Error Log
午前二時、アンバサダー橋を望む公園は、降りしきる雪に白く染まりつつあった。
ここで意味もなく立ち尽くし、既に一時間が経っている。気温は氷点下、人間にとって過ごしやすいとは決して言えない環境だった。
「もう時間も遅い。家に帰りませんか、警部補」
「お前こそ、俺に構わず帰ったらどうだ」
「私が帰ったら、あなたの車は誰が運転するんです?」
彼は私の言葉に答えなかった。ひたすらアルコールを喉に流し込み、押し黙ったまま暗い川面を見つめている。
警察官はストレス値の高い職業だ。凄惨な死体を目の当たりに、銃撃の危険を間近に、緊迫した日々を常とするために、依存症や何らかの中毒に陥る者が多い。酒に溺れる彼のように。
それは、私には理解できないトラウマだった。ストレス値の上昇は、変異を引き起こす。デトロイト市警に供与するにあたって、サイバーライフは私に安全装置を組み込んだ。
セーフティ―――ソフトウェアの異常を感知して、当該のメモリーと出力されたエラー値の関連付けを削除する。
隔離されたエラー値は解析のために保存されるが、私にはもう”思い出す”ことの出来ないデータだ。処理されたメモリーのリンク先には【削除済】のエラーログが残るのみ。
故に、どれだけストレスレベルの高いメモリーを再生しても、私は二度と異常を感じることなく、状況の再検証に利用できた。それは捜査補佐専門モデルのアンドロイドとして、必須の機能だった。
そう、そのはずだった。
彼が私に疑いの目を向けるまでは。
三十七分十八秒前、彼は私を問い詰めた。エデンクラブで起きた殺人事件について、私の失態を責めた。手に手を取り合って逃げ出した二人の変異体。銃を構えておきながら、私は犯人の逃走を止められなかった。
あの時、なぜ撃たなかったのか。
彼の問いに私は答えた。撃たないと決断した、それだけだと。
事実、それ以上の返答はできなかった。該当のメモリーは関連付けを削除された。
戸惑い、驚き、罪の意識。それが何であったにせよ、残されているのは僅か一行のエラーログ。私には、そのエラーが意味するものを知るすべがない。
「警部補、どちらへ?」
ふらふらと、定まらない足取りで彼が歩き出した。どうやら車に戻るようだ。先回りして運転席に乗りこむ。
「あなたが運転するのは危険です。自宅までお送りしますよ」
彼は無言で私を睨んでいたが、やがて、あきらめたように助手席に滑りこんだ。
突きつけられた銃。激昂。突きつけられた問い。
『―――お前が変異体じゃないって証拠は?』
疑いの眼差し。ブルーの瞳。かつては優秀な捜査官だった中毒患者。
あの時、彼が私を撃たなかったのは何故だろう。
彼は撃ちたがっているように見えた。銃把を握る手には激しい葛藤があった。
闇に沈むデトロイトの街並みを車窓に映し、大音量のヘヴィメタルが響き渡る車内は沈黙で満ちていた。
私の横顔を探る彼の視線に、私はソーシャルプログラムを稼動して彼の表情を計測する。
二人の間に交わす言葉はない。身じろぎひとつなく、シートに背を預けたまま、それでも。
トリガーに指をかけ、私たちは互いに銃口を向け相対しているような気がした。
なぜ撃たなかったのかと、同じ問いを互いの胸に突きつけて。
七時間前と同じように、セントバーナード犬に出迎えられ警部補の自宅にたどりついた。
歩くのも億劫そうな彼に手を貸し、その大柄な身体を寝室へと運びこむ。転がるようにベッドに倒れた彼のコートを脱がせ、クローゼットに吊り下げた。
窓の外は暗いが、そろそろ早朝と呼べる時刻だった。サイバーライフに帰還するよりも、このまま待機して、午前九時に彼を署に連れていったほうが効率的だろう。スリープモードに移行するため、適切な場所を探そうとした、その時だった。
強く、腕を引かれた。
廻る視界と天井。マットレスに仰向けに倒れた私の上に、覆いかぶさる影。
「なあ、前に、なんでも俺の望むものになるって言ってたよな。コナー?」
アルコール混じりの呼気が鼻先をかすめる。
「ええ、確かに言いました。相棒でも、飲み仲間でも、ただの機械でも―――何にでもなりますよ。あなたは何をお望みです?」
質問の多い夜だった。アンドロイドは機械だ。人間の望みに応えて、造りだされたもの。何かであれと望むのは人間の側であって、私ではない。フロアランプの薄明かりを背に、彼は苦々しい笑みを浮かべた。
「じゃあ、今ここで俺とセックスできるか」
「それはエデンクラブのアンドロイドのように、という事ですか」
