出会い頭の右ストレート
突然、曲がり角から腕が現れた。
す、と音もなく白い残像がのびて。
見事に俺の顎をとらえ、衝撃が脳天を揺さぶった。
嫌になるほど、強烈な出会いだった。
もっとマシな出会い方はなかったのかと、今でもまだ悔やんでいる。
冷たい感触に目を開くと、俺は床に大の字になっていた。
顎が痛ェ。
指で触ると、濡れたハンカチに当たった。
地味な渋茶の男物。軽く絞っただけの応急手当にしては、いやに冷たい。
そのハンカチをはがすと、顎から頬にかけてが酷く腫れあがっていた。ジンジンと熱く疼くが、折れてはねェようだ。
うめいて身を起こすと、低い声がした。
「ああ、気がついたのか」
そこに居たのは男だった。学生か、紺とグレーのブレザーに臙脂のタイ。細身で肌が白く、髪は今どき珍しい漆黒だった。声も物腰もひっそりと穏やかだが、見た目に騙されるのは禁物だろう。
その制服の、袖に見覚えがある。俺を殴ったのは、たぶんコイツだ。
「お前……」
「何か?」
何か?じゃねェ。
「そいつを返せ」
男の手に花札があった。俺の越後呪歌。持ち主を破滅に導く四十九枚の札。
「君はこの花札が、どういうものか知っているのかい?」
男は手甲をはめた右手で、鬼札を軽く弄んだ。
「こんな禍々しい品を身につけていると、いつか死ぬぞ」
死ぬのはそっちだ。並の人間が素で触れれば、発狂しかねねェシロモノだぞ。そいつは。
「よけいな世話だぜ」
その手から札を引ったくる。男は横目で俺を見た。
「…僕には関係のない事だから、好きにするといい。ただし、そんな禍つ物を連れてこの旧校舎をうろつくのは止めてもらおうか。紛らわしい」
「…ンだと」
「この手甲を試している時でなかったら、君の首は今頃、その辺りに転がっているよ」
のっけからマトモな会話じゃなかったが、この台詞は決定打だった。
さらりと殺すと言ってのけた。
どう考えてもコイツは素人じゃねェ。
「だいたい、君は真神の生徒じゃないだろう。つまみ出されないうちに、部外者は帰りたまえ」
おまけにムカつく程の高飛車だ。
「おいおい、その制服、お前だって真神の生徒じゃねェだろうが」
「僕はこれが商売だ」
「商売ィ?」
思わず声が裏返った。
男は肩をすくめて、手甲の紐を解いた。それを、やたらに大きなナップザックに押しこむ。
薬瓶、リボン、シューズ、琵琶、その他。雑多な荷物の中に、異様な物がちらりと見えた。
都指定のゴミ袋に、血色の悪い右手が五本。
肘から先しかないそれは、明らかに死体から切り取ってきたものだ。
「……どうするんだよ、その手」
商売ってのは、一体何の商売だ。聞くのが恐ろしい。
男はあっさりと答えた。
「塩漬けにする」
浅漬け糠漬けカラシ漬け。脳裏に浮かんだ単語の羅列に、俺は軽いパニックを起こしそうだった。
「……食うのか…?」
「もちろん」
「…………」
緋勇タツマが、一人で旧校舎へは行くなと禁じた意味がわかった。たかだか地下に降ること十数階、立派な人外魔境にたどりついちまった。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「ああ、いや」
間近にすると、男はかなり整った顔立ちをしていた。虹彩がわからねェほど黒い瞳。表情に乏しい薄い唇。人形のような、という形容詞がしっくり嵌る。
コイツ、実は人間じゃねェとか言わないだろうな。
人外疑惑のその男は、ナップザックから巾着袋とペットボトルを取り出した。
「飲む気があるなら、飲んだほうがいい。折れてはいないはずだけど」
そう言って、俺の手のひらに丸薬を一粒のせた。ペットボトルは市販のミネラルウォーターだった。
……飲めと言われて素直に飲めるか?この状況で。
口を引き結んだ俺に、男は一瞥をくれて踵を返した。
「じゃあ、これで。死なないうちに地上に戻るんだね。君の右手じゃ、売り物になりそうもない」
ありがたくない捨てセリフと共に立ち去るその背を、俺は呆然と見送った。
これが赤帝火龍と黒帝水龍の今生での出逢いだった。
などと言えば聞こえはいいが、この顛末を後に話した薫には、五分連続笑われた。
あの御門ですら、立ち聞きを隠しきれずに吹きだしちまったんだから、まあ、出逢いとしては最悪の部類だろう。
その数日後、俺は奴と地上で再会した。