雪白
雪が降っていた。
温度の無い、白い光がチラチラと視界を舞っていた。
足を踏み出すたびに、ザクリと靴底で霜が砕けた。
どこまでも続く純白の雪野原。
見上げれば空は抜けるように青い。
それで、目をやられたのだと気が付いた。
雪が降っているのは、僕の網膜の中だった。
肩越しに、後ろを振り返る。
案の定、輝点にかすむ視界の果てから足下まで、一筋の線が延びていた。
僕が足を引きずり、雪に沈む爪先で凍った泥を掘りおこし、血塗れた膝を汚しながら歩いてきた、その道筋だった。
僕はため息をついた。
目蓋の裏に降る雪では、足跡を消すことはできない。
追っ手はたやすく僕を見つけるだろう。
敵が、まだ生きているとすればの話だが。
どうだろう。あれだけ刃を入れたけれど。
肉を抉ったけれど、腱を断ったけれど。
汚い仕打ちを、繰り返したけれど。
まだ、生きているかもしれない。
同じ仕打ちを受けた僕が、今、この雪原を這いずっているように。
闇の者の舌に、力を持つ者の血肉は旨い。
瀕死であればあるほど、飢えて僕を追ってくるに違いない。生き残るためには、他者の生命を取りこみ、失った力を補給しなくてはならないから。
この白く美しい雪原の上での、弱肉強食。
これもまた、食物連鎖というのだろうか。
くだらない事を考えていたら、転んだ。
大地を白くおおう雪は固く、雪片というよりは氷粒に近い。鋭いエッジが僕の皮膚を強く擦った。
倒れた衝撃に、バラバラになりそうな全身が悲鳴をあげる。
ふさぎかけた傷口がまた開いたような、嫌な生温かさが足を伝った。
動けない。
痛みに伏したまま震えていると、やがて静かな無感覚が訪れた。
少し、疲れてしまった。
闘うことにも。独りでいることにも。
使命を全うせよと教えられ、ただひたすらに闘ってきた。
けれども実際に、闘うということは痛く苦しく、惨めだ。
時折、そう、こんな時には。
いつもの意地も誇りも、挫けてしまいそうになる。
こんな時に、誰かの事を思い出したりすると。
「おい、ちょっと待て如月。冗談だろ。これ本当に今晩までに片づける気かよ?」
盛大にぼやいた途端、積み上げた和書が崩れて、もうもうと埃が舞い上がった。
「掘り出しものがあるかもしれないと、喜んでついて来たのは何処の誰だ」
僕は手早く布巾を折り、口元にあてた。ヨロイ戸から差しこむ冬の日射しは薄く、蔵の中は仄暗い。宙を踊る埃の粒子は、白く淡い粉雪のように見え、幻想的と言えなくもなかった。
これから掃除を始めるのでなければ、だが。
日常生活は、詩情とは無縁だ。汚れないように袖を折り、制服のタイを外す。
「まさか、ホントに掘るハメになるとは思わねェだろ。普通」
ケホ、とむせて村雨は肩をすくめた。
癪にさわるが、掘るという表現は的を射ていた。母屋の奥にある土蔵は、骨董品店の倉庫というよりは家庭の物置に近かった。本当に価値ある神代物は蔵の上階にあり、そこへと続く階段は明治の頃から昭和初期にかけての品で埋められて、扉にほど近いわずかな隙間は、僕がタツマに売りつけられたガラクタや、竹箒やバケツといった日用品が塞いでいた。
作業は、まさに遺跡発掘だった。年代順に掘るしかない。
「めぼしい物は、ほとんど僕が拾いあげて店に出してるよ。それでも満足しないというなら、この中から探すしかないだろう」
「仕方ねェだろ。札が燃え尽きちまったんだから」
村雨の呪符は、戦闘の直後に灰になったのだそうだ。聞けば、彼は正統な修行をおさめた術師ではなく、札の呪力を解放することで敵を討っているのだという。
怨みは晴らせば消えるものだ。
度重なる戦闘で存分に意趣を返してなお、呪詛を保ちつづける札など多くは無い。
そんな方法で札を清めてしまうなど前代未聞だが、当の本人はケロリとした様子でこう言った。