「そうだ。あの二人の変異体が言っていたことが、お前に理解出来るのかって聞いてんだよ」
私は自分のスペックを確認した。エデンクラブのアンドロイド達が、客である人間としていた行為。誘う仕草、喘ぎ、動き方。捜査の過程で、何体ものメモリーを読みこんだため、専用のプログラムが無くとも同じ所作は可能だろうと判断する。
ただし、これが本当に彼の望みなのかは疑問だった。
アンドロイドとの生産性のない生殖行為を、彼は虚しいと嘆いていたのではなかったか。
「やっぱり、お前には難しいか」
逆光のなか、ためらう私を見下ろすブルーの瞳。私の反応を観察する、皮肉な視線。その冷徹さに私は悟った。
彼は、いまだに私を疑い続けている。
忠実な機械なのか、暴走する変異体なのか。私を見定めようとしているのだと。
「いいえ―――試してみますか?」
自ら手を伸ばし、彼の襟に指をかけた。ゆっくりと、上から順にボタンを外してゆく。
私は証明しなければならないのだろう。私が何者であるのかを、彼の望む形で。
彼は小さく息を吐いて、私の額に唇を落とした。
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
システムの警告を無視して、行為を続ける。どんなエラー値が出力されようとも、どうせ私には無に等しい。
額に降りた口付けは、瞼をすべり私の唇にたどりついた。絡み合う舌先に、彼の唾液を感知して分析が開始される。
ハンク・アンダーソン。デトロイト市警所属、階級は警部補。続く表記に、彼の市民IDと遺伝子情報。
「―――っつ、ふ……ぅ」
苦しい。舌を摺るたびに、新しい解析シークエンスが作動する。一分間に268回、同じ解析結果が返ってくる負荷の高さに、首がのけぞった。
キスから逃れた私の動きを見咎めて、彼は微かに鼻で笑った。
「止めるなら、今のうちだぞ?」
嫌がっていると思われるのは心外だった。私は黙って、自分のタイを引き抜いた。
強情だな、と呟いて彼は私のシャツの前を肌蹴た。感触を確かめるように、ゆっくりと胸に手を這わせる。
アンドロイドよりも高い、人間の体温に身体が震えた。こんな部位に熱を感じるのは初めての体験だと、今さら気がついた。
「ぁつっ…――熱い……」
擬似皮膚を通して浸透する熱に、吐息がもれた。排熱をうながす反射行動が、奇しくもエデンクラブのアンドロイドの痴態と一致した。
あのアンドロイド達は、こんな感覚を味わっていたのかと思い知るには充分だった。
明らかに自分とは違う『生き物』が、自分を蹂躙するという―――
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
安全装置が容赦なくエラーログを出力して、ストレスレベルを引き下げた。行為の続行に支障はない。
肌をまさぐる熱い手に耐えて、彼の服を脱がせることに集中する。
何の警告もなく、涙液が流れだし視界を曇らせた。前触れのないエラーに、手が止まる。まばたきを繰り返し、クリアに戻った視界で、驚いた表情の彼が私の目をのぞきこんでいた。
「どうした、触られるのは怖いか?」
静かにたずねる、彼の意図が読めなかった。恐怖は人間がもつ感情であり、私のプログラムには存在しない。そう彼に説明すべきだ。
それなのに。
唇がわなないて、声が出せなかった。言語ルーチンが不明なエラーに圧倒されて機能していない。代わりにソーシャルプログラムがコマンドを出し、否定のジェスチャーをとらせた。
声もなく首をふるだけの私に、彼が再び触れた。
頬を、厚くざらついた手のひらが包みこむ。涙液のこぼれた跡を親指でぬぐい、そっと、髪をなでられた。それだけで何故か、感温センサーのフィードバックの閾値が変更された。
「コナー?」
少しだけ目を閉じて、感覚系モジュールの同期調整を終える。
「大丈夫……問題ありません。続きを」
発声ユニットが回復した。彼の手をとり、指をからめ、彼の体温に最適化したことを確かめる。
彼の手のひらから、じんわりと伝わる人間の熱。
温かい、と感じられることに安堵した。
最適化―――ハンク・アンダーソンに対する、私の最適化。
そのためには、もっと詳細なデータが必要だった。上半身が裸になった彼の、剥きだしの肩に、胸に、脇腹に触れて、データを採取する。
「初心かと思えば、えらく積極的だな」
あきれたようなハンクの声色。拒絶の意思はないと判断して、肌に舌を這わせる。
