プラスチック爆弾
「アタシ、もう行くから」
開口一番、彼女は言った。
「コレ、もう使わない石鹸。あげるね」
彼女から手渡された紙箱には、C版とM版が微妙にずれた紫色の蔓草模様が刷られていた。印字はムイーラ・ハロシァニキ。まだ少し、甘い石鹸の残り香がある。
故郷の森を思わせる、春の野の花によく似た匂い。
「行くのかい?」
僕のたずねに、
「うん」
彼女は短く答えた。
「どうしても?」
「どうしても。行かなきゃ、そうしないと私の妹や、弟や、あなたの小父さんや従姉妹たちが殺されるのよ」
それを黙って見ているなんて、出来はしないわ。そう、決然と眉を上げて僕を振り向いた彼女には、左腕が無かった。
僕は彼女の唐突な決行の理由を知った。
もう、これでは狩りはできまい。
「だから、アタシの番なの。ね?」
彼女は笑って、僕に綱をひと巻き投げてよこした。目がチカチカする派手な黄色。発破用の導火線。その他、時計や螺子や、何のために必要なのかも僕にはよくわからない、もろもろの部材。
石鹸箱は重く、振ればゴトゴトと音がした。中身は半分、使いさしだ。
「これじゃ顔は洗えないよ」
「ダメよ、洗面所なんかに置いちゃ。ちょっと湿気ったくらいじゃ問題ないけど、この一箱のために、どれだけ大金を積んだと思うの」
僕は肩をすくめた。今日びの紙幣価値ときたら雑巾以下だ。文字通り、紙レンガの家が建つほど積んだのだろう。
彼女は、僕の髪をくしゃりと撫でた。
「じゃあね、行くわ。プラシシャイチェ」
「ジェンナ!フスィヴォ、ハローシィヴォ!」
最後に故郷の言葉で別れを告げ、ジェンナは出ていった。別れの言葉は数あれど、彼女の口からまたね(プカー)ではない永訣の言葉を聞いたのは初めてだった。
大声で名を呼んだ僕に彼女は一度だけ、優雅に長い尾を振って、応えた。
それから三日後。
僕は市内の大通りを、歩いていた。こんなご時世だというのに人通りは多く、道端のそこかしこに、統制の目をのがれて物々交換の露店が並ぶ。
僕は灰色の毛皮の外套をずんぐり着こみ、かぶると頭が倍の大きさになってしまう筒型の帽子をかぶっていた。
冬が長いこの国では、まるきり熊のようなこの格好が標準で、それが僕には好都合だった。かさばる両翼は外套の下へ、ピンと立つ角は帽子の中へ、押し込めてしまえばいい。
寒さに背中を丸めて歩く僕の後ろから、幌付き自動車が一台、追い抜いていった。
幌のなかには、坊主に頭を剃り上げた兵隊と荷箱がぎっしり。
一台、二台、三台。
次々と連なり、居丈高に走り抜けてゆく。
僕はやるせなく、白い息を吐いた。
外套の懐には、彼女の石鹸箱。半分以上に減った中身は、彼女にこれを託した先達たちが、後を継ぐ者に受け渡すたびに削り、彼女が僕に渡す前に削り、そうして僕のもとに託されたものだった。
その先達たちの中には、成功した者もあれば、失敗した者もある。
けれど、誰も帰ってはこなかった。
ジェンナも、また。
三日前の晩、森へと向かう軍用車が爆発事故にあった。
その軍用車は、戦地へ届ける弾薬をたくさん積んでいたために、すさまじい爆発炎上を起こしたのだという。運転手も、兵隊も、道端に居たという女性も、皆、粉微塵になった、と。
彼女が今、僕の目にした幌付き自動車を見たなら、何と言っただろうか。
あの荷箱に詰められたC4という爆薬が、この石鹸箱の中身と同じだと知ったら、それが国境の外から続々と送られてくるのだと知ったら。
彼女は、道連れの相手を変えただろうか。
僕は、帽子を目深にかぶりなおした。
僕は丸坊主に髪を剃ることはできない。いやがおうにも、人間ではないことがわかってしまう。
僕らは人間のように、皆で同じ格好をすることはなかった。翼ある者もいれば、尾のある者、鱗やヒレや角や爪や瞳や毛皮、誰ひとりとして、同じ身体の者はいないから。
ただの習性から、同じ形ばかりで集いたがるこの国の人間と、そうではないことで結束しているだけの僕らと。
本当に戦争をしたいと思っているのは、この国の誰だというのだろう。
人を殺める道具はことごとく、この国の外からやってくるのに。
品定めのふりをしつつ、露店のひとつに身をかがめる。
「小母さん、実は風呂の蛇口が壊れてね。ちょうどいいのは無いかい」
露店の主は色褪せた赤い肩掛けを、すっぽり頭から巻きつけていた。草編みの敷布に広げた鉄くずを、せわしなく並べ替えて顔すら上げない。
「右回しと左回しがあるよ」
「最短は?」
老婆は、そこで初めて目線を上げた。値踏むまなざしで僕を見る。
「右回し。近頃、ちと金気臭いし、おすすめはしないがね」
「かまわないよ」
僕は懐から、本物の石鹸を取り出した。一度も使われていない、新品。必要なのは箱のほうで、詰め替える前の中身じゃない。
「ハロシァニキ印、美肌石鹸。悪くないと思うけど」
老婆は真贋を確かめるように、鼻をうごめかせた。
「……悪かぁないね。まったく悪かぁない故郷の花の匂いだよ。……よござんす」
赤い肩掛けのしわの中から、よれよれの紙切れを取り出す。
「ツェ埠頭三等客船、今夜9時。夜のうちに国境を越える、いっとう足の速い船さね」
僕は差し出された切符と引き替えに、石鹸を渡した。
「フスィヴォ、ハローシィヴォ(幸運を)」
老婆は、ささやくように言った。
僕は笑って、ささやき返した。
「プラシシャイチェ(さようなら)」
次は、僕の番だ。