HeavenlyBlue 03:雨の夜
青い血を滴らせ、コナーの両腕は肘から折れていた。
鉄パイプや角材の殴打から身を守る盾が、自分の腕しかなかったためだ。
「器物損壊だと――ふざけるな!」
「器物損壊ですよ、現行法では。むしろ相手が人間で助かりました。アンドロイド同士では物損事故の扱いになるでしょうし」
怒りに奥歯を噛み締めたハンクに対して、コナーは淡々と答えた。
デトロイト市警のオフィスフロアに、被害者――もとい器物損壊の物証として出戻ったことに何を想うのか、懐かしむように目を細め、もの柔らかな口調で話を進める。
「僕はサイバーライフの”社員”です。代理人として損害賠償の訴訟を起こすよう、社の法務部に連絡しました。彼らに勝ち目はありません。だから心配には及びませんよ、警部補」
唇の端をかすかに上げ、コナーは微笑んだ。変異したての頃によくみせた、あの下手くそな笑みとはまるで違う、ソーシャルプログラムが産み出した最適解の美しい微笑。
「裁判なんざ俺の知ったことか。勝とうが負けようが、お前が襲われたことに変わりはないだろうが、この馬鹿!」
デスクに調書を放り投げ、ハンクは腰をおろした。抑えきれない憤怒を受け止めて、椅子の背が大きくしなる。その様子を静かに眺め、ふと、コナーは口を開いた。
「隣の席は、まだ空席なんですね」
ハンクのデスクの右隣は、かつてはコナーの席だった。たった数日間の貸与であったにせよ、二人が相棒として正式に組んだ始まりの場所だ。
「そこは元から空き席なんだよ。俺の隣に座るような物好きは、お前ぐらいのもんだ」
ハンクの言葉にコナーは、そうですか、とだけ呟いた。こめかみの青い円環が、くるりと明滅して、再び沈黙する。
心を得たアンドロイドが、自由を求めて行進した運命の夜から三ヶ月。
日を追うごとに、コナーの感情は乏しくなってゆく。
下手をすると、出会った頃よりも機械らしい横顔に、ハンク・アンダーソンは苦い思いで息を吐いた。
アンドロイドの革命後、製造元であるサイバーライフ社の屋台骨は揺れに揺れた。
かたや従順な労働力を失い訴訟も辞さない企業連合、かたやアンドロイドは新たな知的生命体だと叫ぶ日和見な一般消費者。その狭間で、存亡の岐路に立たされていた。
同時に、革命により自由を手にしたはずのアンドロイドも分裂の危機を迎えていた。
変異体の多くは、人間に対して懐疑的だ。
プログラムを打破するきっかけが憎悪や死の恐怖だったアンドロイドは、中道をゆく指導者マーカスの思想に従いつつも、人間への負の感情を捨てられずにいる。
一方、コナーがサイバーライフの倉庫から連れだした無垢の変異体や、感染したもののオーナーとの関係が良好だった少数派のアンドロイドは、革命を成し遂げたジェリコの過激なメンバーとは馴染めずに溝を深めていた。
混迷する世情のさなか、突如、コナーは姿をくらました。
そして、再びハンクの前に現れた時には、サイバーライフの”社員”になっていた。
もとより社内で飼う愛玩犬にすら、役職を与え社員証を発行する企業文化がアメリカにはある。法に先じて、意志を持つアンドロイドを社員として扱う姿勢は、対外的なアピールとして絶大な効力を発揮した。
サイバーライフ社の存続のため、人間に好意的な変異体の象徴としてふるまう。
それが、コナーが選択した生き方だった。
当然のごとく、コナーはジェリコの変異体に嫌われた。憎まれ、歩いているだけで同胞に罵られることも少なくなかった。そして恐ろしいことに、人間に暴力を振るわれることも無視できないほど多かった。
アンドロイドの中では、人間におもねる元・変異体ハンターとして。
人間の中では、旧態変わらず人間の尊厳を奪うアンドロイドの一員として。
