HeavenlyBlue 02:雨音を噛む
キスによる窒息死。
最高に間抜けで馬鹿げた死因に、ハンク・アンダーソンは確信した。
映画の中の探偵でなくとも分かる――――犯人はアンドロイドで間違いない。
その夜、アンダーソン警部補は自宅のリビングでグラスを傾け、ぼんやりと後悔していた。
映画専門チャンネルの無料キャンペーンにつられ、タイトルだけで選んだ映画は、大昔に流行したミステリーホラーだった。
霧の漂う湖畔の町で、次々と起きる異常な殺人事件。謎めいたカルト集団と湖の伝承を追う筋立ては、陰鬱な映像の美しさは別としても、現役の捜査官が愉しむには陳腐に過ぎた。
画面を右往左往する探偵役と郡保安官(シェリフ)に、そんな方法で犯人が見つかるものかと、あくびが出そうになってくる。隣を見れば、同居人のアンドロイド――捜査補佐専門モデルRK800『コナー』も、おそろしくつまらない表情でTVモニターをながめていた。
「チャンネル変えるか?」
「これはこれで、暇つぶしには相応しいかと思いますが……僕は嫌いじゃありません」
「褒めてるんだか貶してるんだかわからんな。まあ、お前が見たいのなら別に構わないが」
ハンクはウィスキーで唇を湿し、視線を画面に戻した。
非番の前日の夜は、だらだらと自堕落に過ごす。それが暗黙の了解になって、はや一年。始めの頃はソファに直角で腰掛けていたコナーも、いまやブルーブラッドのボトルを片手に寝そべることを覚えて、だらしなくクッションに埋もれている。
これを科学の進歩と呼ぶべきか退化とみなすべきなのかは、微妙なところだ。とりとめなく考えながら、グラスに酒を注ぎ足したハンクは、サクサクと響く不審な音に顔を上げた。
目の前で、しなやかな指先がポップコーンを宙に弾いた。
きれいに放物線を描いたスナックを、粒の揃った白い歯が器用に受けとめる。
そのまま軽快なリズムで咀嚼して、こくりと上下した喉仏を凝視し――ハンクは我に返った。
「おい、ちょっと待て」
「はい?やっぱり違うチャンネルにしますか、ハンク」
「おま……お前、それ」
いっさい食糧を必要としないはずのアンドロイドが、菓子を食う。異常事態にハンクは泡を食って驚いた。
「なに食ってんだ、コナー!」
「これですか?」
ちょっぴり得意げに顎を上げ、コナーは手にしたアルミパックを掲げてみせた。
「見ての通りのポップコーンです。映画にはつきものだと、あなたが以前に言っていたので、一度やってみたかったんです」
丸く膨らんではじけた香ばしい焼き目と、甘く蜜掛けされたカラーシロップ。袋の中身は、どこからどう見ても、まごうことなきポップコーンだった。ただし、シロップの色は鮮やかに青い。
「もしかして、ブルーブラッドで出来てんのか?」
「ええ、もちろん。サイバーライフのマーケティング部門で企画中の商品なんですよ。試作品のテスターを頼まれました」
コナーは、やけに嬉しそうだった。にやけている、と言ってもいい。
珍しい表情にハンクは嫌な予感を覚えた。刑事の勘など予断でしかないが、コナーに関する事柄だけは何故か外れたことがない。
「そんなの食って大丈夫なのか。何か変なもんでも仕込まれてないだろうな」
心配性ですね、とコナーは呆れたように肩をすくめてみせたが、そもそも遠隔操作で機体を乗っ取ろうとした相手の商品に、安心しろというのは無理がある。
「僕だって用心はしていますよ。このフレーバーも、自分の手持ちのデータから選びましたし」
「フレーバー?」
「アンドロイドには味覚がありませんから。ブルーブラッドの不揮発性メモリとしての特性を生かして、脳関門を通過するまでの間に再生可能なデータを――……ハンク、聞いてませんね?」
ハンクは両手を天に向けた。お堅い用語で話をはじめると、たいていコナーの長広舌は止まらない。止めたいなら、早い段階でこう言うしかない。
「わかるように説明してくれ、”英語で”」
「はいはい、あなたは嫌がりますけれど、僕が事件現場でブルーブラッドを分析するのは、ここから機体情報が取得できるからです。通常、アンドロイドのメモリーはエネルギー供給が断たれると消失しますが、ブルーブラッドに関しては別です。体外にこぼれて電源を失っても、電子情報を維持する特徴がある。だから型式や製造番号が特定できるんですよ」
