HeavenlyBlue 05:台所のアポカリプス

Caption
まわりくどいハンクと、まわりくどいコナーのプロポーズ話。指輪という単語ではじめてプロポーズだと気がついた。



 コナーとの同居にあたって、大きな誤算がひとつだけあった。
 世界平和のために、野菜を食うはめになったことだ。
「ただいま戻りました、ハンク」
 一緒に暮らしはじめて、二日目の夜。にこやかに帰宅したコナーは、両手に近所の食料品店の袋をさげていた。そのままキッチンに直行して、せっせと冷蔵庫に袋の中身を片づけるコナーの姿に、ハンクは激しく後悔した。
 野菜、野菜、ホワイトソースの缶詰、野菜、チリシーズニング、野菜、野菜、ひよこ豆、野菜。続々と冷蔵庫を占領してゆく緑色の物体に、目眩がしそうになってくる。
 昨日の晩はコナーとふたり、深夜まで家賃でもめた。
 経理上どうなっているのかは不明だが、サイバーライフ社はコナーに”社員”としての給与を支払っているらしい。月々の家賃を振り込むと言ったコナーを、ハンクは突っぱねた。
 単なるルームメイトとして、ここへ呼んだわけじゃない。暮らしを共にする上でコナー自身が必要とするものに自分の金を使えと、話しあうこと三時間。
 ほとほと疲れきって就寝したのだが、それでもコナーは納得していなかったようだ。
 ハンクが受け取らない家賃の代わりに、食費で賄おうという魂胆なのだろう。冷蔵庫の扉をしめて、コナーは高らかに告げた。
「今日から、僕は料理を趣味にします」
「あのな、コナー……」
「趣味のひとつくらいあった方がいいと、ハンクも言っていたでしょう。それに、とても分かりやすいレシピサイトを教えてもらったんです」
 うきうきと嬉しそうに手をかざし、コナーは手のひらに料理の画像を表示した。トマトと豆を煮込んだ『ビーガン向けチリコンカルネ』の写真の下に、用意する材料と分量が記されている――ところまでは普通のレシピサイトなのだが。
「おいおい冗談だろ。分かりやすいのか、これが?」
 驚きにハンクは目を剥いた。そこには、まるで呪文のような長い数式が料理の手順として記されていた。
「ええ、とても。適当な大きさに切り分ける、塩少々、といった曖昧な指示がないので、どんなアンドロイドでも料理ができると評判なんですよ。煮込んだ食材の硬度表や、塩を振る動作に必要な関数、火力と加熱時間の自動調整プログラムが、別途ダウンロードできるようになっていて親切ですし」
 コナーは自分の手のひらをスクロールしてあれこれと説明したが、正直、理解できる気がしない。およそ料理の話とは思えない単語がならぶレシピサイトから目をそらし、ハンクは最も肝心なことをコナーにたずねた。
「趣味をつくるのは結構だが、できた料理は誰が食うんだ」
 レシピの表示を消去して、コナーは悪戯っぽく眉をあげた。
「アンドロイドは食事をしませんよ」
「俺は野菜なんか食わないぞ。料理するなら、まずは自分が食えるようになるんだな」
 食材を無駄にしたくなければ、もう買ってくるんじゃない。遠回しに家賃の代替案を断ったつもりのハンクに、コナーは動じなかった。
「ハンク、ご存知ですか。現在、全人類の約17%が飢餓状態にあるんですよ」
 人間ではありえない、完璧な真円の虹彩がハンクを見据える。
「その上で、アンドロイドまでもが食糧を消費するようになったら戦争が起きるでしょう――今度こそ、間違いなく確実に」
 人間と自我に目覚めたアンドロイドが戦争を起こしかけたのは、つい最近の話だ。
 その混迷の中で、コナーは数百体ものアンドロイドを死に追いやり、数名の人間の命を奪った。生きるか死ぬかの止むを得ない状況下であったにせよ、犯した過ちから目をそむけず、コナーは今を生きている。時に、自分の身すら省みないほど真剣に。