「次は、もうちっと歯ごたえのあるヤツがいいんだがな」
まるでスルメか煎餅のような言いぐさに、僕は呆れて釘をさした。
「憑き殺されても、僕は責任を持たないぞ」
「へェ?そんな大物が、この蔵にあるのかよ」
「蔵入帳が確かなら、あるはずだよ。明治も始めの記帳だから、位置としては……そうだな、二階のあの辺りか」
僕が指で示した天井を、一緒に見上げた村雨は、再び視線を階下に戻して言った。
「絶望的に道のりが遠いんじゃねェか。このガラクタ掻き分けて、階段までたどり着く頃には真夜中になっちまってるぜ」
「君、体重は何キロだい?」
「八十キロ」
「では、頑張って階段までの道を開けるんだね。僕は先に行くよ」
言い置いて、軽くはずみをつけ垂直に飛んだ。指先で天井の梁を捕らえると、足を振って身体を前へと送る。次の梁に指をかけ、飛び移る。要は雲梯の要領だ。
土蔵には珍しく、我が家の蔵の天井は上階の床板が剥きだしの、いわゆる踏み天井ではなかった。天井板を張れるよう化粧梁が組んであって、それが、このような軽業めいた移動を可能にしているのだった。
梁づたいに天井を移動する僕を、村雨は目をみはって見送った。
「お見事。忍者ってのも、あながちデマじゃなかったんだな」
「デマとは何だ。今まで僕を何だと思っていたんだい」
村雨の答えは簡潔だった。
「商売人」
撒き菱でも降らせてやろうか。そう思いながら身体をひねり、最後の梁から階段へと着地した。
「僕は上で札を探す。価格をまけて欲しければ、キリキリ働いて下の商品を整理することだね」
「どうせ今夜死んだら、金なぞ必要なくなっちまうんだ。金惜しみはしねェさ」
「そのセリフは、値段を聞いてから言うべきだろう」
「言うねェ、いくらなんだよ」
「それは商品を見つけてから、教えるよ。では」
卑怯者、と毒づく村雨の声を背に、僕は上階へと身をひるがえした。
その札は、降魔の札だった。
六道の上、三界の下、他化自在天が主を召喚するという曰くつきの花札。第六天。
桐箱に記された表書きを確かめ、僕は知らず息をついた。
「間違いないな。しかし……」
他者の快楽を自在に操り支配する彼の魔王を、村雨に喚ばせたらどうなるのだろう。
「……………」
面識を得て間もないが、村雨の印象は僕にとって強烈だった。
天性の賭博師。酒にも色事にも強く、喧嘩も嫌いではないらしい。全体に、享楽的な雰囲気がつきまとう。
村雨の要望に、第六天を頭に思い浮かべたのは僕だが、この取り合わせはハマりすぎて少々恐ろしかった。
しかし彼が灰にした越後呪歌よりも強力な札など、今の店には他にない。
「仕方がない……」
決戦は今夜だ。村雨自身にあらためさせて、駄目ならば無属性の華・国定を出してくるしかないだろう。
桐箱を手に、階下に降りた僕は眉をよせた。
「村雨?」
蔵のなかは、最前と変わりなく見えた。いっこうに片付いた様子のない床。刻一刻と翳る日光が、積み上げられた品々の輪郭を黒く際立たせていた。その向こうに、かがんだ村雨の背がのぞく。
「おう、若旦那。見つかったか?」
振りむきもせず、村雨は片手を振った。
「こっちも、面白いもの見つけたぜ」
「一体、何をしているんだ」
不思議に思って首をのばすが、この位置からは見えない。桐箱の組み紐を歯でくわえ、来た時と同じように天井の梁を伝って商品の上を渡った。つま先で村雨の肩をつつき、着地の場所を空けさせる。
村雨はニヤニヤ笑って、僕に紙の束を渡した。
「ほらよ、これ」
「……何だ?」
思わず受け取って、ドキリとした。
几帳面に黒表紙で綴った冊子。乾いて黄ばんだ作文用紙に、たどたどしい鉛筆の手跡。
「『しょうらいのゆめ』いちねんさんくみ。きさらぎひすい」
ご丁寧に、村雨は声にだして文字を追った。
