万燈



 元旦。
 誰一人居ないワンルームマンションで、その日を迎えた緋勇龍麻はふて寝を決め込んだ布団の中で、その電話を受けた。
「ひーちゃん、まだ寝てんのかよ。初詣に行こうぜ」
 やたら高気圧な声は、京一のものだ。
 慌てて布団を畳み、身支度を整える。一着しかないダッフルコートに袖を通して、玄関からリビングルームを見渡してみる。
 布団代わりのシェルフ。通学鞄と教科書。昨日食べたコンビニの蕎麦の残骸。
 他には何も無い。
 それをゴミ袋にぎゅうぎゅうと詰めて、端を縛ると、越して来た頃と変わらない、艶々としたフローリングの床が広がった。
 ふう、と息をついてドアを開け、外から鍵をかけて、その鍵を合い鍵ごと郵便受けに落としこむ。重いスチールの玄関ドアに額を押しつけ、
「さよなら」
 そしていつものように歩き出す。仲間の元へ。




 新宿の街は、いつものように人が溢れていた。
 花園神社に詣でた後、何となく時間が空いて、龍麻は京一・醍醐と並んで人混みに流されていた。
「やっぱ、アレだろ。キモノ、着物。日本の正月なんだからよ」
 京一がうれしげに言う。先程から、晴れ着姿の女性を見るたびフラフラと追ってゆきそうになっては、醍醐に襟首を捕まれている。
「まったく、お前は。こんな時くらい大人しくできんのか」
 深刻な表情の醍醐に、
「いいじゃねぇかよ、こんな時くらい」
 京一が子供のように唇をとがらせる。
 こんな時。
 京一が言うのは日常に対してハレの意味。
 醍醐が言うのは日常に対してケの意味だ。
「龍麻、何とか言ってやってくれ」
「言うね、タイショー。ひーちゃんはどう思うよ?楽しんだ方が絶対いいよな」
 問われて龍麻は、くるり、と踵を返した。
「な、い、しょ」
 にしし、と笑うと、
「なーにが、な、い、しょ、だよ。ずっりぃぞ、コラ」
京一に羽交い締めにされた。そのまま往来の真ん中で、きゃーきゃーじゃれ合って、終いに醍醐に叱られて。
 他愛もなく笑えば笑うほど、世界は切ないほど色を失くして遠ざかってゆく。
 <力>を得て真神学園に転入を決めてより、一年弱。
 相次ぐ異常事件に、めまぐるしく仲間と駆け抜けたハレの日々は。
 もう、終わりに近づいていた。



 マリア先生からの呼び出しがあるだろ、と言われて二人と別れた。
 呼び出しは深夜に近い時間なのだとは、二人にはとても言えなかった。
 仕方なくとぼとぼ歩いていて、その男に出会った。
「よう、先生。どうしたんだ、一人で」
「村雨?そっちこそ」
 龍麻は驚いて声をあげた。先程、神社に行く途中で出会ったばかりだ。神社に詣でるような殊勝な性格には見えなかったので、てっきり新年早々歌舞伎町に出かけるのだと思っていたのに。
「何持ってんの?」
 龍麻は非常に疑わしげな声でたずねた。
「何、って見りゃわかるだろ。りんご飴」
 村雨の手には深紅に透き通る飴が握られていた。見れば破魔矢まで携えている。
 やっぱり詣でてきたのだろうか。
「いや、でも。社務所と屋台だけっていうのもアリだし」
「あのな、先生が何疑ってんのか、まぁ、大方予想はつくけどよ。そんなに俺が神社に行っちゃマズイのか?」
「すっごく似合わない」
「あ、そ」
 村雨祇孔は天を仰いだ。
「で?先生は一人で何やってるんだ」
「えーと、俺は、暇つぶしかな」
「ふん?」
 村雨はすい、と目線だけで龍麻を見下ろした。知り合って間もないので、飄々としたこの男が一体何を考えているのか、全く予測がつかない。