 人間とアンドロイドの間で、二度と過ちを繰り返さないこと。
 その決意を聞いた夜、負けた、と素直に認めた。相手が製造後一年未満の、ひよっこのアンドロイドだったということに、いっそ胸のすくような清々しさを覚えた。
 完全敗北だった。自分はこの産まれたてのアンドロイドに惚れてしまったらしい。 
 以来、どうにも勝てる要素が見つからないまま、今も新たに敗北を喫している。
「あー……そうだな」
 ハンクは唸り、頭をかいた。我ながら往生際が悪い。
「ちゃんと食えるものができるのか?お前、料理をするのは初めてだろ」
 ぱちりと片目を閉じてみせ、コナーはハンクに微笑んだ。
「安心してください。失敗はプログラムにありません」


 宣言の通り、コナーは失敗をしなかった。画一的に切り刻まれ均等に煮こまれた野菜だらけのチリコンカルネは、控えめに言っても美味かった。
 もくもくと平らげるハンクの隣の椅子を引き、コナーは同じテーブルについた。ブルーブラッドのボトルを手に、そういえば、と話を切り出す。
「アンドロイドに味覚と摂食機能を搭載する研究は、サイバーライフ社の人間化部門で今も継続中です。その研究過程で作られたのが、分析能力を付与した僕の舌なんですよ」
「へえ、じゃあ本当にアンドロイドが飯を食える日がくるのか」
 青い液体をひとくち飲み、コナーは難しい顔をした。
「そうですね。いつになるかは分かりませんが、いつかきっと」
 いつか、人間とアンドロイドが争う心配がないほどの平和な時代が訪れたなら、きっと。
「その日がきたら、一緒にジミーのバーで乾杯でもするか?」
 ハンクの提案にコナーは返事をしなかった。言葉を反芻するように何度もLEDリングが瞬き、泣き笑いのような複雑な表情を浮かべて、ようやくコナーはうなずいた。
「ええ、――ええ、ハンク。その時は、ぜひ”最後の一杯”を僕におごって下さい」
 かくして、ハンク・アンダーソンが世界平和のために野菜を摂取する日々は幕を上げたのだった。言いくるめられてしまったのは気に入らないが、どのみち誰かと暮らすということは、互いの主張やスタイルをぶつけあい、新たな生活をつくりあげるための変化の連続だ。
 こんな事もあるだろうさと、ハンクはコナーの料理を受け入れた。

 そんな事しかなかったのだ、と気がついたのは、それから一ヶ月も後のことだった。



 春まだき、夜も明けやらぬうちからベッドを抜けだし、ハンクはひっそりと掃除に励んでいた。
 灯りを落とした暗いリビングで、音を立てないよう慎重に本棚の整理をする。
「しーっ、Stay、スモウ。いい子だ、散歩は後でな」
 ぴくりと頭をもたげたスモウに、指を立てサインを出す。聞き分けのよい愛犬が首を垂れて再び寝入ると、耳をそばだて周囲を確認してからハンクは作業を続行した。
 警察官として勤務時間が不規則なハンクに対して、標準的なオフィスワーカーのコナーに家事の比重が偏りがちなのは最初から分かっていた。
 だが一事が万事、コナーの家事は独特だった。
 ある朝、突然、積み上げられたピザやデリの空き箱はそのままに、ダイニングテーブルが鏡のように磨きあげられていた。そこらじゅうに散らばるドッグフードの位置は寸分たがわず、キッチンの床から埃と塵とこぼしたソースの染みが消えていた。
 すべて、コナーの仕業だった。
 捜査補佐型アンドロイドとしての能力を最大限に発揮して、現場の状況を完璧に保持しつつ、汚れだけを”採取”した結果がこれらしい。
 ひと粒ずつドッグフードを拾い上げては、床を拭いて、元通りに散らかしたのかと尋ねる気にはなれなかった。どうせ、当然だという顔をされるだけだと分かっている。