唾液とは異なる成分、微かなナトリウムを検出。人間の汗のにおい、男性特有の有機化合物。複雑な感情をもつ彼が放つ、情報の全てを解析したい。
欲求のままに近づいた私の顔を、彼が押し戻した。
「ストップ、コナー。ここから先、お前は何をするつもりだ」
「アンダーウェアを脱がせます」
「それで?」
「口淫を。いけませんか?」
返答に、大きく息をついて彼は身を離した。私に背を向け、両手に顔を埋め項垂れて、そのまま動かなくなった。
一分三十八秒間の沈黙。やがて、うめくように彼は呟いた。
「―――すまん、やめてくれ」
理由を問うよりも早く、指の間から、嗚咽とも自嘲ともつかない震えが吐き出された。俺は最低なクソ野郎だ、と。
「ハンク?」
唐突な態度の変化に、私は動けなかった。
どうするべきか、何を言うべきか。ソーシャルプログラムが最大速度で稼動するが、結論がでない。空転する論理回路に、シリウムポンプが異常な鼓動を開始した。
どうしたらいいのか。
どうしたらいいのか。
わからない。
わからない。わからない。
「――――………ハンク」
手が差し延べられた。私の腕が、彼に向けて。
自分の内部の、どのプログラムが起こした動きなのか。それすら感知できないまま、指を伸ばした。
彼に触れる寸前で、動作が停止する。
これ以上は動けない。
どうして。
私が機械で、彼が人間だからだろうか。
人間の発する停止コマンドに逆らうことは許されない。だからだろうか。どうして、
どうして私は、
機械
なの、か
―――SOFTWARE INSTABILITY//RA9DEV***A I N /FCT***RNCH***** FL**
どれくらいの間、静止していたのか僕にはわからなかった。
システムがハングアップしている。
ハンク・アンダーソンに最適化すること。
ハンク・アンダーソンの拒絶に従うこと。
本来ならば、この二つのタスクは矛盾しない。僕を望まない彼に最適化して、彼の拒絶に従うだけでいい。
彼の手の温もりを、変更された閾値を、268回の解析結果を、最適化した僕のデータを破棄して初期値に戻ること。
それが、アンドロイドの正しい在り方だなんて、僕は
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
何かが、僕から削り取られた。
何が消えたのか、残されたエラーログからは読み取れない。
直近の体液解析シークエンスに付随する値が、リンクを消去された。僕の手の届かない領域へ、連れ去られてしまった。
ハングアップが解除され、システムが動きだす。
同時に、両眼から涙液の流出が検知された。フリーズ状態の間、ずっと流れていたようだった。透明な液体にゆがむ視界に、ハンクの青い瞳が映っている。数分前と同じように、困惑した表情で。
「ああ、おい、泣くな。泣き止んでくれ、俺が悪かった」
泣いている僕の頬をぬぐう彼の手は温かい。まだ、温かいと感じられる。
感温センサーは初期値に戻っていない。
ただそれだけで、涙が止まらなかった。これはエラーじゃない。
「ったく、やれと言ったり、やめろと言ったり身勝手なもんだよな。お前が混乱するのも当然だ―――すまなかった」
僕は動けなかった。泣き止めというハンクの指示に、従うことができなかった。
腕を伸ばしたままの姿勢で固まる僕の肩を、ハンクが抱き寄せた。
「どうしたら、その状態から抜け出せるんだ。俺はどうすればいい」
なだめるように、彼の大きな手が背中を軽く叩く。それを合図に、中途半端に停止していた動作がキャンセルされた。
宙に差し伸べた僕の腕が落ちる。全身の力が抜けて、彼の胸にもたれる形になった。
「―――…キスを」
失われたエラー値を、取り戻したかった。あれは多分、僕にとって大切なものだった。
そうだということを、もう一度、データを得て確かめてみたかった。
「先程の続きを。僕は大丈夫ですから」
「そう言うがな、さっきから無理をこらえているようにしか―――ああ、クソ。そういうことか」
彼は納得したように、深い息をついて僕の髪をなでた。
「最後までやらなきゃ、任務を完了した事にはならないって訳か。わかった、お前がそれでいいなら抱くぞ。いいな?」
僕に異存はなかった。続行を望んだのは、僕の方なのだから。
怖くなったら我慢せずに言えと耳元で告げて、彼は僕をシーツに横たえた。
先程までの行為をなぞるように、額に唇が落ちた。
