たとえ、この身に起きるすべてが



 年の瀬は何かと慌ただしい。
 雲が薄い冬の晴天。淡い陽光が中天にさしかかってなお、肌寒い風。足早に行き交う人々。
 築地市場の場外。狭い路地にごった返す人波にもまれて、僕はため息をついていた。松露の卵焼き、塩漬け数の子、栗の瓶詰め、西京漬け、干し椎茸。それらの重みでずっしり下がった腕に、かさのはる大きな包み。
 包みの中身は削り節だ。行きつけの店でまとめて買った1kgの上削り。三度の食事に汁物がつく、我が家の食卓を支える必須の品だ。出汁は、やはりここの削り節でないと、僕はどうも落ち着かない。
 市場の休みに削り節が切れてしまうと困ると思い、買い物に出かけたのが運の尽きだった。
 正月用に足りない品を、あれもこれもと思い出し、気がつけばこの有り様だ。
 たかだか自宅に、宅配便を頼むのも馬鹿らしいし。
「帰るか…………」
 僕は踵を返した。
 せめて村雨なりとも、人手のある時に来ればよかったのだけれど、あの男は師走に入ったとたん、僕の家には帰ってこなくなった。
 年末は何かと行事が集中するから、秋月家の周辺も慌ただしいのだろう。当主の側に控える村雨が、帰ってこないのも仕方がない。
 仕方がないのだ、それが仕事なのだから。
「……………」
 僕はもう一度ため息をついた。
 歩き出した自分の足。
 そのつま先が、築地駅ではなく築地市場駅に向かっていた。
 場外から最寄りの駅は、都営日比谷線築地駅。
 対して逆方向、魚河岸寄りにあるのが都営大江戸線築地市場駅だ。家に帰るには、どちらもあまり大差はない。
 けれど、築地市場駅よりさらに南西、徒歩で七分のわずかな距離に。
 冬枯れてなお緑の、浜離宮恩賜公園がある。
 ……女々しい。
 駅の自動券売機にたどりつき、僕は憤然と硬貨を投げ入れた。
 幾重の結界を連ねた、あの常春の庭。
 行ったところで会えるはずもないのに、どうかしている。
 チャリン、と音高く吐き出された釣り銭と切符をつかみ、改札をすり抜けた。
 荷物はかさばり手に余り、未練がましい自分が腹立だしく気が滅入る。
 僕は足早に、地下鉄のホームに降りた。


 日常というのは一体、どこからどこまでなのだろう。

 一人の生活に村雨という他人が割り込んで、二人の暮らしになってしまった時。
 その変化は重大で、僕は村雨に振り回されてばかりだったというのに。
 その生活は明らかに非日常だったというのに。
 今、振り返れば変化の節目は至極ささやかで、以前を思い出すのも困難になっている。
 非日常である男は、限りなく日常に近くなっていた。

 その不在が、寂寥感をともなうほど。


 上野御徒町で途中下車して乗り換える。改札へ向かう人々にまぎれ、階段を上ったところで、それは起こった。
「――――― スイ!ヒスイ!」
 背後からの呼び声。僕は反射的に、手にした荷物を振り落としていた。
 翡翠という名前。
 それは一族の名称と同音であるため、普段は誰にも呼ばせない名前だった。
 血族ならば皆、当代、または玄武に由来する通り名を使う。ヒスイと呼ぶのは入り婿の父ぐらいのものだ。
 あるいは、敵か。
 袖に落とした小柄を手に、逃走経路を目で確かめる。
 こんな時に振り向く愚は犯せない。衆目の中で闘う必要もない。
 ほんの一呼吸の判断を、終える直前に。
「あー、おい。何やってんだよ、お前」
 呑気な声が続いた。嫌になるほど良く知っている、男の声。
 僕は後ろを向いた。
「これ、大丈夫かよ。割れモンじゃねェのか」
 僕が階段に放りだした紙袋や品々を、腰をかがめて拾いあげる、その男。
「………村雨」
 僕は不機嫌に言葉をしぼりだした。
「よう。ほらよ、片方持ってやるからこっちの袋持ちな」
「僕は」
 村雨の手から削り節の袋をひったくる。見た目を裏切る軽さに、手が上滑った。
「名前で呼ぶなと、言ったはずだぞ」
「悪ィ。でも、お前、普通に呼んでも全然気がつかねェから」
「………………」
 呼ばれていたとは気づかなかった。不覚だ。少し気まずい。
「……同じ電車に乗っているとは思わなかったよ。仕事はもういいのかい」
「まあな。少し時間が空いたんで、忘れられねェうちに顔ぐらい出しておこうと思ってよ。実際、呼んでも振り向かねェし、怒ってんじゃねェかと心配になったぜ」
「だったら、怒らせるような呼び方はしないでくれ」
「効果はあっただろ」
 まったく悪びれた様子もなく肩をすくめ、村雨は歩き出した。コンコースを抜け、地上に出る。
 雑踏に一歩を踏み出して、村雨は言った。
「そんなに嫌か?」
「………嫌じゃない。ただ、慣れないだけだ」
 口に出してしまえば、本当にそれだけのことだった。名前は名前でしかない。今まで、その名を呼ぶ者は敵ばかりだったから、身構えてしまうだけだ。
 もし村雨が、僕を名前で呼び続けるなら。
 いつしかそれは、ごく当たり前に心安い、日常の一部になってしまうのだろう。