 ダイニングテーブルの上に残された食べかけのピザをゴミ箱に放りこみ、ハンクは本日何度目かもわからない重い溜め息をついた。
 干からびたチーズが異臭をはなつピザは、曇りなく輝く白い皿に鎮座していた。コナーが皿だけ綺麗に洗って、腐ったピザを丁寧に置きなおしたからだ。
 キッチン、ダイニング、リビング、バスルーム。それが何処であっても、コナーにとっては事件現場の延長線上であるらしく、同じように汚れだけを”採取”して作業を終了していた。
 それは、掃除ではない。
 家事でもない。
 つまるところ、ハンクが自主的にゴミを捨てるなりして物を動かさないかぎり、コナーがこの家に干渉することはないのだという、歴然たる証だった。
 もしもこのままコナーが去れば、数週間後には床に埃が降り積もり、息子を失って以来の荒れた様相に逆戻りするだろう。何もかもが元の通り、ここにコナーというアンドロイドが居た痕跡は残らない。
 いったい何が、これほどまでにコナーを臆病にさせているのか。
 出会って二日目の段階で、コナーはキッチンの窓を破って家宅侵入を果たし、泥酔するハンクを叩き起こしている。それを思えば、今さら遠慮などあるはずもないのだが。
「――ハンク?」
 真夜中に目を覚まし、唐突に答えをひらめいてからハンクは眠れなかった。おかげで非番だというのに、朝も早くに起き出して掃除に精を出している。
「珍しいですね、こんな朝早くに。今日は休みのはずなのでは?」
 振り向けば、いぶかしげに首を傾けコナーが背後に立っていた。
「ああ、まあ……ちょっとな。お前こそ、いつもの時間には早いだろうが。起こしちまったか?」
「ええ、あなたがベッドに戻ってこないので、少し心配になって。何をしているんですか」
 コナーの目が、整理され隙間のあいた本棚に向けられる。
「たいした事じゃない。ただ、お前の――――」
 コナーが気に入った本。あるいは好きな写真や小物、何でもいい。この家のなかに、コナーを示す何かを置きたかった。それだけだ。
 たったそれだけの事を説明するのに、何故か身体が重く、思うように口が動かなかった。冷たい汗が額をすべり落ちる。
「ハンク―――!ハンク!僕の声が聞こえますか、目を開けてください!」
 コナーの声がやけに遠い。視界が暗く、狭くなってゆく。何の感触もないまま、床に崩れ落ちた低い視点に、いまさら祟った過去の不摂生を罵ったのが最後だった。
 かつてあれほど望んだ死の予兆に抗いながら、意識は静かに闇に飲まれた。



――――奇妙な雨が降っていた。

 奇妙な雨が降っていた。家の中でそぼ降る雨だ。
 不思議に思い見上げれば、壁はあれども屋根がなく、のっぺりと黒い空から滴るように雨が降りこめていた。
 家の中はがらんどうだった。すべてが白く、書き割りのように薄っぺらい。なにも無い部屋の真ん中にひとつだけ、なぜだか見慣れた拳銃が転がっていた。
 雨の夜と、リボルバー。
 嫌になるほど馴染みの取り合わせに、苦い笑みがこぼれた。コールを亡くしてから三年間、酒に溺れて酩酊した夜は祈るようにトリガーを引いた。何度も、何度も、一発だけ籠められた弾丸が、次こそ撃発してくれることを願いながら。
 それが今では、このザマだ。
 慣れた動作でシリンダーを振り出し、あきらめまじりの悪態をつく。
 六つの薬室を埋める、六発の銃弾。これもまたコナーの仕業だった。他人の銃に勝手に弾を詰めこんで、もう運試しはできませんよと、しかつめらしく言い放ったコナーに、あの時、自分は何と答えたのだったか。