「舞台裏を見ておく、ってのも悪かねェな。先生、ヒマなら付き合いな」
「付き合うって、何処へ」
「正月だし、おせちぐらい食っておきてェんだけどよ。一人でどやされんのも割にあわねぇし」
 答えになってない。しかも龍麻の返事を待たずに、村雨はさっさと歩き出した。
「村雨!」
「来りゃわかるって」
 仕方なく、龍麻は村雨の背中についていった。



 そうやって訳のわからぬまま連れて行かれた先といえば、日頃、嫌と言うほど通い慣れた場所だった。
 北区・如月骨董品店。
 古びた看板の下には、「本日休業」の札。当然だろう。元旦当日から開店しているほど浮ついた商売でもないのだから。
「村雨、休みって」
 龍麻は休業の札を指さしたが、村雨は遠慮容赦なくガンガン扉を叩いた。
「おい!如月、開けろ!」
 程なくして、内側から鍵が開けられ、不機嫌な声が二人を迎えた。
「煩い。近所迷惑だぞ、村雨」
 現れたのは骨董品店の主、如月翡翠。龍麻たちとは夏に一度、共に闘った事がある。
 今日は流石に制服ではなく、袷までもが漆黒の和装姿だった。
「来るってわかってんだから、鍵ぐらい開けとけよ」
「図々しい奴だな」
 眉間に皺を刻んでさらに言い募ろうとした如月は、龍麻に気づいて表情を和らげた。
「やぁ、いらっしゃい」
「あ、どうも。こんにちは」
 とまどいながら挨拶を交わす。一度共に闘った事はあるものの、一緒だったのはそれっきりで、以来、店で顔を会わせても親しく話した事はない。秋にこの骨董屋と因縁があるという鬼道衆の長・九角天童を斃した時も、如月は何も言わなかった。
 それがこの冬仲間になったばかりの村雨と、気安く言葉を交わしているのはどういうわけか。
「村雨、友達なのか?」
「まぁな。俺がもうちょっとガキだった頃からの腐れ縁」
 村雨は店の奥の上がり框で、靴を脱いで答えた。
「ああ、そうだ。これ、土産」
 破魔矢とりんご飴を渡されて、如月は殴られたような顔をした。
「………天変地異の前触れか?」
「あのな、天変地異なら今夜くさるほど来るだろうが。どいつもこいつも、失敬にもほどがあるぜ」
 勝手知ったる他人の家か、村雨はずかずかと奥に上がりこむ。如月は困ったように手の中の深紅の飴を見た。
「あ、そいつはあの座敷わらしみてェな嬢ちゃんにな」
 見透かしたように村雨の声がかかる。
「座敷わらしだと。全くどっちが失敬なんだ」
 如月は軽く息を吐いて微笑んだ。
「時間はあるのかい?だったら上がってゆくと良いよ」
「うん。じゃ、お邪魔します」
 奥に上がるのは初めてだ。多少の好奇心も手伝って、龍麻は靴を脱いだ。
 古びた店構えに反して、如月家の居住部分は意外に普通だった。
 もちろん旧家らしく梁も柱も太いし、緑の砂壁に障子と襖はどう見ても和風だが、ワイドテレビやFAXなどが当たり前のように鎮座している様は、どこにでもある普通の家の風景だ。
 村雨は早くも上着を脱いで、居間の炬燵に陣取っていた。遅れて入ってきた如月と龍麻に手をあげる。
「如月、あの金髪の兄ちゃんは今日はいねェのか?」
「アランなら今夜の下見に行ったよ。援護射撃ぐらいはしたいらしいね。僕は白虎がいるから大丈夫だろうと言ったんだけれど」
 如月は、龍麻も座るよう促して答えた。
「じゃ、双子の姉さんたちは」
「織部姉妹なら神事が終わり次第、それぞれの<塔>へ。禊ぎに時間がかかるらしいから、こちらへは寄らないと言っていたよ」
