ある昼食の風景



 夏は暑い。
 今さらそんな事を言っても、すべからく夏は暑いものであるわけで、文句をつけたところで夏の気象が変わるはずもないのだけれど。
「村雨」
 僕は縁側の男に声をかけた。何を好きこのんでか、この男は真昼の日差しが降り注ぐ縁側に胡座をかいて陣取り、ぱたりぱたりと団扇を使っている。おかげで簾は巻き上げっぱなし。風が通るのはありがたいが、日射病で倒れやしないかと、見ているこちらがヒヤヒヤする。
「昼の支度をするけれど、何か食べたいものはあるかい?」
「あー、そうだな」
 村雨は思案するふうに顔を上げ、しばらくの間沈黙し、それからガクリと首を折った。
「……いや、やっぱりいい」
 気になる言いぐさだ。何がどうやっぱりなのだろう。
「メニューを考えるのが面倒なんだよ。何でもいいから、言ってみてくれないか」
 うながすと、村雨はボソリと言った。
「………カレー」
「かれい?」
 僕は首をかしげて、村雨に聞きなおした。
「カレーライス?」
「カレーって言ったら、普通はそうだろ」
 そう………だろうか。僕は魚の鰈のことかと、一瞬考えたのだが。
 口ごもった僕に、村雨はにわかに不安を覚えたようだった。
「作り方ぐらいは一応、わかってる……よな?」
「失敬な。確かに作ってみたことはないけれど、この間、近所の保育園で子供たちが作っていたぞ。子供にできるような簡単な料理が、僕にできないはずがないだろう」
 あの料理は歌で覚えるものらしい。保母らしき若い女性が、作り方を歌にして繰り返し子供たちに教えていた。それを何度か耳にするうちに、僕まで覚えてしまったのだが、そう言うと村雨は馬鹿にしそうなので、口に出すのは止めておいた。
 なのに。
 村雨は、ひどく絶望的な顔をして僕に背を向けた。
「俺が悪かった。カレーのことは忘れろ」
「なんなんだ、一体。カレーが食べたいと言ったのは君だろう」
「いや、だから忘れてくれって」
 僕は非常に腹が立った。村雨の態度は、明らかに僕を馬鹿にしている。
 茶箪笥から財布をつかみ出して、僕は村雨に言い渡した。
「今日の昼食はカレーだといったらカレーだからな。逃げたりしたら………殺す」
 ギクリと村雨の背が揺れた。僕は憤然と踵を返し、近くのストアへと買い物に出かけた。

 にんじん。たまねぎ。じゃがいも。ぶたにく……豚肉?牛コマだったかもしれない。あの歌はどうだっただろう。
 案外、僕の記憶も当てにならないものだ。
 主婦で混みあう昼のストアの食品売場。
 カレールーを片手に、歌の続きを思い出そうとした僕の目に、色鮮やかなポップの文字が飛びこんだ。
 タイムサービス!うどん2玉八十八円!
 …………安いな。
 そういえば今夜、村雨は浜離宮の当直で留守だ。僕もお得意さまに招かれていて、帰りは遅い。昼食のために米を炊いて余らせてしまうのは、もったいない気がする。かといって、きっちり二食分だけ米を炊くのは光熱費の無駄だ。
 僕は、うどんの玉を見た。
 手にとって、考えて、カゴに入れた。
 村雨に啖呵をきったあの時の自信が、なんだかぐらぐら揺らいできた。
 いや、でも、自分で作った事こそないけれど、食べた事がないわけではなし。何とか………ならないだろうか。なるだろうか。なってほしい。
 当たって砕けろという便利な言葉が、脳裏をよぎった。


 そして十二時ちょうどに。
 僕はおそるおそる食卓に椀を二つ並べた。
 村雨は、爆笑した。
「何で笑うんだ」
「だってよ。まさか、カレーうどんとは思わねェから」
 そこでクッと喉をつまらせ、さらに笑い転げる。曰く、何をやっても和に傾くところが可笑しいらしい。
「もういい。嫌なら食べるな」
「いや、悪ィ。食う、食うって」
 村雨は慌てて笑いをおさめ、食卓についた。ガラスのコップに煮出した冷茶をついでやると、神妙に手をあわせる。
「いただきます」
「……どうぞ、召し上がれ」
 村雨が、まともに食前の言葉を口にするのは珍しい。とまどった僕の目の前で、村雨は猛然と麺をかきこんだ。
 箸で掬いあげ、銜え、啜る。
 広がるスパイスの香り。村雨の額に、みるみるうちに汗の玉が浮かんだ。
 村雨の健啖ぶりは、いつ見ても気分がいい。味付けに文句をつけても、一度食べ始めたら、胸がすくような勢いで平らげてくれる。
 思わず箸を止めて見惚れた僕に、村雨が顔を上げた。
「何だ?」
「い、いや……その」
 見つめていたことに気づかれると、妙に恥ずかしい。
「君が、そんなにカレー好きとは知らなかったよ」
「好き、ってほどじゃぁねェが。ガキが作る料理のレパートリーなんざ、たかが知れてるだろ。夏は毎日コレばっかり食ってたからな」
「毎日?」
「おう。朝から晩まで、三食ずっとだぜ。ひと鍋作っておけば、一人で食う分にはかなり持つしな。夏が終わる頃には、さすがに飽き飽きしたが」
 どこか遠くを懐かしむ目で、村雨は一息に茶を飲みほした。
 ふうん、と気のない相づちをうって、僕は空のコップに茶をつぎたした。
 本当は。
 食事を作ってくれる大人は、誰も居なかったのかと。
 一緒に食事をする人は、誰も居なかったのかと。
 ずっと独りだったのかと。
 聞きたかった。けれど、止めた。村雨は不用意な詮索を嫌う。
 だから、今はこれでいい。
 村雨には、自分を語ったつもりなどないのだから。ただ、何気ない会話や仕草からこぼれ落ちるそれを、僕が残らず覚えていればいい。
「お前な」
 村雨は呆れた顔で手を伸ばし、僕の髪をかきまわした。
「涙目になってんのかよ」
「……なってない」
 僕は、小さく息をついて麺を飲みこんだ。
 ああ、やっぱり辛い。
「我慢は良くねェと思うぜ?」
「……………………………」
 目ざとい男め。
「…………次からは」
 僕は冷茶のコップを取り上げ、どうにか麺を流しこんでから、村雨に言った。
「ルーは中辛にするからな」
「そうしろ」
 村雨は喉の奥で笑いを殺し、ごちそうさまと両手を合わせた。