 確率が六分の五ならばまだしも、六分の六ではロシアンルーレットは成立しない。みずから死ねない不甲斐なさを、こんな形で逆手にとられるとは思わなかった。同時に、とんでもないやり方で悲劇を防ごうと考えた、コナーの若さに胸が痛んだ。
 銃などなくとも、人は死ぬ。
 アメリカ国民の平均寿命は91歳。だが、この数字にはからくりがある。医学の進歩により富裕層が飛躍的に寿命を延ばす一方で、中間層以下の人々の寿命は縮小傾向にある。所得別の平均寿命は忘れたが、体感としては70歳を過ぎるあたりから多くの人間が立ち枯れるように死んでゆく。自分に残された時間は、せいぜいが15年といったところか。
 遅まきながら妻を娶った時にも、息子が誕生した時にも感じなかった後ろめたさを、コナーに対して感じてしまうのは、それが理由だ。
 老いを知らないアンドロイドに、いつ終わるかわからないカウントダウンを共に数えてくれとは言えない。それだけは言ってはならない。そう決めていたのだが。
 雨は、あいかわらず降りつづいている。
 この雨を止ませる言葉を探して、天を仰いだところで目が覚めた。



 穏やかな朝の光が、寝室の天井を淡く滲ませていた。
 いつのまにやら、ベッドに運ばれ寝かされていたらしい。瞬きすら停止して、人造の眼球がハンクを見下ろしていた。一点の濁りもない澄んだ白目が、窓の光を弾いて美しい弧を描いている。
「泣いてんのか、コナー」
「…………いいえ」
 目蓋の縁から生成され、重力のままに球面を滑り落ちた液体が、眼下を見つめるブラウンの虹彩へと集約した。
 真円の瞳の中心に、透明な雫が産まれる。
 ぽたり、ぽたりと時差をつけて両眼から落下する涙を受け、ハンクは悟った。夢の中で降っていた、物言わぬ雨の正体を。
「眼球を保護する液体が、過剰に流出しているだけです」
 それを、普通は泣いているっていうんだろうが。言いかけてハンクは止めた。かわりに、ひたすらこちらを凝視するコナーの頬に手をのばした。
「悪かった。心配かけたな」
「脈拍、血圧ともに、今は正常値です。ここしばらく激務でしたから、疲れが出たんでしょう。ゆっくり休んで下さい」
 ハンクの手をとり、コナーはぎこちなく笑みを浮かべた。
 それでも止まない雨に、ハンクはようやく理解した。コナーは全てを知っているのだ。人間の寿命が短いことも、アルコールに冒されたこの身体の状態も、何もかも。事件現場で遺体の死因を特定するスキャン機能は、生きている人間のこれから起こりうる死因に対しても有効だ。
 首筋と胸に違和感をおぼえ、肌をさすると、コナーが申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません。心拍の回復が最優先でしたので、少し手荒になりました」
 散らかし放題のベッドサイドに、コナーのトランクケースが転がっていた。同居の際にコナーが持ちこんだ、ただ一つの私物であるトランクケース。二つに開いたその中身を初めて目にして、ハンクは呻いた。
「お前、なんでそんな物もってるんだ」
 コナーは素っ気なく答えた。
「決まっているでしょう。必要だからです」
 トランクの中身は小型の救命機器だった。救急車両に備え付けの医療装置よりは簡易だが、それでも個人が所有する類のものではない。床に転がる空のアンプルにいたっては、資格のない者が持っているだけで、何がしかの法に触れるのではと危ぶまれる代物だ。
「あなたは僕に、自分の必要とするものに金を使えと言いましたが、あなたに言われるまでもない――僕は、僕に必要なものが何なのか、ちゃんと分かっていますよ」
