ベストピクチャー



 ちらり、ちらり、と薄紅が零れ落ちる。
 舞い散るのは桜。常春の色。


 男は枝垂れ桜の下で、足を止めた。
「おや、完成ですか?」
「うん、実はまだなんだけれど」
 問われた相手は絵筆を宙にもてあそんだまま、困ったように笑った。
「ああ、では失礼致しましょう」
 男は踵を返した。中途の絵を見られて、あれこれ憶測を広げられることを、彼女は何より嫌った。確定しないその先の風景を、勝手に決めてしまうようで怖いのだという。
 彼女の絵筆は常に未来を描いた。望むと望まざるとに関わらず。
「待って!」
 彼女が声をあげた瞬間、きしりと車椅子の車輪が鳴った。男は慌てて駆けよった。
「これを見て。懐かしいでしょう?」
「これは………確かに」
 男はうなずいた。彼女が掲げたカンバスには、桜の風景。見知った人々が佇む姿を見つけて、知らず口元がほころぶ。
 卒業後の打ち上げと称して集った花見の席の光景か。してみると、これは過去を描いたものらしい。
 たかだか数ヶ月前の出来事が、脳裏に懐かしくよみがえった。
「未完成だけど、もう描くのは止めにしようかと思って」
「止めてしまわれるのですか?」
 彼女が絵を途中で止めるのは珍しかった。例えそれが地獄絵であっても、描ききるのが彼女の≪力≫に課せられた勤めだった。まして、そうではない過去の風物を描くだけの時に、そんな事を言いだすなどと。
「だって、この先は必要ないから」
 彼女は微笑んで、絵の一点を指さした。そこに描かれた青年の手には、白い扇子。過去の自分を見つけて、男はかすかに頬を歪めた。
 今はもう、扇子を手にすることは無い。あの頃のように、重責と虚勢に疲れ果て、扇子で表情を取り繕う必要は無くなった。共に護衛を務めていた同僚が、ふいに失踪してからのことだ。
 状況はそこまで追いつめられているのだと、痛烈に行動で示されて、それで正気に返った。冷静になってみれば、苦境は変わらずとも採るべき道を進むことが出来る。
 男は今、名実ともに『東の統領』だった。
 自分の隣に描かれた同僚の姿に目をとめ、次いで彼女の指が自分ではなく同僚を示していることに気がついて、男は視線を上げた。
「ここには晴明がいて、芙蓉がいて。外からここへ、他の皆を連れて来ることができる人は、あとは祇孔しかいないもの。だから」


「帰ってくるよ。……嬉しいでしょう?」


 帰ってくる。その言葉に男は戸惑った。
 ちらり、ちらり、と薄紅の花びらが、二人の上に舞い降りる。この庭園は常に春。
 だとすれば。
 この絵は、これから先のこの庭に、あり得る未来を描いているのだ。
「書き置きひとつで消えておいて、今更どんな顔で戻ってくるというのでしょうね。この男は」
 確かに正気には返ったが、その後の苦労は並ではなかった。恨みがましく呟いた男を、彼女は少し意地悪く見上げた。
「晴明…………顔が、笑ってるよ」
「………不覚です」
 途端に彼女が弾けたように笑いだし、男はやや憮然と空を仰いだ。
 花曇りの春の空。外界では空は高く澄み、夏の太陽が輝いているのだろう。
 でたらめで容赦のない、嵐のようなあの男。
 あの男が帰ってくれば。
 微睡むようなこの庭の平穏を、吹き散らして新しい季節がやってくる。
「さて、どのような罵声で迎えてやりましょうか。考えただけで忙しくなりそうですね」
「ふふ、大変だね」
 彼女の同情は、自分にか、あの男へのものか。打つべき手を様々に思いめぐらせ、ふと心づいて男は口元に手をあてた。

 扇子が必要だと、そう考えながら。