わかりやすい恋 7/6



 その日、如月は朝から機嫌が悪かった。
 関東地方の天気は晴れ。日中の最高気温30度。湿度75%。真夏日とはこのことだ。その上、今年の梅雨はカラ梅雨で、雨らしい雨なんぞ、ほとんど降ってねェてんだから、まったく、如月の機嫌も麗しかろうハズがねェのだった。
 なにしろ、奴は玄武だ。
 北の将、黒帝水龍。死と水を司る、四神の末席。
 このままでは暑くて参ってしまうよとボヤいていたが、参るというのは干涸らびるの間違いだろう。
 その日、如月は朝から機嫌が悪く、陽が沈んでもなお茹だるような暑気の所為で、夜になる頃には不機嫌の極みに到達していた。
 風呂上がりの熱に焦点の定まらない瞳で雲ひとつ無ェ夜空を睨み、恨めしそうに黙りこくったままだった。
 俺はその横顔を眺めながら、どうすれば明日までにコイツの機嫌を直せるだろうかと考えていた。
 そいつは、まさに切実な問題だった。少なくとも俺にとっては。現在時刻は午後7時半。タイムオーバーまで5時間と少し。どうしたものかと、俺が考えあぐねたその時に、如月はこう言った。
「村雨、夕涼みをしよう」


「は?何だって?」
「夕涼み。まさか、夕涼みを知らないとでも言うんじゃないだろうね、君は」
「……あー」
 如月は呆れたように息をついた。
「……秋月家には俳人も多いと聞くのに、君の情緒のなさは何なんだい」
「うるせェ。ほっとけ」
 唸った俺に、如月は微かに笑った。蚊遣りに火をともすと、縁側の雨戸を全て開く。手招きをして俺を縁側に座らせると、自分はいったん台所に引っこんで、麦茶とビールを手に戻ってきた。
「ほら、君はこれだろう」
 手渡された缶ビールは、キンと凍った音がしそうなくらいに冷えていた。以前に俺が、ビールはこの温度がいいと言ってから常にそうなのだが、漬け物やマヨネーズと並べて冷蔵庫に収まっているハズの缶ビールだけが凍りそうに冷たいというのは、いつ飲んでも謎だった。少なくとも、凍った漬け物やマヨネーズが食卓にのったことはない。
「僕にすれば、この暑いさなかにアルコールで身体を温めるなんて、物好きとしか思えないけれどね」
 そう言って、如月は自分の手元に煮出した麦茶を注いだ。涼しげな色の江戸切子のグラスに、籐を編んだ茶托。如月らしい好みだが、麦茶を納めた水差しは100円均一の買い物だった。いかにも安っぽい淡いブルーのポリ容器。
 如月の美意識というものが、俺はいまだに分からねェ。
 いや、理解しがたいのは、何も美意識に限ったことじゃねェんだが。
「物好きってなぁ、お前」
 俺は腕を伸ばして、缶を如月の頬に押し当てた。
「気持ちいいだろ?」
「…………うん」
 如月は目を細めて微笑んだ。火照った白い肌に、うっすらと血の色が透ける。ほぅ、と息をもらしたその姿は、艶めかしいの一語に尽きた。
 これが無意識だってんだから、始末に負えねェ。
「村雨?もう、いい。温くなってしまうよ」
「ん、ああ…」
 缶ビールを、縁側の床に置く。もう一度手を伸ばし、今度はその顎を捕らえた。
「むらさ…………んっ………」
 キス。深く舌を探る。
「……だ……駄目……っん」
 俺の肩を強く押しのけ、如月はのけぞった。離れた唇から一筋、透明な滴がこぼれる。
「やめろ…」
「嫌だね。……知ってるか?あと五時間で、俺の誕生日なんだぜ」
 湿り気の残る髪を梳きあげ、頬に指を滑らす。如月は目を閉じた。
「……知ってるよ」
「欲しい」
「……却下。誕生日だと強請らなくても、君はいつも僕を貪っているだろう」
 強情に顎をそらせた如月を、俺は抱きすくめて横たえた。手首を押さえ、逃げられないよう耳元にささやく。
「身も心も欲しいと言ったら?」
 如月の肩が小さく震えた。
「………ふざけるのもたいがいにしろ」
「俺は本気なんだがな」
「なおさら性質が悪い」
 如月は、きっと俺を睨みつけた。
「まったく、どうして僕より君の誕生日が先なんだ。ああ、もう、腹の立つ」
「如月?」
 薄い目蓋のふちに、じわりと涙が浮かんでいた。自分でもそれに気づいたのか、何度も瞬きをくり返して振り落とす。
「おい……」
 驚いて、思わず力を緩めたのがマズかった。
「………って、うぉ!」
 視界がくるりと反転する。
 如月の膝が俺を突き上げた、次の瞬間には体が入れ替わっていた。
 指を内に籠めた拳が、俺に向かって振り下ろされる。
「………ッ!」
「……………………馬鹿」
 身構えた俺の胸板に、コツン、と力無く拳を当てて、如月は呟いた。
「生憎と、ね」
 俺の上に馬乗りになったまま、淡々と続ける。
「僕の心は、とうの昔に売約済みだよ。君は知らないだろうけど。一度あげてしまったものを、欲しいと言われても困るんだ」
 静かな言葉だった。
 俺は声を上げようとし、何を言うべきかに迷い、結局、黙りこむしかできなかった。
 それは誰だ、と。
 そう、聞くのが怖ェ。
 俺を見下ろす如月の瞳。そこに映っているのは、本当は誰なのか。その心を占めているのは、何処のどいつなのか。
「………………」
 何も言わねェ俺の上から、如月はそっと身体をひいた。
「……僕はもう寝るよ。戸締まりは任せる」
 俺は動けなかった。
 固い床板に寝ころんだまま、庇の向こうの夜空を仰いだ。
 晴れていようが曇天だろうが、星など見えない東京の空。

