パラダイス・サマー



 彼が逝ってより一年に満たぬ季節がめぐり。
 茹だるような日差しに眩暈を覚えて、
 僕は夏の空を見上げる。

 今日もまた、変わらない東京の一日が動き出す。


 窓という窓を大きく開け放ち、家の中に風を通す。
 ちりん、と風鈴が鳴る。
 あるかなしかの空気の流れが、僕の髪をなぶる。
 今日も暑くなりそうだ。
 掃除と洗濯は午前のうちに済ませてしまおう。
 簾を巻き上げると、抜けるような青い空がそこにあった。
 彼がもう見ることはない、夏の空。

 あれからまだ一年も経ってはいないなんて信じられない。
 変わらぬ日常が、あの頃の記憶を遠くする。



 何故だか知らないけれど、一連の事件が全て終結して、それぞれがそれぞれの道を選んで別れて行ったというのに、いざ集まるとなると会場はいつだって僕の店だった。
 いや、正確にいうなら僕の家、だ。
 たいてい集団で嵐のようにやって来て、他愛もないバカな話で盛り上がって、雀卓はでるわ酒は飲むわ、終電の時間が過ぎて女性陣がいなくなると、一体歳はいくつなんだというものすごい格好で子供のように騒ぐ。
 僕は、事件が終わればきっと疎遠になるだろうと思っていた。
 彼らはそもそも闘うために育てられたわけでもない、ごく普通の人間なのだから。
 騒ぎ疲れて奥の間を雑魚寝で埋める彼らを前に、僕は考えていた。
 警戒心のカケラもない、無防備な寝姿。
 不思議だ。
 僕の中ではもう遠くなっていた彼らが、僕のことを親しく考えていてくれたこと。
 それが何処か落ち着かない、くすぐったい気分にさせる。
 しばらく彼らの寝顔をぼんやり眺めて、僕は静かに襖を閉め切った。


 何も見ない。
 何も知らない。
 何も疑わない。
 何も感じない、無。
 それは今も僕の中に在るというのに、こんなささやかなことで心が波立つ。
 うれしいと思える自分が、なにより不思議だった。

 今年の夏は、去年の夏と同じじゃない。


 洗濯を終えて居間に戻ると、テレビの音が聞こえた。
 今朝のニュース。
「……………よう」
「何だ、起きたのか。村雨」
 貸してやった浴衣を胡座でくずして、村雨がテレビのリモコンを握っていた。
 正直言って、この男が一番に起きてくるなんて天変地異の前触れとしか思えない。
「ずいぶん早いな?」
「まぁな。気になる事があって、どうにも寝つけねェんだよ」
 そう言う村雨の目は、わずかに血走ってむくんでいた。
 しぱしぱと瞬きをしつつ、次々とチャンネルを変える。
 この時間帯は、どの局もニュースしかやっていない。
 一通りチャンネルを回して、村雨は眉を寄せて僕を見た。
「やっぱり、な」
「何が?」
 けれど村雨は疑問には答えず、僕の足元に視線を落とした。
「痩せただろ、お前」
「脈絡が無いな。一体、何だって言うんだ」
 ニュースをはしごして、何がやっぱりで、僕が痩せたという結論がでるのか。
 意味不明だ。
「和服ってェのは、いくらでも体型を誤魔化せるからな。お前の髪じゃうなじは分かんねェし、どうしたモンかと思ってたんだよ。今、足袋を履いてねェから分かった」
 村雨に言われて、僕は自分の素足を呪った。
「悪いが俺は知ってんだよ、萎えた人間の足がどういうモンかを、な。見て痩せたとわかるくれェだ、何キロ落ちたか知らねェが、相当だろ?」
「……………お前には、関係ないだろう」
 この男の妙なカンの鋭さには閉口する。村雨は苦笑いを浮かべて立ち上がった。
「まぁ、車椅子に乗る人間の足を知ってるヤツなんざ、ここの連中には居ねェだろうが」
 正面に立ち、村雨は僕の襟に指をかけて一気に広げた。
「………なッ、何を!」
「この怪我は、気付いてるヤツがいると思うぜ?」
 傷を見られた。肩口を隠して睨んだ僕に、村雨は悠々とあくびをした。
 つけっぱなしのテレビを指さす。
「心配されたくねェんだったら、とっとと解決するんだな。俺はもう寝る」
「………村雨!」
 面倒そうに手を振って、村雨は行ってしまった。
 テレビに映るローカルニュース。
 珍事怪事と興味本位で事件を伝える、見当はずれなリポート。
 人の世は愚かで野蛮で残酷で、外法など無くたって、いくらでも人は鬼になれる。
 変わらない。
 僕が膝をついたその前で、画面は賑々しく音をたててコマーシャルに変わった。