袋から一粒つまみあげ、コナーは青いポップコーンを口に運んだ。ゆっくりと味わうように噛みしめ、満足げに吐息をもらす。
「体内に補給されたブルーブラッドは、その機体の固有情報で上書きされますが、それまでの短い間なら、あらかじめ注入されたデータを体感することが可能です。文字通り、データを”味わう”ことができる」
しゃく、しゃく、と小気味良く音をたて、会話の合間にもコナーはポップコーンを食べ続けた。スナックに手が止まらなくなるのは、人間もアンドロイドも同じということだろうか。それにしてはコナーの様子が少々おかしい。
「それで?」
「はい?」
問いかけにコナーは小首を傾げた。人間よりも遙かに精緻なブラウンの瞳に、熱に浮かされたような水の膜が張っている。
「何の味なんだ、結局」
コナーは潤んだ眼差しのまま、ハンクに答えた。
「ああ、それは――――雨の音です。音声データですよ」
雨音を封じ込めた蜜掛けのポップコーン。ずいぶんとメルヘンじみた回答に、ハンクはますます眉をひそめた。
捜査補佐を目的に製造されただけあって、コナーは論理的な物事を好む傾向が強い。いっそフィボナッチ数列ですとでも答えてくれた方が、まだしも納得できるのだが。
「雨音を味わう、ね。人間には分からん感覚だな。美味いのか?」
「それこそ味覚のない僕には、美味しいという感覚が分からないのですが……そうですね、他のアンドロイドと違って、僕は舌でもデータが取得できますから、リアルタイムで体験しているような強い没入感が――――ハンク!待ってください」
ひょい、と伸ばされた手に、今度はコナーが驚く番だった。
口に放り込んだ青いポップコーンを噛みくだき、ハンクは顔をしかめた。噛んだ瞬間、さくりと薄い外殻が割れ、えもいわれぬ化学の味が口いっぱいに充満する。どうやらポップコーンに似ているのは外見だけで、中に詰まっているのはブルーブラッドそのものらしい。
「なんてことをするんです、シリウムは人間には有害なんですよ!」
コナーの抗議を、ハンクは鼻先で一蹴した。
ブルーブラッドの主成分であるシリウム310は、合成麻薬レッドアイスの原料の一つだ。その化合式も特徴も、麻薬捜査をしていた頃に頭に叩きこんである。シリウムの毒性は人体のホルモンバランスを著しく不安定にする、それだけだ。少量を飲んだところで死にはしない。
「今すぐ吐き出してください、ハンク。……ハンク!」
まったく悪びれないハンクに、焦ったコナーが詰め寄った。喉元に手をかけ、ハンクの膝に身を乗りあげる。そのまま圧し掛かるように、コナーはハンクの口にかぶりついた。
唇を割りひらき、コナーの舌が滑りこんでくる。
唾液ごとさらう勢いで息を啜り、ぴちゃぴちゃと犬のような舌使いで、コナーはハンクの口腔からブルーブラッドを飲み干した。歯列の奥まで丹念にしゃぶり尽くす艶かしさに、ハンクがやにさがったのも束の間、
「……――――っつ、…………!」
ぐ、と力をこめてコナーの指が喉を締め上げた。
アンドロイドは疲労を知らない。
よって、人間ならば時間経過で弛んでくる握力も、一定の出力を保ったまま弱まることがない。呼吸ができるか出来ないかの、絶妙な力加減で気道を締められ、ハンクはもがいた。
要するに、一滴たりともブルーブラッドを飲み込むなという事なのだろうが、これはまずい。
不足する酸素に目の前を星がちらつく。行き場を失った血液が頭蓋の中に滞留して、破裂寸前の風船のようだ。
必死でコナーの腕を叩くが、反応は鈍かった。
「……――んぅ、くふ……ん」
ブルーブラッドを舐めることに夢中で、コナーはこちらの危機に気づいていない。
次第に遠のく意識を、縦横にうごめく柔らかな舌が、蠱惑的な刺激で揺さぶりかけては引きずり戻す。ああ、クソ、畜生め――じわりと腰の奥から沸きあがる生温い感覚に、ハンクは腹の底で毒づいた。
コナーと出会ったばかりの頃、エデンクラブで発見された死体の扼殺痕にハンクは言った。激しいプレイをすれば指の跡ぐらい残るだろう、と。あの時のコナーは、言葉の意味が分かっていなかった。今だって、きっと分かってなどいないだろう。
