恋が彼等を連れ去った
これほどたくさんの人々が、悲しみ笑い涙して、愛を確かめ惜しみあい、空を仰いで。
そのざわめきは途絶えることなく、流れ続けるというのに何処か閑散とした。
空港のロビー。
僕は男の前に立っていた。
心臓が、爆発しそうに高鳴っていた。走り続けた足には、もう感覚がない。膝からくずおれそうになって、うつむいた額に汗が流れた。
「返せ」
切れ切れの息のあいまに、どうにか言葉を告げる。男は微かに唇を歪めた。
「バレちまうとはな。俺の運気も尽きちまったか」
「僕にわからないわけがないだろう。盗人猛々しい」
「の、ワリには遅かったじゃねェか。全力で追いかけてきたんだろ、違うか?」
からかうような声音。反論は、いまだ速い鼓動の音に消えた。
ああ、そうだ。僕はここまで走ってきた。空港へと向かうスカイライナーは、眩暈がするほど遅かった。停車するのももどかしく、ドアの隙間に身をねじこみ飛び出して、息を継ぐのも忘れて駆けてきたんだ。
そう仕向けたのは、お前じゃないか。
答えない僕に、男は笑った。
「こんなに髪を振り乱しちまって。ひでェ有り様だぜ?」
くしゃくしゃと、僕の髪をかきまわす。機嫌が良いとき、嬉しいとき、照れを隠すために僕に手を出す、この男の癖。
髪をすく、長い指を頬の間際に感じて、僕は目を閉じた。
もう一度、震える息をしぼりだす。
「返せ」
男は、肩をすくめた。
「仕方ねェな。形見にしようと思ってたんだが」
「僕は生きてる。縁起でもないことを言うな」
「本当につれねェヤツだよな、お前は」
苦笑して、男は上着の胸から指輪を取り出した。透かし細工の美しい、銀のアンティークリング。填められた石こそ高価ではないが、失くしてわからないはずがない。
それは、僕の店の商品だった。
この男の趣味の良さにも困りものだ。一等に品の良いものを拝借されて、僕は旅立つ男を追わざるをえなかった。
仕組まれていると、知っていたのに。
「手を出せよ」
言われるままに差しだした左手に、男は指輪を通した。
薬指の第二関節。するりと抜けて納まったきり、動かなくなる。
「ちょっと待っ……抜けなッ…」
「確かに返したぜ。じゃあな」
焦る僕の耳元にささやいて、
「待っ……!」
男は踵を返した。僕に背を向け、真っ直ぐにゲートをくぐる。
「むらさ……村雨!」
悲鳴に近い僕の声に、男は一度だけ手を上げた。
振り返ることは、なかった。
行ってしまう。
遠ざかる背までの数メートル。視界を遮って、ポーターに引かれたスーツケースが横切る。
今なら、追うことができる。まだ、間にあう。
けれど、僕の足は動かなかった。
動けなかった。
行くなとは言えない。
全てを捨てて、どこまでもついてゆくとは言えない。
僕は、この先へは進めない。
「村雨………ッ……」
握りしめた左手が痛い。
あの男の計略に乗って、ここまで来てしまった。
ここより先、一歩も動けない自分を知ってしまった。
もしも一緒に行けたらと、空想にすがる余地も与えないあの男のリアリズムに、泣きたくなる。
透かし細工の美しい、銀のアンティークリング。填められた石こそ高価ではないが、そこには意味があった。
とろりと深い艶を帯びた白緑の玉。翡翠。
あの男に連れ去られるわけにはいかない。
旅客ターミナルを行き交う人々。空へと旅立つ人の流れを見送って。
フライトインフォメーションからNW078便が定刻通りに消えるまで、僕は立ちつくした。
僕の足を地上に縫い止める、数々のしがらみ。望んで受け入れたその戒めを。
今、これほど憎んだことはない。
キィィィィィイィィィィィィィィィン
轟音を響かせて、滑走路を疾走するボーイング。眼下に翼を連ねるいくつもの機体。
屋外の展望デッキ。鉄線のフェンスに額を押しあてて、見下ろす地上の何処にも、もうあの男はいないのだと確認する。
風が強かった。春の空は色が淡い。天を仰いで雲路を追う僕の髪を、午後の風が吹き散らした。
苦しいはずなのに、気持ちは何故か軽かった。
どうしてだろうと訝しみ、その理由を思いついて僕は笑った。笑うしかなかった。
ひどい別れ方をした。
あの男は僕の心の中から、恋をする僕を引き剥がして連れていってしまった。
あの男が帰ってくるまで、もう恋はできない。