、夜の闇が怖ろしくなる。追撃し、殲滅せしめたのは我だったはずだ。なのに……追われているのは、誰なのか。その背を追っているのは、誰なのか………わからなくなる」
 追い追われて繰り返す、人の世は愚かな戦に満ちている。
 配役を変え舞台を変えて、同じ血塗れの狂言小舞が幕をあげる。性懲りもなく。
「追われているのは……未だ、我の方なのか」
 真っ直ぐな眼差しが、灯火も届かぬ闇を覗きこんでいる。
 過去の記憶に囚われた秀吉に、半兵衛は背筋を震わせた。
 秀吉は一途だ。時に、危険なほど。
 このままではいけない事は分かっていた。
 分かっていても、答えをためらわずにはいられなかった。
 闇の底から自分を呼ぶ、忌まわしい記憶。その厭わしさに、目をそらしていたけれど。

 時は、来た。 


 踏みにじられた記憶で、踏みにじられた記憶を塗り変える。
 なんて滑稽で、
 なんて悲しい。
 それでも前に進むために、人には過ちが必要なのだろう。


「……秀吉」
 す、と闇をさえぎって細い手が伸ばされた。
「例え誰が追いかけてこようとも、君は君の道をゆく。そうだろう?」
 白い指先が、目蓋を覆う。
「君を妨げるものは、全部、僕が取り除くよ。だから、今は眠って」
 視界が閉ざされる、その直前に見えたのは、悲しげに微笑む半兵衛の唇だった。




