Utopia
こうも茹だるように暑いと、苦痛は夢の中まで追いかけてくる。
灼けつくような白い日差しは、容赦なく眠りの闇をうち払う。
真昼に見る夢は悪夢だ。
だから夜には眠らない。
以前から実はかなりマメな性格なんじゃねェかと思っていた緋勇タツマは、やっぱりマメな性格なんだということが、卒業後に判明した。
二ヶ月に一度、あるいはそれより頻繁にお呼びがかかる。
「来週の土曜、如月の家に集合な。女はメシ持参、男は酒持参のコト。んじゃ」
「ちょっと、待て」
電話はいつも十秒かからず終わる勢いだ。
「先生、アンタ俺が今何処にいるのか知ってて言ってんだろうな」
「もちろん。海を渡った遠い国だろ」
「だったら………」
「だって、御門さんも芙蓉も来ないんだもん」
「そりゃ、そうだろうが」
俺が抜けた分、あの二人の負担は増えただろう。飲み会どころじゃねェはずだ。
「そゆワケで、村雨。浜離宮代表に決定。絶対来いよな」
何が代表なんだと言い返す前に通話は切れた。
結局、帰国の手続きをするハメになった。
負い目があるのかと聞かれれば、そうだと答えるしかねェ。
御門に対して。芙蓉に対して。緋勇タツマという人間に対して。
数ヶ月ぶりの東京は、すでに夏を迎えていた。
コインロッカーに荷物を放りこんで、身ひとつに酒瓶をさげて北区に向かう。
骨董屋は鬱蒼と色濃い夏の緑のなかにあった。
夕暮れ時の朱い影を落とす古びた店の前に、ぽつりと店主が佇んでいた。藍を着流した和装姿。眉のあたりに険を含んだ仏頂面。アイソの無さが笑えるくらいに、全然、変わらねェ。
俺を認めて、如月が顔を上げた。
「おかえり」
いきなりの台詞に面食らう。
「何だ、その顔は。こういう場合はただいまと言うのが筋だと思うぞ?」
「あ、いや」
「皆とっくに集まって始めてしまってるよ。遅かったな」
開け放した店の奥から、灯りと騒音が漏れだしていた。
連中のお祭り好きも、変わってねェな。
「まさかとは思うが、俺を待ってたのかよ」
「タツマが帰ってくると言ったんだ。実際、帰ってきただろう?」
「相変わらず、先生には甘ェな。若旦那」
上がり框に草履を揃えながら、如月は眉を解いて笑った。
「海を越えて帰ってきた男に、言われたくはないな」
「ヘッ、確かにな」
憎まれ口に苦笑しながら如月の背中をたたいた俺は、そこで凍りついた。
手のひらに残る、骨の感触。
如月は痩せていた。
変わらないと思っていたものが変わる。それがたまらなく怖い。
そう思うようになったのは、いつからだ?
俺の記憶にあるかぎり、浜離宮の結界の中はいつでも春だった。
その理由は御門曰く、「木氣を拝借して紡いだ結界だからですよ」なのだそうだ。
小難しい理屈はわからねェが、浜離宮の結界を維持している力は東京で毎日消費される電力の一部らしい。
雷氣は木氣。五行の木は四季の春にあたる。だからここは、常に春なのだ。
「やろうと思えば、常冬にも出来ますが。お前の博打癖を高める季節にして、利があるとは思えませんからね」
パソコンのモニターを前に、御門が澄ました笑いを浮かべる。
「冬にするには水氣、つまり水道管を利用するのですよ。この場合は私自身が術を制御しなければなりませんが、木氣ならばこのように」
キーボードの上を流れた指は、最後にエンターキーを打って止まった。カツン、と爪がキーを鳴らす。
「プログラムひとつで制御できる。しかも電線は水道管よりも多く、この東京に網の目のように張り巡らされているのですから、利用するにことかかない。そのことが、当家の長老方には理解できないようですが」
陰陽師がパソコンを使って術をかけるなんざ、俺でも理解しがたい。
新しいものを新しいと言える、そういう意味で御門晴明は確かに天才だった。
嫌味なほどに冷静。
理解不能なまでの知的能力。
柾希が倒れた例の事件の後、普段と変わらねェ能面ヅラで事後処理の指揮をとったあの御門が、実はもうイカレちまっていたのだと知ったのは、ずいぶんたってからだった。
神経質な長い指が、執拗にキーを叩く。
防御のプログラムを実行せよと、過剰なまでに、何度となく。
リターン。
リターン。
リターン。
戻れないものがあると、失ってから初めて気付く。