「チッ、じゃあ今日はお前と嬢ちゃんだけか。シケてるぜ」
「悪かったね」
 話しながら如月は続きの台所へと姿を消した。龍麻は向かいの村雨へと身をのりだした。
「どうなってんの?」
「ん?何が」
「だって、アランとか織部姉妹とか………」
 言いかけて、龍麻はそれが村雨の知らない事柄なのだと気がついた。
 アラン・蔵人や織部神社の雪乃・雛乃と龍麻たちが出会ったのは、村雨が戦列に加わるずっと前。如月と同じく、一度だけ共に闘った仲なのだとは、村雨が知るよしもない。
「…………何でもない」
 言葉を飲みこんでしまった龍麻を、村雨は目を眇めて見つめ、それからおもむろに口の端を上げた。
「よう、嬢ちゃん。邪魔してるぜ」
 龍麻の後ろの誰かに向かって声をかける。ニャァという猫の鳴き声に、龍麻は後ろを振り返った。
「………マリィ?!」
 いつの間にか後ろに金髪の少女が立っていた。臙脂のワンピースに柔らかな桜色のカーディガンを羽織り、胸に黒猫を抱きしめている。
 マリィ・クレア。ローゼンクロイツ学院日本校第十三ラボで、兵器として実験を繰り返され、心と身体の時を止めてしまった少女。鬼道衆と繋がりのあった学長ジル・ローゼスを斃した後、さしのべられた美里の手を泣きそうな顔で振り払って姿を消し、以来、消息が知れなかった。
 それが、どうしてここに。
 思わずじっと見つめると、マリィはおびえたように後ずさった。じりじりと襖の陰に隠れようとする。
 気配を察したのか、台所から如月の声がかかった。
「マリィ、おいで。遅くなったけれど、ご飯にしよう」
 如月が盆を手に姿を現すと、マリィはその後ろにさっと隠れた。村雨が笑う。
「な、座敷わらしだろ。普段は家人の前にしか姿現さないんだぜ」
 如月が困ったようにマリィを振り返り、りんご飴を手渡す。村雨からだと聞かされてわずかに目を見張り、それでも警戒は解かずにマリィは龍麻の隣に座った。
 村雨は頬をかいた。
「へッ。俺も嫌われたもんだな」
「お前のそういう態度がいけないんだろう。だいたい来ると言っておきながら、こんな時間まで何処をうろついていたんだ」
 重箱を並べながら如月が文句を言う。
「何だよ、もしかして飯全然食ってなかったのか?」
「当たり前だろう!」
「ま、ちょうどいいか。先生も全然食ってねェみたいだしな」
「そうなのか?」
 突然話題を振られて、龍麻は狼狽えた。
「え…………何でわかったんだ?」
「何でって、アンタ自分の顔色わかってねェだろ。如月、先生の雑煮は餅六ヶな」
「そんなに椀によそえる訳がないだろう。食べている間に煮ておくよ。遠慮しないで沢山食べていってくれ」
「あ、ありがとう………」
 両人に畳みこまれて、六ヶも食べられないとは言えず、龍麻はうなづいていた。
 卓に小皿を並べて、村雨が駄目押しのように箸を手渡す。
「ああ見えて、あいつ料理は上手いんだぜ。食えよ」
 やがて運ばれてきた雑煮の椀は、湯気が目にしみるほど温かかった。
「………ダイジョウブ」
 マリィの碧い瞳が、龍麻を下からのぞきこんで唐突に言った。
「………ダイジョウブ、ダヨ」
 何故だかふいに、肩の力が抜けた。
 目の奥が熱くなった。
 ぽたり、と椀を持つ手の上に大粒の涙がこぼれた。
 そうなると後はもう、止まらなかった。
 龍麻は椀を手にしたまま、子供のように泣き出していた。



 結局、如月骨董品店を後にした頃には夜になっていた。