 額に温かく柔らかな感触が、降りてくる。両目を塞いだまま、くちづけは鼻筋へと滑りおりて、うかがうように顎をかすめた。
 盲目の闇のなか、半兵衛の気配が周りを包んでいる。
 かすかに甘い、人肌の匂い。
 引き寄せると、たやすく腕の中に崩折れた。目蓋を覆う指がはずれて、秀吉は目を開いた。
 目を開けても、闇だ。
 べったりと視界を塗りつぶす、汚泥のような深い闇。手燭の蝋は、芯まで燃え尽きてしまったらしい。
 息を飲んだ半兵衛の、細い呼気を頬に感じた。
 これほど近いのに、姿がまるでわからない。その心許なさに、腕の中にいるはずの半兵衛の輪郭を指でたどった。
 複雑な起伏を描く、他人の肉体。
 何度もなぞるうちに、それが唇なのだと気がついた。
 かちりと小さな歯に突きあたり、引き抜きかけた指を含まれる。
 絡みつく舌が熱い。
 指先から、熱が伝染する。身体の奥に、じんわりと火が点る。
 ゆっくりと指を抜けば、くち、と湿った音がした。
 柔らかい髪が顎先をくすぐり、軽く小さな手のひらが体躯を這い回る。
 いつの間に帯を解かれたのか、ゆるんだ袷をかきわけて、舌が肌衣に潜りこんできた。
「………ふ………」
 漏れた声は、どちらのものだったか。
 張りつめた感覚は、舌がたどる道筋を敏感に追う。身体の熱が上がり始めていた。
「……半兵衛……………半兵衛」
 返事はない。舌も唇も、本来の役目を捨てて、ただただ秀吉の熱を煽るばかりだ。
「……それ以上は、……っ」
 慣れた手管でくつろげられた下肢の突端に舌が到達し、秀吉は呻いた。
 指先で感じたより激しく、濡れた音をたてて蠕動する。
 みるみる沸き起こる昂ぶりに、身じろいだ途端、にじみだした先がぬるりと何処かへ滑りこんだ。
 狭く濡れて、温かい。
 深々と吸い上げる動きに、目眩がするほどの快楽が込みあげた。
「……半兵衛!」
 溺れそうな意識を懸命にとどめ、身体を引き剥がす。掴んだのは、半兵衛の上腕のようだった。浅い呼吸を繰り返し、薄い肩が苦しげに上下している。
「………………」
「……………良いのか?」
 半兵衛は無言だった。
「……本当に?」
 ただ、闇の中で探りあてた指先が、縋るように震えていた。掌を合わせると、ゆるゆると握りしめてくる。
 膝の上に抱きとり背を撫でれば、ひくり、としゃくりあげるような息をした。
 その息を、吸いあげて唇を重ねる。
 舐めとった口中に、苦汁の味がした。それでようやく、先程の快感の正体を知った。
 この唇が、何を咥えていたのかを。
 堪えていた猛りが、思い出した感触に疼きだした。
 たまらず、口腔を強く貪る。襟をまさぐり、一息に服を剥いだ。
「……………!」
 急な動きに、半兵衛が身を固くする。それを宥めて、舌を這わせた。
 肌理の細かい滑らかな肌の味。薄い皮膚の下で、速い鼓動が胸骨を震わせている。
 平らかな胸に浮き出た、わずかな尖り。口に含むめば、さらに震えが大きくなった。
 膝が落ち、しなだれかかる身体を支え、下へ下へと舌を進める。
 腋のあわい、柔らかな横腹を食らいつくして、腰骨まで辿りついた時。
 ざらり、と。
 癒えた傷口か。不規則に盛りあがった肉の連なりが、舌をさえぎった。
「ひ……ぅっ…」
 身をわななかせて、半兵衛が腰を捩った。腰から背にかけ、点々と傷跡が続いている。
 形を見極めようと丹念に舌でたどるうち、しゃくりあげる息が、すすり泣きへと変わった。
 ぽたりと冷たい雫が額に落ちる。
 声にならない掠れた声が、切れ切れに囁いた。
 目、を、閉、じ、て。
 この暗闇の中で、さらに目を瞑ることに何の意味があるというのか。
 下肢を撫で流れた手の内に、切なく勃ちあがる半兵衛の塊を感じて、ようやく気がついた。
 どちらも男だ。畢竟、行いは男女の交わりと異なる。
「半兵衛…………」
 途惑いを読まれたか。名を呼ぶと同時に、ふたたび目を塞がれた。
 首に縋る半兵衛が、ゆっくりと身を沈めるのがわかった。
 秀吉の剛直に突きあたり、柔らかく割り開かれる。時折、引きつった息が耳元で漏れた。
 腕の中に半兵衛はいる。
 では、今、自分を飲みこんでいるのは何処なのか。
 腿からたどり、双丘の奥の瀬戸際へ指を差し入れる。張りつめた薄い皮膚の縁を、ぐるりとなぞりあげた。
 途端に、
「…!」
 半兵衛の身体が跳ねた。口腔よりも熱く、きつい。飲みこんだ猛りを食い締めて、絡みつく。
 は、と熱い息を吐き、半兵衛の身体は根元までを全て飲みこんだ。
 秀吉を身の裡に納めて、半兵衛は揺れだした。ゆらゆらと、くねる動きのひとつひとつが快楽のうねりに結びつく。
 咥えられた怒張が、内で育ち硬度を増した。
 思うまま、更に奥を貫きたい。こみあげる衝動に秀吉は動きだした。
 始めは半兵衛の動きにあわせて、次第にそれすらも追いこして大きくうねり揺さぶりかける。
 揺れながら、半兵衛はずっと泣きじゃくっている。
 その細い体躯を抱き締めて、秀吉は最後のひと突きを放った。





 泡沫の眠りから醒めれば、うっすらと青く、障子の向こうで夜が白み始めていた。
 すぐそばに、眠る半兵衛のあどけない顔がある。
 その腕が、自分を護るように伸ばされていることに気がつき、秀吉は苦笑した。
 しどけなく開いた襟口から、滑らかな鎖骨と薄い脾腹がのぞいている。
 この細い身体の何処に、そんな力を秘めているのか。
 密に凝っていた奈落の闇は、いつのまにか柔らかく解けて消えていた。
 久しく忘れていた安らかさに、埒もない思案が浮ぶ。

 目が覚めたら、この小さな夜の守り手に何と言おう。

 礼を言うのも奇妙だが、無かったことには最早出来まい。
 黙っていれば、知らぬ顔を通すに決まっているのだ。先手を打つに限る。
 規則正しく繰り返す、ゆるやかな寝息を数えているうちに目蓋が重くなった。

 目を閉じれば、また闇だ。
 だが、それはもうただの闇だった。

 片袖を抜いた上衣のなかに傍らの寝息を抱きよせて、秀吉は眠りに落ちた。




□ END □