オハイオ殺人事件
例によってその依頼は、犯人を捜して欲しいというものだった。
ソファの上で生意気なアフガンハウンドが鼻を鳴らした。
「いったい何の犯人なのサ?角の本屋でしおりをくすねた犯人かい?それとも道路にマンホールを掘ったヤツを探すのかい?」
このアフガンハウンドの名前はエリオット・ネス。
しかしこの名がかの有名な『買収できない男』アンタッチャブル・ネスにちなんだものならば、この犬はその栄誉に泥をぬっている。
「エリオット、少し黙りなさい」
私はたしなめて、依頼人に向きなおった。
依頼人はピンクの布張りの写真立てだった。
写真立ては私に言った。
「このオハイオで殺人事件が起きたのです、探偵さま」
It happened in Ohio.
(そう、それは起きてしまった)
The muder case of Ohio.
(それはオハイオで起きた殺人事件)
オハイオという街が何処にあるのかと尋ねられても、私には答えることができない。
合衆国のオハイオかといえばそうではないのだが、合衆国の一部であることには間違いなく、それにしては………………おかしな住民が多すぎる。
「ナンだ、また下半身が透けてきてるゾ」
エリオットが私を見上げて言った。
「そんな中途半端な足でよく歩けるヨな。ヘンなヤツ」
「珈琲に目がない変わった犬に、そう言われたくはないな」
調査に出かけるのを渋ったアフガンハウンドは、私が帰りにカフェ『フィヴラーリ』に寄ると言った途端、あっさりと買収された。
やはり、名誉ある名前に泥をぬっている。
私は上着のポケットからピンクの写真立てを取りだした。
写真立てが飾っているのは、古ぼけたセピア色の写真。
可憐な少女がこちらに向かって微笑んでいる。
彼女の名はエリザベス・スタンリー・カーン。
私は彼女を殺した犯人を突き止めなくてはならないのだ。
Everybody knows Mr.Khan killed his wife.
(そう、皆が知っている)
Nobody tried to ask him for the blooded knife.
(それでも殺したのは彼じゃない)
とは言え、実際に彼女を殺した犯人はすでに警察の留置所に捕らえられていた。
彼女の胸をつらぬいたのは小さな果物ナイフで、その柄は震える二本の両手につながっており、その両手の持ち主はダグラス・カーンという中年の男だった。
ルミノウム反応だとかアリバイ崩しなどというものの出る幕もない。
彼は明確な殺意をもって、妻エリザベスの柔らかな左胸を衆人環視のパーティの最中に刺したのだった。
「どうするのサ、これから」
エリオットが退屈そうにあくびをしながら聞いた。
私はヒステリックな見出しでこの事件を報じた新聞を、公園のくずかごに投げ入れた。
「カーン氏に会いに行こう」
「ポリスドールのところへ行くんだナ」
エリオットはうれしそうにしっぽを振った。
今日のエリオットは妙にやる気だ。
「はやく解決してコーヒーを飲みにいこうヨ」
アフガンハウンドはうっとりと目を潤ませた。
What is right? What is worng?
(何が正しいのか?何が間違いなのか?)
Can you understand it?
(私にはわからない)
Prisoner dreaming past days.
(罪人は牢の中で夢をみる。過ぎ去った幸福な日々を)
警察署の玄関には、色褪せたセルロイドの警官人形がいつも直立不動の姿勢で立っている。
「やあ、こんにちはポリスドール」
手を挙げて挨拶すると、警官人形は左眉をぴくりとはね上げて応えた。
「何の用だ、探偵」
「ダグラス・カーン氏に会いたいんだけれど」
「ヤツは殺人犯だ。関係のない人間に会わせるわけにはいかん」
つっぱねた警官人形に、エリオットがもったいぶった仕草で後足をあげた。
「おい、探偵。この犬は何をしようとしているんだ」
私は笑いたいのをこらえて言った。
「マーキングじゃないかな」
「何だと。おいこら、やめろ」
「カーン氏の居場所は?」
警官人形は顔をしかめた。セルロイドの皮膚がぺこりと音をたててへこむ。
「会ってまともな話はできんぞ。ヤツは幸福なんだ」
「幸福?」
私は首をかしげた。
「行けばわかる。左から二番目の牢だ、早くこの犬を連れていけ」
「ありがとう、ポリスドール。エリオット、行こう」
Once he got a girl.
(ある時彼は美しい少女に出会った)
Small, but sweet sweet home.
(ささやかな、けれども幸福な家庭)
Fortunate in Ohio.
(それはオハイオの幸福)
確かに警官人形の言うとおりだった。
牢のなかの罪人は、遠い虚空を見つめて微笑んでいた。
灰色の牢獄をほんのりバラ色に染めるような、やさしい笑い方だった。
この場にはふさわしくない笑い方、他を拒む異質な笑みだ。
「ダグラス・カーン。なぜ妻を刺したのですか?」
私の問いかけに、男は反応しなかった。
それどころか私たちの姿さえ、目に入っていないようだ。
彼はただひたすらに幸福にひたっているのだった。
なぜ?と私は思う。
なぜ彼は今、幸福なのだろう。
私はピンクの布張りの写真立てを取りだした。
若き日のエリザベス・スタンリー。
周囲の羨望のなかダグラス・カーンと結婚し、二人の子供をもうけた。仕事も順調、年をとり美しさを損ねてもなお可憐な妻と子供たちに囲まれた暖かな家庭。
ささやかながら、一点の曇りもない幸福。
それをナイフで打ち砕いたのは彼自身のはずだ。
それなのになぜ?
わたしのもの思いは、エリオットの警告に破られた。
「あぶナイ!」
牢の格子の隙間から、囚人の手が突きだされた。
私の身体を素通りして宙を掻いたカーン氏の手は、ピンクの写真立てをつかんでいた。
「エリー………!ああ、あれはやっぱり夢だったんだ!」
カーン氏のしゃがれた囁きに、私は全身に冷水を浴びたような気がしていた。
何が真実?何が虚偽?
いったい誰に断定出来る?
―――――彼の妻は永遠に美しさを留めるのだ。
But the time is passing.
(だけど時は容赦なく過ぎてゆく)
He could not endure it.
(カーン氏にはそれが堪えられなかった)
It's the murder case of Ohio.
(それはオハイオで起きた殺人事件)
私は幸福な囚人が抱きしめているピンクの写真立てに向かって言った。
「時だよ。犯人は時の流れなんだ」
私の声は、自分でもおかしなくらい震えていた。
「時が彼女から美しさを奪ってゆくのが、彼には堪えられない悪夢だったんだ」
ピンクの写真立ては、小さな声で言った。
「…………そうですか」
私はなぜだか泣きたかった。
身体がかげろうのように揺らいでいるのがわかる。
「天に召されるのはまだ早いヨ、幽霊探偵。オハイオには探偵が必要なんだから」
エリオットが私にすりよった。
湿ったその鼻先が奇妙に温かくて、私は不思議と心が落ち着いた。
「行こうヨ、『フェヴラーリ』に」
「………そうだね」
私たちは牢に背を向けて歩きだした。
丘の上のカフェ『フィヴラーリ』の珈琲の香りと一粒の涙で、この事件の全てをセピア色の思い出に変えてしまうことにしよう。
「ありがとう」
ピンクの写真立ての言葉を、私はその背で聞いた。
What is true? What is false?
Can you conclued it?
The wife of the prisoner keeps her beauty for eternity..........