 この後浜離宮に顔を出さねばならない村雨と、マリア・アルガードに呼び出されている龍麻は、前後して駅までの道を歩いていた。
 無言のまま、道のりの半分を過ぎて村雨がぽつりと口を開いた。
「先生、四神って知ってるか?」
 龍麻は足を止めた。
「知ってるよ。青龍・白虎・朱雀・玄武、だろ」
「こいつは御門の受け売りなんだがよ、東京は四神相応の地なんだそうだ。詳しくは知らねェが、東西南北の地形を四神に見立てるらしい。その四神によって、東京は守られてるんだと」
 村雨は夜空を見上げた。空は曇りがちで、星すら見えない。
「アンタ、宿星を信じてるか?」
「………質問が唐突だね、さっきから」
「怒るなよ。さっきの骨董屋と嬢ちゃんだがな、玄武と朱雀だ」
「は?」
「四神の宿星を持った連中。俺たちだけじゃぁないんだぜ、宿星に振り回されてんのも、闘ってんのも、な」
 村雨はにやりと笑って、龍麻の頭に手を置いた。
「負けてもいいんだぜ。何も今晩、ケリをつけなきゃならねェ訳じゃねェ。俺たちがやられりゃ、次は如月や嬢ちゃんたちが闘う。龍命の塔もそう簡単には敵の手には墜ちねェ。 他にも、まぁ、いろいろといるだろうよ」
 龍麻は動かなかった。
「気ィ抜けたか?」
「…………抜けた」
 村雨の手を頭に乗せたまま、龍麻は大きく息をついた。
 怖かったのだ。
 負けられないこと。闘うこと。失うこと。
 不安で仕方がなかった。柳生がただならぬ敵であることは、何より斬られた当の自分が一番知っている。
「俺は、ずっと独りだったから。前の学校でさ、<糸>を視る能力者に言われたんだよね。俺には<運命の糸>が視えないって。他の何処とも、誰とも繋がっていないって。それは多分、今でも変わんないと思う」
 黄龍の器の<力>の証。それ故の孤独。
 村雨が顔をしかめる。
「先生………」
「でもさ。真神に来てから楽しかったんだよな、京一や醍醐や美里や小蒔や、みんなと、村雨とも知り合えて、一緒に居られて。だからさ、負けられないと思ってた。巻き込んだのは俺なんだから。これでみんなと居られるのも終わりだけれど、みんなを死なせるわけにはいかないと思ってた」
 闘いは常に独りで。それが無理なら己を犠牲にしてでも仲間を護って。
 そう、思い定めていた。
「俺たちは、先生に護られるために闘いに行く訳じゃねェんだぜ?」
「………うん、ちょっとわかった」
 龍麻は少し笑った。しぱしぱと瞬く睫毛に光るものがあったが、先程のようにこぼれ落ちたりはしなかった。
「黄龍と龍脈の争いに巻き込むまいと思っても、俺の知らないうちに巻き込まれてる人が居て、俺の知らないところで闘ってる人がいるんだ。みんな自分で闘ってるんだよな。そういう事だろ?」
「上等。舞台裏を見せた甲斐があるってもんだぜ」
 村雨は手を離した。再び駅に向かって歩きだす。
「アンタ、今の方がいいツラしてるぜ。その顔で寛永寺に来いよ。つまんねェ事考えてないで、やりたいようにやりゃいいさ」
「………そうする」
 先を歩く村雨の背中を、眩しい思いで見上げる。
「…………敵わないよなぁ」
 龍麻は村雨をまねて、夜空を振り仰いだ。その瞳に、満天の星空が映る。
 万人の頭上に光を放つ、宿星の輝き。ひときわ大きく渦を成す赤い凶星。
 それすらも幾万の星燈りのなかの一つに過ぎない。
 龍麻はゆっくりと目を閉じ、開いて。


 そしていつものように歩きだす。彼を待つものたちの元へ。