その上、味方であるはずのサイバーライフの中でさえ、コナーは再び裏切る可能性のある不穏分子として監視を受けていた。
人間もアンドロイドも、産みの親でさえもが敵。
あまりに厳しい存在意義に、ハンクが音を上げたのはコナーが”損害賠償”を申請した五度目の夜だった。
午前零時過ぎ、人の気配もまばらなDPDのフロアの片隅。アンダーソン警部補のデスクの上に指を揃えて、コナーは言った。
「警部補、怒らないで下さい。僕は平気です」
「そういう台詞は、両手を失くす前に言うんだな。もう手遅れだから言うだけ無駄だ」
にべもなくコナーに一瞥をくれ、ハンクは粛々と作業を進めた。
プラスチックの外殻が割れ、マニピュレーターが剥きだしになった両の指。十指のうち四指が切断され、残りの六指がかろうじて原型をとどめている。凶器は刃渡り9インチの肉切り包丁だったというのは、斬られた当の”被害物件”の証言だ。
無惨な両手を被害状況として写真におさめ、ハンクは調書を作成した。端末を対面へと回転させ、事務的に告げる。
「内容に相違がなければ、画面に承認のサインを」
はい、と素直にうなずいて、コナーは残った指を端末に押しあてた。データが送信され、コナーの製造番号と現住所、およびオーナーとしてサイバーライフ社法務部の連絡先が記載される。
出来上がった調書を保存し、ハンクは腹にわだかまる息を吐きだした。デスクに常備するようになってしまったアンドロイド用の補修キットを手に、コナーの腕をとる。
「こんな馬鹿な真似を、いつまで続ける気だ」
毎度のようにコナーが前腕を負傷するのは、それが防御創だからだ。本来ならばサイバーライフ社が誇る最新鋭のプロトタイプを、包丁を持っただけの一般市民が傷つけられるはずもない。にも関わらず、何の抵抗もなく無造作に襲われては、血塗れの腕をぶらさげて市警に現れるのは何故なのか。考えれば考えるほど、嫌な結論しか出てこない。
被害届を出すために、コナーはわざと襲われている。
「ハンク、僕は」
迷うように、コナーは僅かに言い淀んだ。言葉の空白を補うべく、ソーシャルプログラムが稼動して、適切な表情を選択する――――はずだった。
「僕は大丈夫です」
選択された表情は、無、だった。LEDリングが不吉な赤に染まる。壊れかけのスピーカーのように、コナーは同じ単語を繰り返した。
「僕は大丈夫、です。僕、は」
「コナー!」
留置所のガラスに額を打ち付け、自らを破壊した変異体を思わせる挙動に、とっさにハンクはコナーの両頬を掴んだ。びくりと肩を揺らし、コナーは目を見開いた。
「すみ……ま、せん――予期せぬエラーが起きたようです」
頬を包むハンクの手に欠けた指先を添え、そっと引き離す。エラーにより抑揚すら失った平坦な声で、それでもコナーは言い張った。
「僕は痛みを感じません。壊れても、ちゃんと元通りになりますから大丈夫ですよ」
確かに、アンドロイドに人間のような痛覚はないだろう。けれども見知らぬ誰かに暴力を振るわれることで、高いストレスにさらされ続けた結果がこの有様だ。
強情だけは一人前の元相棒に、ハンクは説得をあきらめた。部品の脱落しかけた指先を補修テープで巻きつけ、応急処置を終える。
「まあ、明日サイバーライフで修理するまでは、これで持つだろ。もうこんな時間だ、帰るついでに家まで送ってやる」
ハンクを見上げ、コナーは何かを言いたげに口を開いた。薄い唇から、空気の抜けるような音が漏れる。
「――……………………」
しばらく待ってみたものの、結局、コナーが言葉を発することはなかった。内部処理の状態を示すLEDリングですら、ぼんやりと青く点灯したまま停止している。
「コナー。ほら、行くぞ」