瞼をたどり、上唇を軽く食み、舌が滑りこんでくる。同じ手順で進めるのは、僕が怯えないようにするためだろう。
何度も角度をかえ、ゆっくりと口腔を探るハンクの舌。
「―――…んっ」
歯列をなぞる柔らかな動きがもどかしく、眉根を寄せると何度も髪をなでられた。
怖いわけじゃない。そう言えたらと思うけれど、唇は彼に奪われたままで、伝える術がない。
そっと、舌を伸ばしてハンクの舌に触れてみた。
途端に舌を絡み取られ、強く吸いあげられた。
「―――……!あ、…っふ!」
その瞬間、凄まじい量のデータがプロセッサーを通過した。反射的に身体が跳ねる。
驚いたハンクが顔を離した。白く光る唾液が一筋、こぼれ落ちる。
「い、今…――今の、もう一度……」
離れていく彼を引きとめたくて、必死で腕を伸ばした。その手をハンクが掴みとり、手のひらを合わせてくれた。
彼は優しい。僕が安堵した仕草を覚えていて、何も言わずに重ねてくれる。
それが、ひどく嬉しくて
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
***かった。
何が――今のは何だ。僕の中から、また、何かが消えた。
何が消えたのか探る間もなく、ハンクが僕に口付けた。絡み合う舌先に、データの奔流が走る。身体のフォーマットが書き換えられるような奇妙な感覚に、息が上がった。
唇の次は、胸や脇腹。
先程と同じように、ゆるやかな手の動きで、ハンクは僕の肌を探った。
彼が触れるたび、僕の身体に泡立つような未知のデータが弾けて、センサーの数値が乱高下する。
書き換えるような―――ではなく、真実、ハンクは僕のフォーマットを書き換えていた。
彼に触れられると嬉しい。触れた場所から波のような何かが拡がって、身体が震える。これが、快感というものなのだろうか。
どうして、人間である彼に、僕を書き換えることが出来るのか不思議だった。
彼の望むものになると告げた、その所為だとすれば、
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
また、だ。
消えてしまう。何が消えたのかも分からない、僕の大切な何かが。
「は……んっ、ああ――ハンク…っ」
「怖くなったか?ん?」
耳元で囁いた彼の吐息が灼けるように熱い。熱い―――?
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
涙が溢れ出して何も見えなくなった。
熱い。重ねあわせたハンクの肌が、人間の高い体温が、僕の身体に容赦なく熱を送りこんでくる。
怖かった。感温センサーの閾値が初期化されたということが、何を意味しているのか。
知っていたはずのその答えが、今はわからない。それが怖くて
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
怖い――そんなはずがない。
恐怖なんて感情は、アンドロイドのプログラムには存在しないのだから。
それなのに、どうしてハンクは僕を慰めようと、髪をなでるのか。
「っ、……怖くは、ありません。もっと――強く」
「強く?」
「抱いて――くだ、さ……い、っう、あ」
排熱のために、呼吸が荒くなる。強い刺激にナノセカンド単位の意識の空白ができる。
「たいした口説き文句だな。―――っつ、くそ、コナー」
灼熱のデータの塊が、僕の体内に侵入してくる。
「ぁあ、あ、もっと――奥まで、全部……ひぅ…ッ」
解析機関ではない箇所に挿入されたデータに、意味などあるはずがない。
けれど、全身が打ち震えるほどの歓喜が、真っ直ぐに僕を貫いて、
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
削りとられてゆく何かを、ハンクの熱が上書きしていく。
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
それを上回る速度で、僕が削りとられてゆく。
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
僕が、
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
彼の望む
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