 そうなるのも、きっと悪くはないけれど。


「しかし何だ、この袋。中身入ってんのかよ」
 村雨は重さのわりには容量の大きな袋に、不思議そうな顔をした。
「ちゃんと入ってるよ。こっちは味噌汁用の上削り。君が持っている袋の中には、澄まし用の特上削りと鍋用のサバ節。あとは贈答用の西京漬けに、おせちの材料が少し」
「カツオ節か。道理で軽いはずだぜ」
 軽いと言いつつ村雨が掲げた袋には、贈答用の箱が三つに瓶詰めまで入っているのだから、相当に重い。
 術師のくせに、どういう腕力をしているのだか。
 実を言えば僕は、単純な力比べで村雨に勝ったことがなかった。
 あきれる思いで見た僕は、そこでようやく、村雨が逆の手に白い箱を提げていることに気がついた。
 上品なリボンを十字にかけた、直方体のケーキボックス。
「村雨、その箱は?」
「ああ、これな」
 村雨は苦笑した。ニヤリと唇を曲げて、低く口ずさむ。
「......we wish you a merry christmas,we wish you a merry christmas and a Happy new year....」
「クリスマスケーキ?」
「ご名答。マサキと芙蓉が二人がかりで朝から焼いたんだとよ。家に戻るんなら持っていけって、20センチくらいのヤツを、丸のまま渡された」
「僕はまた、何かの罰ゲームなのかと思ったよ」
「俺一人で食うんなら、完全に嫌がらせだろうぜ。こんなに食えるわけがねェ」
 甘味が苦手な村雨に、8インチのホールケーキは確かにつらいだろう。それでも食べろと言われれば、意地で食べるに違いない。マサキさんの手作りなら。
「それで」
 僕はちょっと可笑しくなって、尋ねた。
「一人で食べるのかい?」
「…お前、な」
 しぶい顔で口を開きかけたところに、すかさず続ける。
「ごちそうさま」
「……………どういたしまして」
 やれやれと天を仰いだ村雨に、僕は笑った。
「何か良いことでもあったのかい」
「……わかるか?」
「なんとなく………浮かれているように見えるよ」
「マサキが絵を描いた」
 人の流れにあわせて、ゆっくり歩を進めながら村雨は言った。
「入院してる親友が、絵の中で俺の隣に立ってた」
 秋月の当主が描く絵は、未来の光景だという。いつ訪れるか定かではなくとも、いつか必ずやってくる未来の、その兆し。
「それは………良かったね」
 親友とは誰だろう。そう思ったけれど、その疑問は伏せた。
「おう。もう、目を覚まさねェんじゃないかと、半分あきらめてたからな………ん?」
 村雨は立ち止まった。荷物を下ろして、携帯電話をとりだす。
 道ゆく人々が迷惑そうに、僕と村雨の脇を通っていった。
「…………ああ、わかった。今から戻る…………すまん」
 最後の言葉は、僕に向けられたようだった。
「呼び出しだろう。気をつけて」
「悪いな」
 慌ただしく、持っていた荷物を僕に返す。
「正月までには一度帰る。帰ったら、お前には全部話すから」
「……うん」
 村雨は、軽く手をあげた。
「じゃあな、翡翠」
 不意打ちの呼びかけ。
 一瞬、動きそうになる身体を抑えて、僕もうなずいた。
「ああ、待ってるよ」
 村雨は、来た道を走るように戻っていった。
 その背中を見送って、僕も歩きだした。
 荷物は元の通りの大荷物。腕は重みでずっしり下がるし、かさのはる袋は手に余る。おまけにケーキの箱が増えた。
 けれど家路に向かう、その気分は軽かった。



we wish you a merry christmas
we wish you a merry christmas
we wish you a merry christmas and a Happy new year
Good tidings we bring to you and your kin
Good tidings for Christmas and a Happy New Year



 たとえ、この身に起きるすべてが、あらかじめ星の定めた軌道のままであっても。
 起こりうる未来を知り、避ける術が僕らの手にはなかったとしても。
 幾年となく重ねてきた歳月が、僕らを支えてくれるだろう。
 幾年となく重ねてゆく歳月が、僕らを救ってくれるだろう。

 どんなに大きな変化も、いつかは日常に変わるだろうから。

 ただ願わくば、親しい人々には、どうか。

 良い知らせがありますよう。


 そう、祈りながら僕は歩きつづけた。