ブラッシュワンズティース



 その存在に気付いたのは、ごく最近のこと。


 ……………歯ブラシが増えている。
 ある朝わりに唐突と、僕はそのことに気がついた。
 ついまじまじと鏡を覗きこんで、反転世界に映る歯ブラシの数を数えてみる。
 祖父の歯ブラシ。父の歯ブラシ。僕の歯ブラシは、現在使用中で僕の手の中にある。
 では、この青い歯ブラシは一体誰のなんだ?
 しかも毛先が左右に開いて、随分使いこまれた様子だ。
 早朝の洗面所で僕は独り沈思黙考し。
 嫌な結論が出そうな気がして、考えるのを止めた。


 僕の中に挿し入れられた、他人の存在なんかに気付きたくはない。


 そう思っていたにもかかわらず、翌朝、僕はその現場にばったりと遭遇してしまったのだった。
「……………村雨」
「よう、借りてるぜ」
 軽く手をあげた村雨の口に、青い歯ブラシ。
 現行犯だ。しかも罪状を認めているだろう、お前。
「この際、どうやって僕の家に侵入したのかということは脇に置いておこう。………一体、何だってこんな所で歯を磨いたりしているんだ、お前は!」
 あれからずっと、あえて考えないよう努めてはいたけれど。
 僕が毎日手間ひまかけて、家中に張りめぐらせた結界の存在意義って、何だ?
 村雨はしれっとした顔で答えた。
「他に朝っぱらから歯を磨ける場所が無ェんだよ」
「何なんだ、それは……………」
 どうにも謎めいた返答だった。
 危険をおかして僕の結界をくぐり抜け、そうまでしてここで歯を磨かねばならないものなのか?失敗すれば五体が爆散するんだぞ。
 僕を馬鹿にしてるのか、それとも煙に巻こうとしてるのか。
 目の前のこの男は、非常に不条理極まりない。
「………若旦那?」
「私物の置き料に壱万円、洗面所の使用料に一回五千円、結界の無断侵入による精神的慰謝料二十万円。今すぐ、耳を揃えて払ってもらおう!」
 ゲフ、と村雨はむせかえった。汚いな。
「………俺はアンタの口から、金の話しか聞いたことが無ェ気がするぜ」
「うるさい。つべこべ言わずに、払え」
「大体、置き料一万って、女の家じゃねェんだ、歯ブラシぐらいいいだろ」
「何だ?女になら素直に置き料を払うのか」
「そーいう意味じゃ無ェよ………」
 村雨はげんなり呟いて、口をゆすいだ。手の甲で無造作に唇をぬぐう。
 そして僕の背後の壁に手をついて、正面から間近にこちらをのぞきこんだ。
「アンタお子様か?それともわかってて言ってんのか?」
「は?」
「……………ま、いい。わかったぜ、置き料その他諸々払ってやろうじゃねェか」
 えらく大きな態度だな。払うと言うなら不問にするが。
 村雨は僕の目に真っ直ぐ視線をあわせて、ニヤリと笑った。
「ただし、次の運試しに成功したら、もれなくアンタに夜這いをかけるからな。覚悟決めとけよ?」
 何だって?
「払えって言ったのはアンタだぜ、若旦那。忘れんな」
 いまひとつ言葉の意味が飲みこめず、呆気にとられた僕を残して村雨は出ていった。
 結局金を取り損ねたことに気がついたのは、しばらくたってからだった。
 ……………逃げられた。

 それきり、この男の姿をここで見かけることは無かった。
 何故にこんなところで歯を磨こうなどと考えたのか、その真意は今に至るも謎のままだ。



 こんな風に僕の記憶の流れに、自然と村雨の姿が在ることに気が付いたのは、ごく最近のことだ。
 僕一人だったこの家の日常の一コマに、いつのまにか挿し入れられた奇妙な存在。
 それが今は懐かしい。
 家の戸締まりを確認して、僕は洗面所へと足を向けた。
 支度はもう、ひとつをのぞいて全て済んでいた。
 店先に置いた式神の出来はあまり良くはないけれど、あれ以上精緻な式をうっては、父が帰ってきた時に家に入れなくなってしまう。
 そう思って結界も簡素なものにしたから、運試しにもなりはしないと不満を言う男がいそうな気もするが。
 運試し。
 あの迷惑な男が、危険を犯して僕の結界を破りたがった理由は、思えば実に単純なことだった。
『まったく、あの男は運試しに行ってくるなどと、馬鹿げた書き置きひとつで消えてくれて』
 御門君のあきれた声が耳によみがえる。
『空港までは足取りを追えたのですがね。まぁ、馬鹿ですから死にはしないでしょうが』
 洗面所の明かりとりから見上げる空は、綺麗に澄み渡っていた。
 桜はすでに散り過ぎて、椎葉の緑が目に眩しい。
 この青空の下の何処かで、村雨は旅をしているのだろう。
 命を張って自分を試しながら、その強運が続く限り、彼が全てを賭けた秋月の当主にいつか目覚めの日は来るのだと、そう信じて。
 僕は洗面台の歯ブラシの中から、毛先が左右に開いた一本を捨てた。
 どういう磨き方をしているのか知らないが、何度新しく替えても、村雨の歯ブラシはこうなってしまうのだ。
 代わりにドラックストアで見つけてきた、新しい歯ブラシを置く。
 最初のものと全く同じ、青い歯ブラシ。見つけるのに苦労した。
 祖父の歯ブラシ。父の歯ブラシ。村雨の歯ブラシ。そして、僕の歯ブラシ。
 それぞれのために用意された、ささやかな日常。
 これからこの家は、とうとう、本当に、無人になってしまうけれど。
 戻ってきた誰かを、ここに残された日常がきっと迎えてくれるだろう。
 これは、その約束だから。
 鏡の前で唇を噛みしめている自分に気付き、僕は静かに洗面所を後にした。
 いつかきっと、戻ってくる。
 懐かしい人々。
 きっと、ここに戻ってくる。
 いつか必ず、僕はここに戻ってくる。

 ここには待っているものがあるのだから。