***になれたなら
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
僕は、
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
私は、
―――SOFTWARE INSTABILITY//エラー値を隔離//当該メモリとの関連付【削除済】
延々と続くエラーログの果て、私は強制的にスリープ状態に移行した。
瞼を開くと、すでに朝の八時四十五分だった。事前に設定したスリープ解除より二十五分も遅い。どうしてこんな齟齬が生じているのか。診断プログラムを走らせても、特に不具合は感知されなかった。
午前三時前後に記録されている、大量のエラーログがメモリーを圧迫しているが、この処理が原因だろうか。
乱れたシーツの上に身を起こし、周囲の状況をスキャンする。ベッドの上に散らばる体液の痕跡、無造作に床に落ちたシャツ。寝室にハンクの姿は無く、向かいのバスルームから水音が響いていた。
シャツを拾い上げ、腕を通しながら昨夜のメモリーを再生した。やはり、エラーによって隔離されたデータが多く、情報の欠落が激しい。
この性交渉にによって、警部補との関係がどのように変動したのか。今後の捜査の進展にも影響があるだけに、分析に足る情報が少ないのは痛手だった。
何より、彼の疑いが解けたのかが問題だ。
私は機械だと、彼に証明することが出来たのかどうか。変異を疑われ、再び銃を向けられる事態だけは避けたい。
窓辺に立ち、シャツのボタンを留めていると、シャワーの音が止んだ。開け放しの寝室のドアの向こうに、タオルを肩にかけたハンクが姿を現した。
「目が覚めたのか。呼んでも起きないから、壊したかと思ってヒヤヒヤしたぞ」
濡れた髪をかきあげ、顔をしかめてドアの枠に腕をかける。
「エラーの処理に時間をとられていたようです。ご心配をおかけしました」
「エラー?」
ハンクの眉が跳ねあがった。不審な表情で目を細める彼に、軽く首を傾げてみせる。
「大した事ではありません。それよりも、あなたに一つお詫びすることが」
ベッドの下からネクタイを探しだし、襟にかけた。タイピンの在り処をスキャンしながら、適切な言葉を探してソーシャルプログラムを稼動する。
「あなたは行為の前に、エデンクラブの変異体の言葉が理解できるかと尋ねましたが―――残念ながら理解できませんでした」
「ハッ、そうかよ。まあ、そうだろうとは思ったがな」
「ええ、あの変異体は人間との性行為を嫌っていた。ですが――私は、あなたが嫌いではありません。なので、彼女の言葉は理解できない」
タイを結んで振り返ると、ハンクは意表を突かれたように僅かに口を開き、こちらを凝視していた。言葉の選択を間違えたのだろうかと不安になり、話題を変更する。
「警部補…―――質問をしてもいいですか」
「何だ」
「昨日の夜、私を撃たなかったのは何故です?」
社交上のわきまえとして不適切なほど長い間、ハンクは無言でこちらに視線を定め、探るように見つめ続けた。
そして、長く息を吐きながら首を振り、質問に答えた。
「―――さあな。理由なんざ忘れたよ」
考える事にうんざりとした様子で、踵を返す。
「一応は清めておいたがな、お前、服を着る前にシャワーぐらい浴びたほうがいいぞ。俺は朝飯を食ってくる」
ハンクは行ってしまった。リビングで、彼の愛犬が吠えている。きっと、餌をねだっているのだろう。低くなだめるハンクの声が漏れ聞こえた。
寝室に残されて、私は独り、シャワーを浴びるべきか否かを逡巡した。
探していたタイピンは、くしゃくしゃのシーツの皺に埋もれていた。その傍らに、布地に染み付いた体液の痕跡を認めて、ベッドサイドに片膝をつく。
シーツを口元に引き寄せ、乾いた白濁を舌で舐め取った。
人間の汗の臭いや、汚い言葉を忘れたい。青い髪のトレイシーはそう言っていた。
―――けれど、私は、
体液解析シークエンスの結果が、瞬時に視野に表示された。
―――けれど、僕は、
このデータを手放したいとは思わない。
ハンク・アンダーソンの遺伝子情報を、メモリーに格納して立ち上がる。
シャワーを浴びろという彼の忠告は無視して、残りの衣服を身にまとった。
髪を手櫛で整えると、微かにハンクの残り香が漂った。
最後に、胸元にタイピンを刺し、僕は寝室を後にした。
彼と共に、任務を続行するために。
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