眠る。




 どうしてだかこの男は、眠るということをしない。



 僕は日頃、できるだけ気配を殺しすぎないように足音をたてて歩く。
 存在を無に、空気の如く希薄に在る方が僕にとっては自然な状態であるけれど、それではまるきり、職業的能力者だという看板を下げて歩くようなもので、わかるものにはまるわかりであるからだ。
 それでも蓬莱寺やタツマたちからは、気配が無くて気味が悪いと評されるし、雨紋や黒崎君に至っては、さすが忍者だと、有り難くもない賞賛を受けてしまう。
 この身に叩き込んだ忍びの性を、誇ればよいのか、恥じればよいのか悩むところだ。
 つまりは僕が未熟であるということなのだろうけれど。


 そしてこの男は、無でもなければ有でもない、あいまいな僕の気配に言うのだ。



「何か用かよ」
「………人の家に勝手にあがりこんで寝転がった挙げ句、何か用かとはよく言えたものだな、村雨」
 僕は腕を組んで、村雨を見下ろした。
 僕ですら寒いと思う縁側の床の上に、村雨はいつもの白い制服のまま無造作に寝転んでいた。板張りのこんなところで、寝入るとはおそれいる神経だ。
「勝手に邪魔してるぜ」
「今更言うな」
 本当に、今更だった。僕が何を言おうと、この男はいつだって不遜でずうずうしく油断がならず、思うがままに振る舞って小面憎いのだ。
 全く、うちに何をしに来たのだか。
 あきらめて僕は台所へと踵を返した。今日やる仕事はたくさんある。
 村雨は目を閉じた。



 にもかかわらず、僕が近づくと村雨は瞬時に目を開いて言うのだ。
「何か用か」
「用なんか無い」
 声は胸の奥から響くように深く、言葉に乱れも無い。意識は明瞭。
 眠っていたわけではないらしい。
 僕は洗濯物を取りこむために、村雨の脇を通り過ぎた。



 三度めにしてようやく、様子がおかしいことに気がついた。
 ほんのちょっと、横を抜けようとした途端、弾かれたように目蓋を開く。
「何か用かよ」
「……………」
 僕を見上げる目の下に、疲労が色濃く刻まれている。
「………………村雨」
「何だよ」
「秋月の護衛………、そんなに厳しいのか?」
 そういえばここ数日、村雨はおろか、御門君や芙蓉さんまでもが、タツマの召集に応じていない。
「別に大したことじゃねェ。俺はマクラが変わると眠りが浅くなるタチなんだよ、ただそれだけだ。気にすんな」
 だったらどうしてわざわざ家に来て寝るんだ。この男の大嘘もたいがいだと思う。
 縁側に陣取って眠るのは、本能的に敵襲を警戒しているからだ。
 狭く長い縁側ならば、敵が攻めこむ方向と使用する武器を制限できる。
 周囲から丸見えのようで、さりげなく庭木の陰になる巧妙な角度。逆に村雨の側からの見通しは良い。
 そういうことだろう?
 僕はため息をついて、居間の茶箪笥の引き出しを開けた。
 薬壺から糖衣をかけた丹薬を二粒、手のひらに転がす。
 一粒を自分で飲んで、残る一粒を村雨の唇に押しこんだ。
「甘ェ。何だコリャ」
「飲め。そしてちゃんと寝て回復して、家から出て行け」
「命令形かよ」
「ちなみに今なら毛布も安くレンタルするが」
「………商売なら店先でやってくれ」
 村雨は面倒そうに手を振った。
「大体、何なんだよこれは」
「大清神丹だよ。ただし、店で売ってるものより三倍近く高濃度だから糖衣をかけてある。糖衣が溶ける前に飲みこまないと、舌が焼けるぞ」
「………げ」
 うめいた拍子に飲み下してしまったらしい。村雨は恨めしそうに僕を見上げた。
「何てモン飲ませるんだ」
「調薬するとき指まで薬焼けするから、量産できなくて一般客には売ってない秘蔵品だぞ。感謝しろ」
「へぇへぇ、感謝して回復して、出てけ、だろ?」
 村雨は長く息を吐いて、目を閉じた。
 ちゃんと寝ろと言っているのに、やはりこのままここで眠るつもりらしい。
 毛布を持ってきた方が良さそうだ。
 歩きかけた僕の背に、村雨の声がかかる。
「気配は消すなよ。条件反射で殺しちまう」
 ……………………ふむ。そういうことか。



 あの男は眠るということをしない。
 だからまどろみすら許さない騒々しい気配ではなく、殺意に結びつくような意図的に消された気配でもない、これが安全圏なのだろう。

 僕はできるかぎり気配を殺しすぎないように、かといって神経に障るほどの足音はたてぬように、そっと歩いてその場を離れた。