続く日常
一月二日未明。
崩壊する異空間から、からくも抜け出した僕らを迎えたのは、静かな寛永寺のたたずまいだった。
根本中堂の闇に沈んでなお、濃い影を落とす樹木。
僕らが吐きだす荒い息だけが響く、澄んだ冬の大気。ほんのりと曙光に染まる夜明けの空。
僕らは呆然と立ちつくした。
「終わったのか……?」
誰かが呟いた。
「……終わったよな」
誰かが答えた。
その声に、境内の向こうから人影が現れた。
「アニキ!アニキー!無事やったんやな」
「シャンユェ!」
大声をあげながら駆けてくる劉君に、他の仲間達が続く。
裏密さん、御門君、織部姉妹、そして村雨。
陰の器と黄龍の力が造りだした異空間へ渡る僕らのために、こちら側に残った術者たち。
どの顔も先の柳生戦で汚れ傷つき、疲れきっていた。その上、異空間を脱する僕らの退路を支えたのだから、消耗も激しかっただろう。
厳しい表情を崩さない彼らに、タツマが言った。
「終わったよ、全部。終わったんだ」
誰かが、詰めていた息をフッと吐き出した。
緊張がとけた、次の瞬間。
皆が動いた。
わっ、と歓声があがる。
勝ち残った喜びに、全てが終わった解放感に、わきあがる感情を抑えきれずに抱きしめあう。あっという間に全員が、もみくちゃになって騒いでいた。
日頃は閑静な寺の境内に響き渡る、常ならぬ歓声。
けれどもそれは確かに日常が帰ってきた、その証でもあったのだ。
僕はその歓声の輪の外れで、笑いあう仲間たちの様子を眺めていた。
全身が泥のように重かった。気を抜いたとたんに、へたりこみそうになる。
「おっと、危ねェ。大丈夫か、若旦那」
ガクリと膝が落ちた僕の腕を、村雨が掴んだ。
「……あ、ああ。すまない」
「疲れてんだろ。顔色悪いぜ」
「さすがにね。あの異空間は、少しこたえたかな」
へぇ、と村雨はわずかに首を傾げた。
「珍しいな。弱音か?」
僕は笑った、つもりだった。顔がこわばり、上手くいかない。
陰の器が黄龍を得て造り上げた、異空間。そこは、世界そのものが暴走する陰の器の意思で出来ていた。常人の精神なら、足を踏み入れただけで拉げてしまうだろう。
渦を巻く圧倒的な力。神々しいまでの強い意思。黄龍。
タツマを、陽の器を助けるべく空間を渡ったにも関わらず、僕の意識は、ともすれば陰の器に傾いた。
僕の身に宿る陰中の陰、老陰玄武が主人である黄龍に、陰の器に惹かれるのだ。
その引力に逆らい、平伏しそうになる我が身に抗い刃をふるうのは、容易ではなかった。
異空間が崩壊した今も、あの圧倒的な力と意思が僕を支配しようと渦巻いている、そんな気がしてならない。
「おい、如月」
ぱし、と頬を平打たれた。
「……は?」
突然の痛みに、一瞬呆けた僕の頬を、村雨はさらにぴたぴたと叩いた。
「お、返事したな。目ェ開けたまま寝てるんじゃねェかと思ったぜ」
そんなわけがないだろう。抗議をしようと思ったところで、もう一度頬を打たれた。
今度は打たれた勢いで、のけぞるほど強く。
「………ッ!何をする!」
「悪いな。おい、御門。戻ったぜ」
――――― 戻った?