 全米屈指の大企業であるサイバーライフ社が、コナーにどれだけ給料を与えているかは知らないが、万年財政難のデトロイト市警における警部補の賃金よりは、はるかに上なのは間違いない。その金をほぼ全額、人間用の高価な機器につぎこんでしまったであろうコナーの本気に、ハンクはあきれて瞼を閉じた。
 コナーの指先が優しく額に触れる。
「眠って、休んでください。あなたの目が覚めるまで僕はここに居ます」
 汗で貼りついた髪をすくいあげ、ゆっくりと後ろへ流す、心地よい指の動きが微睡みを誘う。しばしの間、安らかなコナーの手に身をゆだねていると、自然と言葉が口からこぼれた。
「なあ、コナー」
 そぼ降る雨の夢のなか、探していた言葉はプロポーズだった。
「俺は、お前よりも先に逝く。それでもいいなら――……」
 いつか来る死のために、相手の未来を縛らないことが正しいのだと思っていた。まさかコナーも同じ考えで、自分の痕跡を残さない、おかしな家事をやっているとは予想外だった。
 老いゆくばかりの人間と、明日をも知れない危うい立場のアンドロイド。互いに自分の命を引け目に感じているうちは、どちらも一線を越えられないのだと。
 真夜中に不意に気づいて、昨夜は眠るに眠れなかった。
 コナーに何と言って未来を願うのか、ひと晩中それだけを考えていた。あげく倒れてしまったのは情けない限りだが、結局のところ、言いたいことは一つでしかない。

 死が二人を分かつまで、ともに在ること。
 ありきたりなプロポーズの言葉に、額をなでるコナーの手が止まった。
 
 沈黙に目を開くと、コナーが困惑した顔でこちらを見ていた。
 驚きのあまり、とりあえず涙は引っこんだらしい。思い出したように瞬きを再開し、小さく首を傾ける。
「あの……、その台詞は僕からあなたに言わせてもらえませんか」
「駄目だ。こういうのは早い者勝ちなんだよ」
 どちらが先に言うかによって結末の変わる約束だ。こればかりは絶対に譲れない。
「わかっていますか、ハンク」
 むっとした表情で、コナーは鼻先が触れるほど顔を近づけた。涙のなごりで光るブラウンの瞳が、ぎゅっと焦点を引き絞ってハンクを睨む。
「アンドロイドは忘れることがないんです、人間と違って。あなたが僕を嫌いになっても、もう止めたと言っても、取り消しはできないんですよ」
「ああ」
「プードルみたいに、ずっとあなたにまとわりついて離れなくなりますよ」
「ああ、わかってる」
「スモウの散歩を、二人で行こうと毎日せがむようになってもいいんですか」
「そういう日課が増えるのも悪くはないだろ」
「では、冷蔵庫の中身を、あなたが嫌いな野菜でいっぱいにしても?」
「それは……まあ、せめて俺が食える味付けにしてくれ」
 それから、それから、と必死に言い募るコナーの条件に、いちいち頷きながらハンクは笑った。どうにかして約束の前提を覆そうと、あれこれ画策するコナーが愛おしい。
 野菜だろうが散歩だろうが、何を求められても構わなかった。この約束さえ勝ち取れたら、あとは全部コナーに負けっぱなしでも後悔はしない。
 どんな条件でも肯定するハンクに、コナーは再び泣き出しそうな気配を漂わせて唇を噛んだ。
「ハンク、あなたは僕に優しすぎます」
 これを優しいと言えるのは、コナーの若さがゆえだ。先立たれる悲しみを知る者なら、残酷で身勝手な約束だと、相手をなじって怒るだろう。
「コナー、返事は?」
 ずるい大人の約束とは露知らず、幼い子供のようにあどけなく、コナーは何度も頷いた。
「はい――――はい、ハンク。僕は、ずっと」
 その先は、言葉にならずに嗚咽に呑まれた。
「あなたと一緒にいます。だから――」
 端整に造形された顔が、くしゃりと歪んで涙に崩れた。
 ああ、この顔だ。世界が変革した朝、ゲイリーのフードトラックの前で、心を得て初めて見る世界に目を輝かせ下手くそに笑ってみせたのと同じ、まじりけのない感情の発露。