 今なら、わかる。
 東京を灰燼に帰そうとした九角の想い。
 一族の悲願でも復讐でもなく、彼が皮肉に眺めた人の世の有り様が。
 東京は変わらない。
 現状維持を望んだのは僕らだ。
 世界を変える、その力を求めた者を斃してしまったのは僕らだ。
 永遠を願ったのは、むしろ僕らの方だった。
 その時すでに逝ってしまっていた彼は、僕らの選択をどう思っただろう。


 夏の空は高く澄み、天国の遠さを思い知らせる。


「如月サーン?」
 呼ぶ声に、僕は我に返って襟元をかきあわせた。
「うーッス。はよ、如月」
「オハヨーございます」
 連れだって歩いてきた彼らは、どちらも眠たげな半眼だった。
「おはよう、タツマ、雨紋。起きたのは二人だけなのかい?」
「タツマさんが俺サマに踵落としやんなきゃ、もうちょっと寝てたハズなんスけど」
「悪かったって、謝ってんのに」
 タツマが照れ隠しのように笑う。雨紋の額に赤い跡が残っていた。
 なるほど、タツマの蹴りではたまるまい。壬生の蹴りでないだけマシとも言えるけれど。
「とりあえず、二人分だけ朝食を用意するよ。二人とも、顔を洗ってくるといい」
「あ、それ俺がするよ。泊めてもらってんだし、そのくらい。如月の分もあわせて、三人前な」
「タツマ?」
 僕が言い返す暇もなく、台所へ消えてしまう。止めようと立ち上がった僕の袖を、今度は雨紋が引っ張った。
「えーと、その、何つったらいいのかわかんねぇケド」
 雨紋は額の跡をこすりながら、もごもごと言った。
「俺サマたちで手伝えることがあるんだったら、無理しないで言って欲しいンだよな」
 唐突な申し出に、胸のうちで村雨の言葉が重なった。
 ……………気付いてるヤツがいると思うぜ?
 そうかもしれない。
 僕は大きく息をついてみた。
「如月サン?」
 雨紋が怪訝な顔をする。
 簾を上げた縁側の向こう、緑の色濃い夏の庭が目に映った。
「雨紋」
「何スか?」
「ちょうど人手が欲しかったんだ。庭の草むしりは任せた。きりきり働いてくれ」
「はい?ちょ、待ってくださいよ。如月サン!」
 頓狂な声をあげた雨紋の抗議を聞き流しながら、僕は一人心に決めていた。
 せめて、秋が来る前に今の事件だけは終わらせておこう。


 ここは楽園では有り得ないけれど、そうあれと願ったのは僕らだから。
 身を削ることになろうとも、生きて闘い続けることで答えを示すしかない。
 あの空に対して。


「雨ー紋ーっ!飯できた。運ぶの手伝ってくれ」
 台所からタツマの大声が上がった。
「ハイハイ、今行きまスって」
 ぶつぶつ言いながら雨紋が立ち上がる。
 耳を澄ませば、奥の間で人の気配がいくつも動き始めていた。
 タツマの声で目が覚めてしまったらしい。
 騒々しくなりそうだ。
 着物の上から肩の傷に手を置いて、僕は身を庇いながらもう一度座り直した。



 今日もまた、変わらない東京の一日が動き出す。 
 けれど今年の夏は、去年の夏と同じじゃない。

 答えは、ここにある。



 夏が過ぎ、秋が来れば、彼が逝ってより一年になる。