背後に向かって問いかける村雨の顔が、先程とは違う位置にあることに気がついて、僕は目を瞬かせた。
肩を抱く村雨の手。村雨の膝に背を預け、僕は半ば横たわるように座っていた。
村雨の呼びかけに応えて、御門君が現れた。難しい顔で僕を見下ろす。
「こちらも、ずいぶん影響を受けているようですね」
「……影響?」
「わかってねェな」
村雨が、眉をよせて息をついた。
「若旦那、アンタ俺がはたくまで五分ばかし、目ェ開けたまま意識が飛んでたんだぜ。それも一度返事をしたと思ったら、また、だ」
「そんなはずは……」
言いかけた僕を無視して、御門君が続けた。
「原因となる要因は消滅していますから、後は時間の問題でしょう。今はともかく、安静に休養をとることが肝要です」
す、と僕の額に指を伸ばす。指先が複雑な印を描いた。
同時に目の前が暗くなり、僕は眠りに落ちた。
遠くで声がした。
「やっぱり、オレの所為だよな」
「先生が気に病むことでもねェだろう。アンタについて行くって決めたのは、若旦那の方だぜ」
「でも、黄龍が出現した時点で、オレが気づいてしかるべきだったんだ。あの時、醍醐も不調だったし」
「少陰白虎の大将もか」
「今もまだ、あんまり本調子じゃないみたいだ。御門は大丈夫って言ってたけど」
「心配しなさんな。御門が大丈夫ってんなら、大丈夫だ。アイツはそういう事でウソは言わねェ。死ぬしかねェんなら、キッパリそう言ってるさ」
「醍醐はオレ達と一緒だから、いいよ。学校行ってるときは小蒔か京一が見てるし、家にはオレが押し掛けて様子みるからさ。ただ、如月は」
「そうだな。独りきりだ」
「そ、一人暮らしは心配だろ。と、いうワケで。頼むわ、村雨」
「はあ?」
「仲良しなんだろ。一緒に初詣行ってたし」
長い嘆息が聞こえた。
「……仲良しじゃねェよ。まだ」
「まだ、ね」
くく、と喉で笑う声。
ぼんやりと薄く瞼を開けると、襖が目に入った。良く見知った菖蒲の柄。僕の家の客間だった。襖を一枚へだてた向こうは、居間だ。声はそこから聞こえた。
何の話をしているのか。出ていって問いただしたいのに、起きあがることができなかった。上掛けされた布団が、何故かものすごく重い。
どうしてだろうと訝しむうちに、再び声は遠くなり、僕は目を閉じた。
次に目を覚ますと、もう声は聞こえなかった。
襖を開けて居間にでる。そこに居たのは、村雨一人きりだった。
床に広げた新聞から顔を上げ、僕に手を振る。
「よお」
それだけだった。
その日から、村雨は僕の家で暮らすようになった。
どうやら異空間へと渡った時の影響で心身が思わしくない、ということを村雨の口から説明された。村雨は、それを心配したタツマに頼まれてここに居るらしい。
その心遣いはありがたいが、同情は無用だった。多少、目眩がするくらい何でもない。だいたい、勝手に居候を決められてしまうというのも不愉快だ。
そう思った、矢先のことだった。
がくん、と身体が揺れると同時に、背後から強い力で抱きすくめられた。
「うわ、危ねェな。おい」
村雨の声がして、僕は我に返った。店の土間と番台の間の、上がり框。僕の爪先は段を踏み外し、宙に浮いていた。
はきかけていた草履が脱げて、土間に転がる。
「僕は、今………」
「出かけるつもりだったらしいが、しばらくは止めておけよ。どこでどうなるか、わからねェからな」
村雨は、抱えあげた僕をそっと下に降ろした。僕は立っていられず、上がり框に座りこんだ。
「大丈夫か、如月」
「………大丈夫だよ。ありがとう」
全然大丈夫じゃなかった。こんな風に、前触れもなく意識が飛んでしまうなんて。村雨が止めなかったら、僕は一体どうなっていただろう。今はまだいい。土間に転んですり傷をつくる、その程度だ。これが村雨の言うように、外出中のことだったら。あるいは闘いの最中だったら。
考え出すと、怖くなった。
唇を噛み黙りこむ僕に、村雨は何も言わなかった。
そこから先、僕の記憶は飛び飛びに空白がある。頻繁に意識が途切れ、バラバラのフィルムを繋ぎあわせたかのように、前後の脈絡がない。
洗濯をしていたはずが、いつのまにか縁側に座っているなんてことは、それこそ日常茶飯事だった。
そんな時には村雨が、僕の目の前で鼻歌まじりに洗濯の続きをしていたりなんかして、僕はますます狼狽えた。
意識が飛んでしまうのが怖い。他人が側にいることに慣れない。
その上、村雨が中途半端に家事の続きをするものだから、時折、物の置き場所が変わっていて、僕をひどく混乱させた。
置き場所が変わるのは、僕が望んでそうしたからか。
途中で意識を失ってしまったのか。
それとも、村雨が変えたのか。
「そんなに真剣に考えることでもねェと思うぜ、俺は」
どうでもいいだろう、と村雨は言う。
