とじめやみ




[ 3 ]



 高熱を発して倒れた半兵衛は、翌日の夕闇せまる頃合にようやく意識をとりもどした。
 目覚めたとの知らせに秀吉が部屋をおとずれた時、半兵衛は床から半身を起こしてぼんやりとしていた。
 暮れかかる残り陽の、朱い光が障子を染める。
 暗い部屋のなか、半兵衛の姿だけが浮きあがるように仄白い。
「すまぬ」
 開口一番、詫びの言葉を口にした秀吉に、半兵衛は首をかしげた。
「秀吉?」
「炊き場の者に聞いた。このところ、ほとんど食べておらぬそうだな」
「………君が謝ることじゃないよ」
 弱々しく首をふり、半兵衛は呟いた。
「熱は、もう下がったのか」
「……………!!」
 額に触れようとした秀吉の手を、びくりと避ける。 
「………半兵衛」
「ごめん。何でもないんだ」
 こわばった肩が、小刻みに揺れている。秀吉は腕を降ろした。
「安心せよ。もう、お前に伽はさせぬ。お前に無理を強いてまで、することではない」
「秀吉!そんなことは……」
「ないと言い切れるか?」
 強く問われ、半兵衛はうつむいた。
 小さな拳が、骨が浮くほど固く握りこまれる。
「……僕は、大丈夫。無理なんかしてないよ」
「半兵衛」
 危ういほど張りつめた声音で、それでも強がりを言う半兵衛に、秀吉は吐息をついた。
「出陣の前に、あの女の埋葬に立ち会った」
 責め問いから解放された女の命は、長くなかった。水責めに膨らんだ腹。笞打たれ無惨に裂けた肩と脚。浮腫んだ顔は原型をとどめておらず、二目と見られたものではなかった。人目をはばかり、女の遺骸は山中に埋葬された。
「女の腰に、お前の背と同じ傷があった」
 正確には同じ傷ではない。死体の傷は数が少なく、その分深く抉られていた。ただ、皮膚を削いだ丸い傷口は、癒えさえすれば同じ傷跡になったに違いない。
「そんなもの、大将の君が検分する事じゃないだろう」
 半兵衛は静かに言った。語尾が微かに震えている。
「そうかもしれぬ。しかし、手を下したのが誰であれ、それは我が負うべき賽だ。違うか」
 半兵衛は、うなだれたまま答えなかった。
 日没とともに、閉ざされた部屋に幽かな闇が忍びこむ。
 長い沈黙が降りた。
 半兵衛が語るまで、秀吉は辛抱強く待ち続けたが、ついに言葉は発せられなかった。
「もう、日が暮れる。後で薬と粥を運ばせよう。食えるだけ食べて、よく休め」
 衰弱した身体をいたわり、秀吉は諦めた。
 半兵衛と出会った時、自分にあったのはこの国を変えるという志がひとつだった。以来、公私ともに半兵衛に頼りきりだった自分に、何故と問う資格はないのだろう。
 だが、席を立ちかけた秀吉の裾を、半兵衛の手が引き止めた。
「……秀吉、少しだけ……」
 影に沈んで、その表情は読めない。
「……あと少しだけ、側にいてくれないか」
 裾を握りしめた小さな手をほどき、秀吉はそっと半兵衛の髪に触れた。
「あまり起きていては身体に障る。もう横になれ。お前が眠るまで側にいよう」
「うん……」
 素直に身を横たえた半兵衛の枕辺に、もう一度腰をおろす。半兵衛は物言いたげに秀吉を見上げていたが、やがて静かに目を閉じた。
 秀吉は黙って座りつづけた。
 宵の薄闇は次第に色を失い、周りは完全な闇に落ちた。
 目を開けていても、何も見えない。
 夜の静寂に、ささやかな息づかいだけが繰り返される。
 そのまま、どれくらいが経っただろうか。半兵衛が、ぽつりと零した。
「……君に出会うより、ずっと昔に」
 ともすれば闇に消え入りそうなほど、かぼそい声。語る言葉は、過去への扉を開いた。
「僕が仕えた主は、僕をひどく憎んでいた」