 ……こういうのも、フラレたって言うのかねェ。


 最初は、身体が目的だった。
 と、言えば外聞は悪ィが、そもそも男に手を出した時点で酔狂の誹りはまぬがれねェだろう。
 始めの頃はたびたび、それが毎日の通いになり、泊まりになり、気がつけば居候になっていた。どんどん生活圏に踏みこんでゆく俺に、如月は文句をこぼしこそすれ、拒むことは決してなかった。
 身体だけと割りきるには、深入りをしすぎた。
 高望みと知りつつ、その先を望むようになった。だが。
「……きっぱり言い切りやがって……」
 無性に煙草が欲しくなった。苦い思考を振りきって、勢いよく身を起こし……俺はぎょっと息を飲んだ。
「村雨…」
 気配もなく、如月がこちらを伺っていた。
「君のことだから、そのまま寝入ってしまうんじゃないかと思ったんだけど、心配はいらないようだね」
 わずかに小首を傾げる、いつもの仕草。
「明日もどうせ居るんだろうから、夕飯は君の好きなものをつくるよ。今晩は、酒は程ほどに、腹などこわしでもしたら承知しないからな」
 俺は、あっけにとられて如月の顔を見た。その視線に何故かたじたじと後さじり、如月はそそくさと踵を返した。
「じゃあ。おやすみ」
 軽い足音が寝室へと続き、消えた。今度こそ、本当に寝たらしい。

 ………何だって?


 明日の夕飯とはどういうことだ。
 ついさっき、俺を拒んだばかりじゃねェか。
 俺は、うろたえて落ち着きなく居間をうろついた。

 …………完全にお手上げだ。俺には如月の考えていることがサッパリわからねェ。

「畜生……」
 自慢じゃねェが、この手の考えごとはすこぶる苦手だ。頭を掻きむしりつつ、茶箪笥の抽斗を開く。
 マイルドセブン、灰皿、チャリ銭に雀荘のマッチ。小さな白い包み。
「……チョコレート、か」
 私物の抽斗に入れっぱなしの包みは、バレンタインに如月が俺に投げてよこしたものだった。
 顧客用だと、山のように積まれたチョコレートを思い出す。
 あの日、如月から同じ包みを贈られた壬生と先生によれば、チョコは全てトリュフのアソートだったらしい。中身を聞いて食う気をなくし、それっきりになっていた。
「ツマミに食うか……」
 重い息を吐いて、抽斗から取り上げる。
 とっくに温くなっちまったビールにチョコレート。胸焼けしそうな取り合わせだが、悪酔いでもしなけりゃやってられねェ気分だった。
 火を点けた煙草をくわえ、パッケージを剥がしにかかる。
 艶を消した黄金色の小箱。透明なフィルムを破ると、ツン、と強い香りが立ち上った。
 メンソールのような、冷たい匂い。
「…………?」
 箱の中には、長く細いスティックチョコレートが並んでいた。
 間違ってもトリュフじゃねェ。
「何だ?」
 箱を裏返した拍子に、白い紙がぱらりと落ちた。
 青く滲んだインク。流れる書体で、たった一行。


 『only you』


 冷蔵庫の内で、缶ビールだけが凍りそうに冷たい。
 山積みのチョコレートの、ひとつだけが違う味。

 あなただけに。



「…………は」
 その時の俺は、世にも間抜けな顔をしていたに違いない。
「……そういう、ことかよ……」
 確かに、贈るばかりで俺がそれを知りもしなければ、腹立だしさになじりたくもなるだろう。
 一度贈ったものは、二度は贈れない。それは既に俺のものだ。
「わかりにくいにも程があるぜ……」
 俺は苦笑して、煙草を揉み消した。
 代わりにチョコレートを一本、口に含む。
 冷たい匂いのチョコレート。舌の上でゆっくりと溶ける複雑なミントの味。
 甘く、ほろ苦い。
 如月に、すこし似ている気がした。


 7月6日PM9:00。午前零時まであと3時間。
 平謝りで幕を開ける誕生日なんざロクでもねェが。
 それでも。
 明日は最高の一日になるだろう。