そんな陳腐な言葉が胸にこたえた。
眠れなくなったのは、それからだ。
天井を見上げて夜を過ごすのには、もう慣れた。
望んで自分に叩きこんだ護衛の性質だ。仕方ねェ。が、今夜のこの状態はあまりといえばあまりと言えた。
雑魚寝だ。
右を向けば誰のだか分からねぇ足があるし、左を向けば誰のだか知りたくもねェ尻がある。八畳間にガタイのいい男ばかり十人近く転がってりゃ、逃げ場は何処にも無ェ。
ドンチャン騒ぎの後、如月はきっぱり言った。
「被害は一部屋で充分だ」
なるほど、確かにそうだ。寝返りをうった先生の拳が襖に突っこむのを目撃して、俺は天井に視線を戻した。
退屈極まりない。
そもそも他人が側にいて眠れるタチじゃねェが、ここまで人の気配を間近に取り囲まれているとなると、正直、眠るどころの話じゃねェ。
ピリピリと神経を張りつめていると、嫌でも腹の底に重いしこりが凝りはじめる。
俺が、考えるまいと押しこめたもの。
口に出すまいと飲みこんだ言葉。
人間いつまでも表面を取り繕えるものじゃねェ。
御門が倒れるのも、もう時間の問題だ。
芽生えた感情を確かにする間もなく、芙蓉は紙切れに戻っちまうだろう。
独り残された薫はどうなる?
なぁ、そもそもの始めにおいて、薫があんなに柾樹そっくりに化けちまうと誰が考えた?
今じゃ病院で眠る柾樹の方が、昔の面影も無ェ別人だ。
点滴でどうにか命を繋ぐ、その姿。
いつまでも保つもんじゃねェ。
時間が無い。
時間が無い。
全然無い。
それなのに、俺は。
いたたまれずに寝返りを打つ。
目に映る襖の穴。
先生、アンタが悪いワケじゃねェのはちゃんと分かってるんだ。
それでも俺は、アンタが憎い。
アンタは自分の宿命に勝った。柾樹は目覚めない。
ああ、逆恨みなのは分かってるんだぜ。
アンタに賭けて闘ったことが、とんだ無駄足だったなんて、そんなことはアンタの知ったことじゃないさ。
悪いのは俺だ。
無駄な寄り道をしたのは、俺だ。
そして逃げ出したのも、俺だ。
ふいに一筋、光が射した。
音もなく襖が引かれて、のぞきこむ影。
家主に間違いない。敷居に膝をつき、子供をあやすような仕草で襖に突っこんだ先生の腕を引き抜く。俺は息をつめて如月の姿を目で追った。
手のひらに、痛々しい背中の感触を思い出した。病、負傷、監禁、嫌な単語ばかりを連想する。元々丈夫とは言い難い奴ではあるが、何もなくて痩せる道理がねェ。と、すれば。
闘っているのか?今も。
逆光のなか、かすかに吐息をついて如月は微笑ったように見えた。
もしかすると如月は、俺が思うよりもずっと強いのかもしれなかった。宿星だ使命だ力だと、俺が嫌って嘲笑った諸々のしがらみも、あるべき所にあって真っ向から受け入れる方が、本当は強いのかもしれねェ。
それならば、俺は帰らなければならないのだろう。あるべき場所へ。
だが、今更どんなツラを下げて戻れるってェんだ?
海の向こうで東京という単語を耳にするたび、脳裏に浮かぶのはいつだって満開の桜だった。思い出は美化されるというが、手の届かないそこはすでに理想郷のように遠かった。
帰れねェ。
「…………………さめ!村雨!」
目を開けると、如月が俺の肩を揺さぶっていた。
「あぁ?うるせェな。もう少し寝かせてくれたっていいだろうが」
寝付いたのは結局、夜が明けてからだった。ちょうど入れ替わるように他の連中が起きていって、部屋には俺一人だった。
如月はいぶかしげに俺の顔を見た。
「何だよ?」
「……うなされているように見えたんだが、僕の勘違いだったか。すまない」
「………ああ、そうか。悪かったな」
昼に見る夢は悪夢だ。だから夜には眠らない。安らぎを覚えることが、何故か自分に許せなかった。多分に、自罰的になっているのだろうとは思うが。
冷たい感触に目を上げると、如月が俺の額に指をのばしていた。
「疲れているのか?後はお前の分の朝食だけだったんだが。残しておくから、もう少し休むといい」
指で額の汗をぬぐわれて、そこでようやく全身冷や汗をかいていることに気がついた。思えばコイツに気づかわれるのも妙な話だ。つい数ヶ月前までは、触れようものなら斬って捨てられる間柄じゃぁなかったか?