 きっかけが、何処にあったのかはわからない。
 際だつ容姿に対してか、戦上手の評判にか、ただ単純に気に食わないだけの事かもしれなかった。
 ことあるごとに嘲りをうけ、貶められても、逆らうことは出来なかった。
 血族を人質に取られるは戦国の世の習い。さあらぬ顔で、何も感じぬふりを装うほかに、いったい何が出来ただろう。
 あるいは、それがいけなかったのかもしれない。
 ある日、主に呼ばれた城の一室で、居並ぶ男達に責めをうけた。延々と執拗に罵られ、黙って耐えるうちに、その白けた面が気に入らぬと拳をふるわれた。そこからは、坂を転がりおちるような狂気の連続だった。
 人を人とも思わぬ仕打ちに、冷たい怒りを覚えていたのは本当だ。
 けれど、それを露わに抗えば、待ちうける結末は明らかだった。目先の感情にとらわれた程度の低い連中と、同じ愚劣に堕ちるわけにはいかない。
 だが、しかし。
「知っているかい?人は、どんなに酷い痛みにも、いつかは慣れてしまうものなんだ」
 幾人もの男の肉欲に責めたてられ藻掻くさなか。
 堕ちてなるものかと、声を殺す背にむけて刃が立てられた。その痛みと衝撃に、己の喉から漏れ出た悲鳴は。
「……淫らに媚びる声だった。それからは、犯されるたびに刃で抉られた」
 何度も何度も、快楽と痛みを繰り返すうちに、身体は慣れていった。
 やがて、堕ちた身体は刃に触れただけで欲を白状するようになり、最後には心も堕ちた。
「なにが智謀だ。そう蔑まれて、返す言葉もなかったよ。彼らと同じ、卑しくて浅ましい……それが僕の本性だった」
 忌まわしい。厭わしい。快楽という責めに屈して曝けだされた、呪わしい真実。
 それでもなお認めがたく、城を奪って主を放逐した。
 お前達と自分は違うのだと、見せつけてやりたかったのだ。
 城下を治め、一年あまり。そこにあったのは、息も詰まるような絶望だった。
 旧主の悪政は消え、民の安寧は守られた。それ以上でも以下でもなかった。
 愚かな自分には、未来に望むべき象がわからなかったのだ。それでは、放逐された愚劣な国主と何ひとつ変わらない。
 心は再び、奈落の闇に堕ちた。
 あざやかな逆転劇に、智謀と気概をたたえる仕官の誘いは引く手あまたに多かった。
 なかには正義を標榜する者もあったが、かたくなな正義は、その本質において私利私欲と同義でしかない。
 所詮、光は光でしかなく、闇は闇でしかなかった。
 どちらも等しく盲目であり、なにひとつ未来に象を得ることができないのだと。
 諦念にすべてを投げだしかけた時。
 
 光と闇の境界に、それは突如として現れた。
 人のかたちを象るその望みは、名を豊臣秀吉といった。


「刃で犯されるたび、このまま死ねたら楽だろうと何度も思ったよ。せめて狂ってしまえたらと、どんなに願ったことか」
 
「それでも僕は死ななかった。いつまで待っても現実は現実のままで、正気を手放すこともできなかった」

「だから僕は大丈夫。大丈夫だよ、秀吉。ただ、君がもし、僕を憐れと思うなら」

「どうか、僕を見ないでくれ」

 光は光でしかなく、闇は闇でしかない。
 闇から光へ、たゆまず歩む者が在ればこそ、その後ろに影という象はうまれるのだと。
 あの時、初めて知った。

「たとえ僕が倒れても、決して振り返らないで君が進みつづけてくれるなら」

「僕の苦しみにも意味があるのだと、そう思えるから」

 切なく震える余韻を闇に残し、
 長い独白は、そこで途切れた。



 闇に腕を伸ばし、秀吉は半兵衛の身体を探りあてた。
「………お前を」
 掌をあわせ、そっと指をからめる。
「卑しいとも浅ましいとも、我には思えぬ。だが、それがお前の望みならば叶えよう」
 鼻先が触れるほど近く頬寄せ、額に額を重ねる。常より高い体温が、ひどく切ない。
「お前が苦しみ倒れようとも、我はそれに目を瞑る。決して、振り返らぬ。そのかわり」
 微かに息を吐く気配が、耳元を柔らかくくすぐった。
「必ず、我の後ろをついて来い。よいな」
 穏やかな沈黙の後。
 重ねあわせた大きな掌を、小さな掌がゆるゆると握り返した。
 暗闇のなかで、半兵衛は微笑ったようだった。








 血の色をした落日が、最後の光で戦場を赤く染めていた。

 「秀吉、最強の軍が整った。君の望むように使ってくれ」
 累々と地に重なる陰翳は、命尽きた兵の屍だった。どれが味方で敵なのかすら、もはや区別がつかない。
 その中央に、機動を止めた巨大な影がうずくまる。
 半兵衛は片膝をついた。
 冷たい汗が額を流れた。呼吸が苦しく、肺を絞るような激しい痛みが胸を襲う。
 背後から、聞き慣れた重い足音が迫った。
「………秀吉」
「うむ」
 そのまま横を通り過ぎ、陥落した敵将の元へと歩み去る。
 緋緒通しの重厚な戦鎧。三つ襲に連なる籠手の、力強い輪郭。
 こちらを一瞥すらせず遠ざかる背は、燃えたつ夕日に美しく縁取られていた。
 その眩しさに目を細め、半兵衛は動かぬ手足を引きずり立ち上がった。
 とたんに咳が喉をついて出る。
 こほ、と一つだけ零れた軽い咳は、血の塊をともなっていた。
「……………――まだだ。まだ、もう少しだけ……」
 秀吉はこちらを振り返らない。
 ならば自分も守らなくてはならないのだ。
 あの日の約束を。

 光の射す方へ。彼が進む限り、どこまでも共に。




□ END □