「しょうらいのゆめ。ぼくは、しょうらいこっとうひんのみせをついで、たくさんおかねをかせぎま……」
ブ、と途中で喉を詰まらせ、爆笑する。
「クックク、は、アンタ、こんなガキの頃から商魂たくましいのかよ。筋金入りじゃねェか」
「………な!」
なんだそれは。僕はそんな事を書いた覚えなど、
「……かせいだおかねで、せかいじゅうのよいものをたくさんみにでかけます、か。いいんじゃねェ?スケールがでかくてよ」
なくはない気がする。小学校に上がった頃といえば、父がこの家を出ていったあたりだ。
祖父と二人、この家に残されて寂しくなかったと言えば嘘になるだろう。
けれど、飛水としての厳しい修練はすでに始まっていたから、未来に選択の余地は無いと知っていたはずなのに。
僕はこんな夢を胸に抱いていたのか。
「子供の夢だよ……現実とは、違う」
「そうか?」
笑いを納めて村雨は言った。
「そうだよ。……ところで、ちっとも整理が進んでいないじゃないか」
「いや、悪ィ。面白いモンが多くてよ、つい。そいつが例の大物か」
「ああ、いちおう自分で中をあらためてくれ。合わないようなら、別を出す」
桐箱の紐を解き、村雨は微かに口の端を上げた。
「ふん……悪くねェな」
「いけるか?」
「ああ、これに決めた。助かったぜ。なぁ、若旦那」
「何だ」
「俺は、今夜生き延びたら日本を出ようと思う。卒業後に、海を渡る。……アンタ、一緒に来る気は無ェか?」
「え……」
一瞬、心が動いた。あり得ない未来を示されて、胸の奥がざわめいた。
「世界を見に行く気はねェか?」
村雨は、真っ直ぐに僕の目を見てくり返した。
あの時、あの言葉に僕は何と応えたのだったか。
無声映画を見るように、そのシーンからは音が消えている。
村雨は、くしゃりと顔を歪めて微苦笑をもらした。
「そうか。仕方ねェな。アンタとなら、面白れェと思ったんだが」
そう言って後ろを向いた、その背の華に僕は何と言ったのだろう。
それから数回、会う機会はあったものの、とりたてて大した会話もなく、卒業後に村雨は旅立った。
以後、音信を交わしたことはない。
冷たい風が吹いた。
痛覚が麻痺し、今にも不帰路をたどれそうな抗い難い眠気が身体を支配した。
けれど肌だけは鋭く、微かな気流にも総毛立つ。
寒い。
幾つもの幻が、懐かしい姿が瞼の裏に浮かんでは消えた。出会って、別れた、あの頃の仲間たち。
その中には、もう二度と手の届かぬ遠い人の姿もあった。
……ああ。
氷雪に顔を埋めて漏らした吐息は熱く、血腥かった。
それでも、僕はまだ生きている。
生きている。
猛然と、腹が立った。
唇を離れた言葉は、決して失効しない。起こしてしまった行動は、取り返しが出来ない。過ぎた時間を巻き戻すことも。
すべて、選んだのは僕だ。
けれどあの時、確かに存在した微かな絆を、どうして僕は掴みとらなかったのか。
後悔が腹の底を灼いた。
その痛みに、闇雲に焦った。わずかに動かぬ爪先が雪を掻いた。
今、ただ独り、この漠野に寄る辺もなく尽きようとしている自分が許せない。
「うぅぅぅ……あ……」
呻きが唇をついて出た。
「…ぁ………あああああああ!」
声を限りに叫んでいた。震える拳を握りしめ、身を起こした。
蹌踉めきながら、二歩、足を進める。
声を殺し私心を捨てて耐え忍び、それを誇りに生きてきた。戦の場で苦鳴の声を上げるのは、隠密として恥ずべき醜態でしかない。けれど。
「うぁあああああああ!」
一度声を上げた喉は、激しく慄くばかりで止めることができなかった。
突き動かされるように、さらに半歩。
支えきれずに膝が落ち、その衝撃を堪えられず前のめりに掌を突いた。
引き攣る首を無理矢理に上げ、地平を望む。かすむ目に熱い滴りが落ち、顎を流れて足下の雪を染めた。
焦燥と絶望の辺涯、この雪白の地を。