窒息プレイ――――世間知らずのアンドロイドと、くたびれた初老の男が窒息プレイ。
もしもこのまま死んでしまったら、検案書を作成する市警の医官が、どんな顔をするのか考えたくもない。
リビングのTVモニターの中では、相も変わらず間抜けな探偵が間抜けな推理を述べていた。
『――……この死体の奇妙な点は、どうやって窒息したのか、その原因と方法にあります』
キスによる窒息死。まったく、そんなくだらない殺し方が出来るのなら、犯人は呼吸のいらないアンドロイドで間違いない。今ここで身をもって証明してやってもいい。
半ば捨てばちになりかけた時、ふと、首にかかる圧力がゆるんだ。
どっ、と流れこんだ空気で、喉が詰まりそうになる。反動で激しく咳き込んだハンクに、コナーは慌てふためいた。
「す――すみません、ハンク!大丈夫ですか」
おろおろと膝の上でうろたえるコナーを手で制し、むせかえる息の合間からハンクは声を絞りだした。
「いつの、雨だ?」
「え?」
コナーの肩が小さく跳ねあがる。なるほど、後ろめたいという自覚はあったらしい。咳で痛んだ喉を励まして、ハンクは重ねて問い詰めた。
「いつの雨の夜だ?」
「いえ、それは……その」
そろりと腰を引いたコナーは、固く勃ち上がったハンクの剛直に突き当たり、困惑に目をみひらいた。
「あの、これは……」
なんで?と言わんばかりの顔をされても、それが人間の生理的反射なのだから仕方がない。むしろ、この歳になって妙なプレイに目覚める羽目になったことの責任をとれと、こちらのほうが訴えたい。
ハンクはコナーの両腕をつかみ、逃がさぬように引き寄せた。
「いつの雨の夜の音声データか、正直に白状したら許してやってもいい」
「――……ハンク、それ絶対に分かって言ってますよね?」
耳の先まで羞恥に染め、コナーはそっぽを向いた。こめかみに零れ落ちた髪のひと房が、猛烈な速さで回るLEDリングの光を覆い隠す。
それでも口を割らないパートナーに、ハンクは耳元に唇を寄せ、かすれる声で囁いた。
「…………コナー…」
首筋に息を吹きかけうながすと、弱々しくかぶりを振りコナーは抵抗を示した。
「卑怯ですよ。そんなふうに呼ばれたら」
「そうか。一人で勝手にお愉しみだった誰かよりは、ましだと思うがな」
うわぁ、だか、ああ、だか判然としない呻きをあげ、とうとう恥ずかしさのあまり膝の上にくずれおちたコナーを両腕で抱え、ソファに組み敷いてハンクは言った。
「時間切れだ」
涙目でハンクを見上げたコナーが、悔しそうに唇を尖らせる。
「どうして分かったんです?」
「そりゃバレるだろうよ。お前が夢中で舐めたがる雨音なんて、心当たりは一つしかないからな」
忘れられない夜の雨音。降りしきる雨の響きにまぎれこんだ、微かなリップ音。
よりにもよってファーストキスの記録を菓子としてむさぼり、現実とデータの二重のキスに溺れて我を忘れたアンドロイドには、さて、どんなお仕置きが必要だろうか。
ただの勘じゃないですかと拗ねるコナーの下だけを脱がせ、丸い膝頭に口付ける。
「今日は上は無しだ」
「それどういう意味です、か……――――ん、っ!」
すんなりと伸びた足を肩に乗せ、あらわになった柔らかな腿の裏を強く吸い上げる。びくびくと震える肌の感触を味わい、ふと、ハンクは意地の悪い笑みをこぼした。
この肌が甘いと言ったら、コナーはどんな顔をするだろう。
自分が雨音を味わえないように、数値では計測できない感覚をコナーが理解することはできない。その事実に、ちょっとした優越感をくすぐられてしまったら、あとはもう、やる事はひとつしかなかった。
「ハンク――ハンク、何で笑って、っ、い……そこ舐めたら、だめで、す」
「悪い子には、お仕置きが必要だろ」
喋るたびに、荒れた喉が痛んで声が嗄れた。どうせ今からする行為を思えば、明日には顎がだるくて口を開く気にもなれないに違いないが。
かぼそく言葉にならない悲鳴をあげ、コナーがしきりに身を捩る。
じれたコナーが堪えきれずに泣き出すまで、ハンクは思う存分に甘い肌を味わい尽くした。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません