ペイン・キラー
戦いから逃れることは、僕には出来ず。
戦うからには、負けるわけにはいかず。
ただひたすらに生き延びたいと祈るこの身は、あまりにも脆すぎて。
喘ぐ唇に無理矢理押しこんだ。
痛みを消す薬。
痛みに気を散じては手元が狂う。
だから一錠。
闘いが済んで、表面の傷を癒してもまだ痛みが残る。
だからもう一錠。
薬のせいか、傷の治りが遅い。いつまでもひかない痛み。
それでもう一錠。
崩れ落ちる身体を騙して、次々に飲みこんだ。
どうして、あんなに生きたいと願ったのか、それが今では思い出せない。
冬の庭に光が射すのを見ていた。
「………あの樹」
「あん?どの樹だよ、若旦那」
気怠げに起きた村雨は、それでも律儀に僕の視線の先を追った。
「あれ、花が咲かないかもしれない」
「あの桜か?冬だから葉が落ちてるだけで、枯れてるワケじゃねぇだろ」
「でも、老木だからね」
「一体いくつだっていうんだよ」
「僕と同じ歳」
樹木は人の目に永遠に映るけれど、これで人よりは寿命が短い。
「染井吉野は山桜と違って弱いんだ。丈夫に見えて、内側から腐り落ちて倒れることも少なくない。春を待てないかもしれないな………」
村雨が、僕の髪を梳きあげた。のしかかるように身体を預けて、僕を布団に押し戻す。
「駄目なら、他の桜を探しゃいいだろうが。春になったら花見に行こうぜ」
「だったら、君はそうするがいいさ。大体、君は浜離宮で見飽きているだろう、桜なんか」
「本当にお前は鈍いんだかつれねェんだか、わかんねェな。二人で行こうって言ってんだぜ」
「ふうん?なら、もしあの桜が咲いたら、行こうじゃないか」
「賭けるか?」
「いいね」
悪いけれど、この賭けは僕の勝ちだ。あの桜はきっと春を待てない。
だから君は、他の桜を探すがいいよ。
一日三回、一回二錠。合計六錠。服用は四時間置きに。
あまり立て付けのよくない引き戸を、勢いまかせに開く音。
良くも悪くも、力の有り余るところが彼らしい。
「やぁ、いらっしゃい。タツマ」
「よッ、久しぶり」
タツマは珍しく、真神の制服ではなく私服で現れた。いつもなら旧校舎帰りの戦利品でふくれあがったディバックも、今日は見あたらない。
「今日は何が要り用だい?」
「や、別に買い物じゃないよ。もう必要なさそうだしさ」
「………そうかい」
「それより、如月にちょっと頼みがあってさ。如月ん家の庭に、桜の木があっただろ」
「桜?」
なんだか奇妙に眩暈がした。小さな違和感。
「花が咲く頃になったら、花見に使わせて欲しいんだ」
「花見だって?随分悠長だね」
戦いもまだ終わってはいないのに、未来の話なんて。そう、続けようとした言葉は、喉の奥からせりあげた吐き気に消えた。
屈託なく、タツマが笑う。
「しょうがないだろ。だって卒業しちゃったら、顔を会わせる機会も減るし。日本を出たら、なかなか戻って来れないしさ。その前にもう一度、皆で集まりたいんだよ」
タツマは一体何の話をしているんだ?
思い出そうと考えを凝らした額に、痛みがはしる。
「な、いいだろ?頼むよ」
痛い。
「………ああ」
脈打つように押しよせる痛みと眩暈。
何も考えられないまま、僕はうなずいていた。
「サンキュ!じゃぁ、皆のスケジュールを聞い………」
タツマの声がやけに遠く、耳を素通りしてゆく。
未来の約束。未来の話。
痛みに妨げられて、僕は何かを忘れてはいないか。
思い出せない。
あの薬を飲まなければ。痛みを消す薬。
何故かそれが、とても重要なことに思えて仕方がない。
「………らぎ!如月ッ!」
視界が暗転した。
自分が倒れたのだ、と理解した次の瞬間、追うように意識は途切れた。
一錠で痛みを忘れ。
二錠で虚言を無くす。
三錠で君の名は遠のき、
四錠で身体の境を喪う。
五錠で世界は柔らかくなり、
六錠で彼岸を望む。
唐突に、眼前にひらけた風景に僕は息を飲んだ。
「………………………………」
何のことはない、自宅の天井だった。
ただ、そう、さっきまで僕はタツマと話をしていて。
一瞬の暗闇の後、脈絡もなく天井を仰いでいた。
おかしい。
コマ落としの記憶に、僕は戸惑ってまばたいた。
「何だ。気がついたのか、若旦那」
「…………村雨」
視線を降ろして男の姿を視界に入れる。頬を擦る枕の柔らかな感触に、ようやく自分が寝かされているのだと気がついた。
「ついさっきまで、先生が居てエライ騒ぎだったぜ。やかましいんで、帰しちまったが」
唇を歪めて笑った村雨は、すぐに笑みを消した。
「…………いつからだ?」
大きな手のひらが僕の頬をたどり、額をつつむ。
「黄龍大事のお前が、先生の目の前で倒れるなんざ尋常じゃねェ。昨日や今日の不調じゃねェだろう」
村雨のまなざしは険しい。答えないわけにはいかないのだろうかと、ぼんやりと考えた。
「………薬」
そうだ、飲む前に僕は倒れてしまったのだった。情けないにも程がある。
「薬だ?」
「そう、飲まないと」
身体を起こそうとした途端、激しい痛みに手足の力が萎えた。
「………ッ、く」
「起きるんじゃねェ。薬はどこにあるんだよ」
「その茶箪笥の、一番左の引き出しに」
気力を根こそぎ奪うような痛みに、示す指が震える。
「これか。いくつ飲むんだ」
「一回に二錠」
「怪しい薬じゃねェだろうな」
「痛み止めだよ、ただの」
表面の傷を術で無理に癒してしまうと、身体の奥の傷が癒えずに残る。戦の習いとはいえ、そんな傷がいくつもあれば、蝕む痛みに気が狂い死んでも不思議はない。
これは、そのための薬だった。
使命を全うするまで闘い続けるために、狂い死にするほどの痛みすら殺してしまう一族の秘伝。
疑わしげに薬を見た村雨は、二粒つまみあげると自分の口に放りこんだ。
「………村雨!」
「何だよ、ただの痛み止めなんだろ」
「馬鹿……ッ!なんの訓練もない人間には劇薬だぞ。死ぬ気か!吐け!」
「へッ、そこまで怒鳴れるんなら、心配はいらねェな」
憎まれ口をたたいて、村雨は僕の顎をすくった。
「ん………っ」
唇を舌で割り、僕の口の中にざらついた丸薬が転がりこむ。
薬を飲みこんで、微かに残る苦みを溶かすように舌を絡めあった。
「………っふ、ぅ」
嘘のように痛みがやわらいだ。苦痛に張りつめていた身体が軽くなる。
重ねた唇から伝わるぬくもりに、僕は目を閉じた。
まどろむ間もなく、眠りに落ちる。
いつからだ?
そんなこと、僕にわかるものか。
傷つき痛みを覚えるようになったのは、闘いはじめてから。
闘いは、僕の幼い記憶が始まる以前から、すでに在った。
僕は闘いのために産みだされ、育てられたのだから。
ならば、産まれたときからの痛みだったとは言えないか?
最後には腐り落ちて倒れる運命。
庭の桜の樹のように。
それをくだらないと否定したのは誰?
内側から膿み爛れて崩れおちてゆく。
ぼろぼろと腐りおちた身の内に、空虚な洞が残される。
何もないその暗闇に、疑問だけがこだまする。
誰が。
誰が?
わからない。思い出せない。
誰だと問うたび、激しい痛みが身体中に響きわたった。
「………ッ、痛」
痛みは次第に眠りを破るほどに大きくなり、僕は苦鳴をあげて目を覚ました。
「…っ、ハァ、ア」
何処が痛むのかも最早わからないくらいの激痛に、息が詰まる。
身体を起こしかけて、眩暈に襲われ床にはいつくばった。
吐き気がこみ上げる。
薬。
あの薬を飲まなければ。
どうにか腕を伸ばし、茶箪笥へとにじりよる。思うように動かない身体は、おかしなくらいにガクガクと震えた。
ひどい痛みに呼気は細く、喉がせいせいと鳴る。
薬壺に手をかけて、上手くつかめずに取り落とす。バラバラと白い粒が床に広がった。
「ッ!」
痛みに萎えて、支えきれずに上体がくずおれた。
目に滴る脂汗に、何も見えなくなる。
転がる薬を指で探りかき寄せて、唇に押しこんだ。
一粒。
二粒。
今日はこれで何錠飲んだだろう。近頃、効き目が切れるのが早すぎる。
服用の限度は六錠。
これを超えれば、いくら僕でも生きてはいられない。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い………
効かない。
さらに二錠、口に含んだところで頬を張られた。
「何やってんだ、この馬鹿!」
怒鳴り声とともに、乱暴に抱き起こされる。
「村雨?」
「ついさっき飲んだばっかりじゃねェか。自分で劇薬だって言ったそばから、たて続けに飲んでんじゃねェ!」
力の強い指が、僕の顎を締めあげる。
「飲むな。吐け」
「い………やぁ」
薬。薬。薬。飲まなければ。苦しくて涙がにじむ。
「チッ、様子が変だと思ったぜ。依存してんのかよ」
忌々しげに舌打ちして、村雨は僕の唇をこじ開けた。指が喉の奥へと侵入する。
「う…ぁ、んぅ」
僕は身をよじってもがいた。
「や……ぁ、嫌だ…!このままじゃ、痛みで刀を握れない。闘えないだろう!」
武器をとり、殺し、使命を全うするために育てられた。
役割を、宿星を戴くかぎり、戦いから逃げることはできない。
「闘う必要なんて無ェだろうが!」
「馬鹿を言うな……ッ、タツマが」
「しっかりしろ!先生はもう闘わねェ、戦いは終わったんだ!」
「終わっ………た…?」
「そうだ、思い出せ。寛永寺で勝っただろ、俺たちは」
「寛…永寺……」
言葉は僕の身の内で、虚ろに響いた。
「嘘…、嘘だ………!!」
「嘘じゃねェ」
僕を抱きしめたまま、耳の後ろで村雨が囁く。
君は残酷だ。
「嫌………嘘だ、嘘だ嘘だ!」
「如月!」
あまりにも酷い。
「嫌ぁぁぁあああ!!」
未来の話。未来の約束。
春になったら。
春になったら、誰と?
そんな話に意味はない。僕はすでに知っていたから。
戦いが終わったら。
産まれた理由が尽きたら、その時が、僕の痛みが終わる時だと。
あとは痛みに狂うがまま、倒れてゆくだけ。
すでに身体の内は腐りおちて、何かを感じることもない。
なのに、あれほど生き延びたいと、痛みを殺したのは何故だったろう。
身体が妙に暖かかった。ふわふわと柔らかく溶けてゆくような浮遊感。
「如月ッ!」
誰かが呼んでいる。
肩をつかんで揺さぶられている。
「如月!目を開けろ!」
村雨?
ああ、そう言えば。あんなに生きたいと願ったのは、お前の所為だったような気がするよ。もう思い出せもしないけれど、それも仕方がないね。終わるのだから。
瞼が重い。
「如月!」
おかしな顔をしているな?
僕はお前のものじゃない。お前のことだから、代わりはいくらでもあるだろう。
だから、自分のものを失くしたような、そんな顔をするものじゃないよ。
心配になるだろう?
胸が痛い。
痛みを消す薬。
七錠目を飲むべきか。
指先に、こつりと白い薬があたった。