 この顔を見たときに、ハンク・アンダーソンの世界は変わったのだと今なら言える。
 クソったれなこの世界に、純粋に生きている命があるのだと目の前で見せられて、変えられない過去に管を巻く自分を変えざるをえなかった。
 だからこそ、だから――の後の言葉を聞く必要はなかった。
 その後に続くものが何にせよ、否応なしに世界は変化するのだ。コナーという存在によって。もちろん、コナーの望みどおりに唯々諾々とハンク・アンダーソンが変わるのかは、今後の駆け引き次第だが。
 腕を伸ばして抱きよせると、ぐずぐずと鼻をならしてコナーは胸に頬を擦り付けた。
「おい、俺のシャツで顔をふくなよ」
 叱られて、コナーは顔を上げた。普段の冷静な表情はどこへやら、頑是なく震える唇と眉が、頼りなげな角度で下を向いている。
「すみません。涙液を放出するコマンドが、大量に重複してキャンセルもできなくて」
 ひぐ、と喉がしゃくりあげるたびに、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
「まるで何人もの僕が同時に泣いているみたいな状態なんです。どうしましょう」
「どうしましょうと言われてもな……」
 変異体とは厄介なものだ。泣いたら最後、自分で止められないとは始末に負えない。もう一度、驚かせてやれば止まるのだろうかと、ハンクは口を開いた。
「次の非番にでも、二人で指輪を買いにいくか?」
「指輪?――――指輪ですか。指輪……」
 しばしの間をおいて、がば!とコナーが跳ね起きた。思惑どおり、涙はぴたりと止まっている。止まったはいいが、そのまましおしおとしおたれたコナーに、ハンクは慌てた。
「いや、お前が嫌なら別に……」
「嫌じゃありません!」
 再び、コナーは跳ね起きた。予備動作なしに動けるのはアンドロイドの特権だが、突然すぎて心臓に悪い。目を丸くしたハンクに、コナーはしょんぼりと首を振った。
「嫌ではないんです。ないんですが、その、指輪を買うには口座の残高が」
「ああ。そりゃあ、まあ、そうだろうな」
 コナーのトランクケースに目をやり、ハンクは納得した。任務に必要なものは過不足なく支給される環境で過ごしてきたコナーにとって、金銭の重みを知る機会は皆無に等しい。
 ここでコナーを突き放せば、今後、コナーが無計画に浪費することはなくなるだろう。少々とち狂ったコナーの金銭感覚を矯正するには絶好のチャンスだ――とは、分かっているのだが。
「信じてください。本当に欲しいと思っているんです」
 またしても、じんわりと潤みはじめたブラウンの瞳に、いくらも経たずにハンクの忍耐は折れた。これで泣かれたら、それこそどうやって涙を止めたものか途方に暮れそうだ。
「わかった、わかったから、そんな顔をするのはやめろ。俺が買うと言ったんだ、俺からお前に贈らせてくれ」
「そういう訳にはいきません」
「いいだろ別に。俺が買いたいから買うってだけだ。受け取るかどうかは、お前の好きにすればいい」
「でも!」
 不満げに唇を引き結んだコナーに、これは長引きそうだとハンクは天井を仰いだ。事が事だけに、家賃の比ではなく揉めそうな気がする。
 だが、これでようやく前に進めるのだと、安堵したのも事実だった。揉めごとも話し合いも、無いよりは有ったほうがいいものだ。共に生きたいと願ったからには、面倒事を避けて通れるはずもない。
 野菜だらけの料理、二人と一匹で歩く日課、その他もろもろ。
 たった一つの約束から紡ぎだされた、たくさんの約束。それらを少しずつ織りこんで、新しい生活をつくりあげていけばいい。
 ふたりで一緒に、いつか死が分かつまで。