オルガネラ
オルガネラ。
人体を構成する細胞。その内にあって、生命を維持するエネルギーを産み出すもの。
目で視ることはできなくても、確かにそれはこの身体に存在するのだ。
「無様だな」
地に這いつくばる僕を見下ろし、男は言った。
広大な地下室。銀の燐光を放つ床と壁は、時間の経過を曖昧にする。
男との距離は、わずか十メートルたらず。致命的な、距離だ。
背筋が凍る。
「……何故だ?」
呆れたと言うには、温度の低すぎる声音。自ら発した問いを遮って、鋭く矢が放たれる。
それは紙一重で僕の頬をかすめ、銀の床に吸収された。
「お前には才能が無い。それは、わかっているはずだ」
「…………………」
呼吸が乾上がる。夢中で転がり、立ち上がると同時に身を翻して、逃げた。
射手の戦いは、弓射と移動が基本だ。矢の軌道は読まれやすい。即座に動かなければ、反撃を受けてしまう。
複雑な高低と細い通路で構成される迷宮を走り抜け、有利なポイントを目指した。
だが男の足も速い。
来るな。
来るな来るな来るな、来ないでくれ。
みるみる迫る圧倒的な気配に、必死で脚を動かした。追いつめられる焦燥が、激しい動悸となって身体を蝕む。
苦しい、
非道い、なのに、どうし、て。
無意味な叫びが思考を埋め尽くす。白く。
白く。
悲痛な、ほど切迫した、容赦のない白、白、白。
遮蔽物が途切れた一瞬を突いて、無数の矢が飛来する。
「………ッ!クソ!」
急な方向転換で、足が横すべった。振り向きざま、右手に霊力を集中する。けれど不慣れな銀十字は、そう簡単には弓を成さなかった。
「王手」
背後で静かな一言。チリチリとうなじに触れる、嫌な感覚に後頭部を押さえつけられた。膨大な霊子を高濃度に圧縮した、凶器。
「これで何度目だ。霊子兵装の顕現に手まどる者など、何の戦力にもならん」
僕は、ゆっくりと構えを解いた。手首が痺れるように重い。膝から力が抜けて、へたりこみそうになる。
「……アンタに言われるまでもない」
「ならば何故、闘う?」
淡々と繰り返される残酷な問い。
失われた力を望んだのは、僕。僕に新たな力を授けたのは、この男だ。
だから、今さらの問いが示すのは。
僕の存在が、男にとって気まぐれ以外の何ものでもないことを意味している。
「僕が何のために闘うかなんて、アンタに解るわけがないだろう」
感情を殺した口調も拒絶の態度も、この男には一筋の傷も与えられない。
「下らんな。人に言えないほど稚拙な理由ならば、犬死にするだけだ」
「稚拙、ね」
流れる汗が目に染みて、涙がにじんだ。
「例えば、滅却師の誇り?人としての情?それとも正義?そんなもの、とうの昔にアンタがその足で踏みにじって砕いたじゃないか」
どうしてだろう。こんなに身体は疲労しているのに。息が上がって苦しいのに。
この男と話す時はいつも、全身の血が冷たくなる。心が死んでしまう。
「教えてやろうか?僕が闘う理由は」
どうしようもなく唇が歪んだ。僕は今、微笑んでいるのだろうか。
「アンタには理解できないが故に、踏むことすら出来ないものだ」
「……フン、わかったような口をきく」
心が死ぬのに。
それでも、目の前の男が僕の生命を繋いでいる。
抗えないこの事実を、理解される日がこなくとも。
「じゃ、息子さんお借りしていきますよ」
壁に穿った穴から、ひょい、と男が顔を出した。
胡散臭い和装に派手な帽子。浦原喜助は、常に記憶の中から一歩も歳をとらない姿で現れる。
「……その穴はちゃんと塞いでいくんだろうな」
「もちろん抜かりなく。それより息子さんの心配でもしたらどうです?」
「あれは私を父とは呼ばない。何処で死のうと、私の関知することではないな」
長く息を吐き捨てる。強い煙草が喉を灼いた。
「おやまぁ、ヒドいお人だ。いいんですか?そんなコト言ってると息子さん本当に死んじゃいますよ」
「……何が言いたい」
視線の先で、死神は肩をすくめてみせた。
「誰もが何がしかの犠牲を払って生きているもんです。多かれ少なかれ」
おどけたふりで神経を逆撫でる。相変わらず、この死神の態度は不愉快だった。何年経っても馴れることはない。
「愛してくれる人、安心できる居場所、平穏な人生、支えとなる友人。ありふれた幸せの、多くを失い、拒んで捨てて、それでも滅却師であることにしがみついている。……それが何故なのか、本当におわかりにならない?」
揶揄するような、帽子の下の視線に苛立ちがつのる。
「……だから何が言いたい、貴様は」
唇の端をニヤリと上げて、浦原が笑う。
「敬意を表しているんですよ。あなたがた人間の、営々と続く血の重みってヤツに」
「……下らんな」
「そうですか?んじゃ、前言撤回しましょう。アナタが生きているかぎり、息子さんは帰ってきますよ。多分、ちゃんと、この町に」
だからせいぜい頑張ることにしましょうか、と浦原は背を向けた。
「ちょいと支度を済ませてきますよ。それじゃ、後でまた」
短くなった煙草を靴底でにじり、地下室に戻る。
霊化銀の部屋は無人だった。
致し方のないことだ。契約に綻びを縫いこんだのは、私自身なのだから。
中央の壇上に、ぽつりと白い紙片が伏せられていた。
書き置きだろう。拾い上げようと手をのばし、私は躊躇った。
純白の縁を汚す、わずか数ミリの丸い血痕。
理解できぬが故に、留めることができなかった存在の証。
私は、それに触れることを諦めた。
緘黙し、断絶して、それでもこの血が私の生命を支えている。
望まれぬこの事実を、理解される日がこなくとも。