「どうでもよくはない」
僕はかぶりを振る。村雨は、ため息をついて僕の手からリモコンを取り上げた。
リモコンの定位置はテレビ台の下だ。ところが、今は茶箪笥の飾り棚にあったのだ。これがおかしくなくて何がおかしいというのか。
「自分じゃテレビなんか全然見ねェんだから、リモコンが何処にあったって一緒だろ」
事もなげにテレビの電源を入れ、次々とチャンネルを変える。
昼下がりの居間に、空々しく賑やかなワイドショー。村雨は卓袱台に頬杖をついて、のんびりと煙草に火をつけた。ぼんやりと、見るともなく並んで画面を眺め、やがて僕は立ち上がった。
「どうした?」
「帳簿を……」
帳簿つけをしようと、そう考えた。今月はタツマたちに構いつけて、売上はさほどではない。けれど、記帳しておかなければならない諸々の取引や諸掛りは、ずいぶん溜まってきていた。来月は年に一度の確定申告だ。呑気に座っている場合じゃない。
「………………」
「…………おい?」
座っている場合ではないのだ。
「……………………」
帳簿をつけなければ。居間を出て、帳場へ行かなければ、いけないのに。
「如月?」
「……………………なんでもない」
力が抜けて、僕は再び座りこんだ。行こうと思うのに、どうしても足が動かなかった。卓袱台に置いた右手が、意思に反してどうしようもなく震える。それを左手で握りしめて、僕は目を閉じた。
だめだ。
店の帳場までの、ほんのわずかな距離が怖い。その数歩のうちに意識が途切れてしまったらと思うと、いたたまれなくなる。
村雨は、黙って煙草を揉み消した。
そして唐突に手を伸ばし、僕の髪をくしゃくしゃにかき回した。
「なっ、何を……」
「帳簿だな?」
驚いて見上げる僕を尻目に、すたすたと居間を出て行く。やがて戻ってきた村雨の手には、数冊の帳簿があった。
「ほらよ。これでいいだろ」
卓袱台に積みあげた台帳、クレジットの伝票、領収書、仕入れの覚書、電気代の請求書、他もろもろ。その頂きに、ぽん、と筆入れと算盤を重ねる。
「あ、すまない……」
僕は目を丸くするしかなかった。
常に整頓してあるとはいえ、よく必要なものがわかったものだ。
束ねた伝票をほどき、転記をしようと台帳を広げた僕は、そこで手を止めた。
大きな声では言えないが、僕の店には裏帳簿がある。
日本の法では、古物の売買を生業とするものは取引を台帳に記載し、要請があれば警察に開示しなければならない。盗品の発見や犯罪の防止を目的とした法だが、冗談でなく、僕の店は出自の怪しいものばかり仕入れているのだ。とてもじゃないが、官権などには見せられない。
「村雨……」
「何だ?」
その裏帳簿が、あった。僕の目の前に。
「これを何処から出してきた」
「ああ?必要なんだろ、それも」
必要なのは間違いない。表と裏できっちり帳尻を突き合わせておかないと、後でボロが出る。
しかし表の帳簿類とは別の場所に隠してある裏帳簿を、何だって村雨が知っているのだろう。
「確かにそうだが、今聞きたいのはそうじゃない。そうじゃなくって……」
そこで、はた、と僕は気がついた。
タツマが村雨を、わざわざ御門君から借りうけた理由に。
「…………は、何だ…」
そうか、と思うと気が抜けた。
肩から、さざ波のように温かな安堵が広がって、僕は卓に突っ伏した。
「何だよ?何かマズかったか?」
「いや、何でもない。大丈夫」
少々腑に落ちない顔をした村雨は、肩をすくめ、再びテレビのチャンネルを回した。
リモコンを掴む、その仕草。
件の茶箪笥は、村雨の座った位置から絶好のポジションにある。
つまりはそこが、リモコンの新しい定位置なのだ。
ただ、それだけの事だったのだ。
馬鹿馬鹿しくなって、思わず笑ってしまった。
優秀な護衛は、護るべき対象のプロファイルから周囲の環境、物の配置まで全てを熟知した上で、予断を排し、ただ護るのだという。
一切を知った上で側にいて、発生する事態にのみ即応する。
僕は、この身を委ねるだけでいい。
ひとしきり笑う僕に、村雨は何なんだと頬を掻いた。
「村雨。後で買い物に出かけたいんだ。つきあう気はないか?」
ちらりと値踏むように僕を見て、村雨は眉を上げた。
「いいぜ。荷物持ちにお供しましょう」
「夕飯、何か食べたいものはあるかい?」
そういえば、この男の好き嫌いもまだ知らなかった。
「そうだな…」
思案を始めた村雨を横目に、僕は台帳を広げた。算盤を弾く。パチリ、と爪弾くたび、小気味よいリズムが僕の中に戻ってきた。
この伝票が片づいたら洗濯ものを取り込んで、そうだ、仕入れっぱなしで整理をしてない商品の値付けもしてしまわなくては。
ささいな空白に、つまづいてばかりもいられない。
日常は、続くのだ。この男と共に。