「いや、起きる」
どうせ寝直したところで、見る夢は悪夢と決まっていた。目を覚ました今でも、瞼の裏で桜吹雪が舞い散っているような気がする。
「そうか。なら、顔を洗ってこい」
言って如月は手にした白いタオルを広げると、俺の顔に押しつけた。
「おい!」
「ひどい顔だぞ。もっとましな顔で台所にくるといい」
如月はさっさと部屋を出ていった。
洗い晒したタオルは柔らかい陽だまりの、ひどく懐かしい匂いがした。
店自体も骨董級な骨董品店と棟続きの家屋は、敷地面積のわりには一部屋の間取りが小さく、梁の高さも低い。どこか小造りで、すみずみまで手のゆきとどいた居心地の良さがあった。
家主はブツクサ文句をたれていたが、人が集まるのも宜なるかなだ。
磨きぬかれた廊下の向こうに、抜けるような青空があった。
真昼の陽射しが庭の緑に照りつける。何故か雨紋と先生が、ひぃひぃ言いながら草をむしっていた。
台所に足を向ける。
如月は俺に気づいて手を止めた。
「丁度よかった。そこに座れ」
示された卓には一人前の箸と茶碗。てきぱきと碗に飯を盛りつける。戦闘を離れた場面での如月は、実はかなりの世話焼きだ。本人に自覚は無ェんだろうが。
俺が取りあげた朱漆の箸を、如月は見咎めた。
「それじゃない。それは客用の箸だ」
替わりに渡されたのは素っ気ない鉄木の箸。割り箸じゃねェだけまだマシとも言えるが、客ですらねェ扱いに、少しばかり気がめげる。
しかしどうも、この箸には見覚えがあった。
「如月、この箸……」
「何を言っている。お前の箸に決まっているだろう」
何だって?俺の箸だ?
俺がこの家で飯を食ったのは、せいぜいが一度か二度。その時の箸を、今までとっておいたとでもいうんじゃねェだろうな……。いや、そういうことか?
ふと、昨日の如月の言葉を思い出した。
やられた。
「はッ、そういうことかよ……」
俺は天井を仰いで、苦笑した。
まったくもって、最強だ。敵わねェな。
「気味が悪いな。何をニヤニヤ笑ってるんだ」
如月は顔をしかめて、俺の前に味噌汁の碗を差しだした。
「何でもねェよ。……って、オイ。何だ、この味噌汁は」
味噌汁は何故か、刺激臭がする上に得体の知れねェ赤い粒が無数に浮かんでいた。
「僕としても、このような物体は鍋に臭いが移る前に始末してしまいたいんだが。タツマが、これは村雨用だと言ってきかなくて。元気一喝味噌汁黄龍スペシャル何とか、だったかな。味噌に七味を練りこめば、隠してしまえると思うあたりが彼らしく浅はかなのだろうけど」
「先生が、俺に?」
俺にちらりと横目を流し、如月は小さく口の端を上げた。
「………気づいている者もいる、ということだろう?」
「………嫌味かよ」
「さて?ともあれ、全員がお前用との名目で、この味噌汁を飲まされたわけだから、そのうち何らかの報復があると思っておいたほうが良いだろうな」
「冗談じゃねェ。俺は逃げるぜ」
騒々しい連中を撒いて、あの場所へ。
夏から春へと季節を逆行するには、怒濤の勢いが必要だってことかもしれねェが。
発作的に笑いがこみあげてきて、俺は味噌汁に口をつけた。
ハメられた。
やられた。
ああまったく、コイツらには敵わねェ。
如月は俺に、「おかえり」と言った。俺は、帰ってきたのだ。この東京へ。
「まぁ、せいぜい頑張るんだね」
俺の向かいに腰を下ろして、頬杖をつきながら如月は微笑った。