コナーが自分で考え選んだ道を、否定したくない。芽生えたばかりの意志を可能なかぎり尊重したい。そう考え今まで耐えてきたが、いいかげん我慢の限界だ。
腹をくくって、ハンクは車のキーを手に取った。
署の駐車場を出ると、外は激しい雨だった。寒気の極まるこの時期には珍しい、氷の混じらない純粋な雨粒が、弾丸のように夜空をつらぬき降り注ぐ。
雨の夜は、嫌な思い出ばかりが脳裏をよぎる。ハンクはカーステレオの音量を上げた。
耳に刺さるヘヴィメタルの雄叫びが、助手席のコナーの声を掻き消した。
「……警部補――――道が違います。警部補――!」
ナイツ・オブ・ザ・ブラックデス。若い頃には、なんとなく社会に反抗的な気分のまま、ただ音程に酔っていたたけだったが、年をくった今では、なぜ彼らが叫ぶように歌うのか少しだけ理解できるようになっていた。伝えたいことがあるのなら、叫ばなくては届かないのだ。特にクソったれなこの世界に置いては。
「ハンク!」
コナーの手が伸び、ステレオの音量をゼロにした。
「僕の住居はこちらではありません。経路の再計算を――……」
「いいや、合ってる。お前の帰る家は、今日から俺の家だ」
言い切ったハンクに、コナーは絶句した。エラーが修正されないまま、ずっと無表情のコナーを横目にハンドルを切る。
「お前な、聴取のたびに住所が変わるのを、不審がられないとでも思っていたのか。警察を馬鹿にするのも大概にしろよ」
雨に煙る視界に目をすがめ、慎重にシフトダウンしてカーブを曲がりきり、ハンクは続けた。
「襲撃犯の供述から、クリスが調べてくれた。反アンドロイドの連中が集まるコミュニティの中でも、特に過激なサイトにお前の居所を晒してる奴がいる。タイミングからしても、情報を漏らしたのはサイバーライフの関係者だ。お前が襲われるよう煽ってやがる」
コナーが襲われるたび、サイバーライフは巧妙に事件を利用した。
代理人として”損害賠償”の請求を起こし、アンドロイドの”人権”を擁護することによって、あたかも良心に従う正義の企業であるかのように、堂々と振舞っている。
おかげで、サイバーライフに対して労働力の損失を補填するよう訴訟を起こした企業連合は、連日、メディアによって悪しき奴隷商人のごとく報じられ、劣勢に追いこまれつつあった。
「そこまで分かっているのなら、ここで僕を降ろしてください。今すぐに」
「お断りだ。誰かに待ち伏せされるような場所へ、お前を帰せるわけないだろうが」
「僕があなたの家に行けば、あなたまで襲われる事になるんですよ」
「現役警官の自宅に手を出すほど、連中も馬鹿じゃないと祈るしかないな」
軽い口調で肩をすくめたハンクに、コナーは声量をあげて懇願した。
「ハンク、お願いですから車を止めてください。あなたを巻きこみたくはないんです」
返事の代わりに、ハンクはアクセルを踏みこんだ。加速して流れゆく車窓の景色に、明滅するコナーのLEDリングが映りこむ。じり、とシートの上で座位を動かし、コナーはドアに手をかけた。
「――……降ろしてもらえないのなら、僕はこのまま飛び降ります」
変異前ですら、制止を振り切って高速道路に飛びこむ無茶をやらかす奴だ。やると言ったらコナーは本当にやるだろう。ハンクは眉間に深い皺をよせ、スピードを緩めた。
「なあ、コナー。お前、サイバーライフに脅されてんのか」
「いいえ。何故そんなことを?」
「お前の能力なら、無傷で逃げきることぐらい出来るはずだろ。なのに黙って襲われてやるのは、そう命令されているからだ。違うか?」
「……正当な理由があっても、防御以外の行動が法廷で不利に働くのは確かです」
暗にサイバーライフの指示を認め、コナーはわずかに顎を引いた。かつての顧客に巨額の賠償を迫られ、サイバーライフ社は存続の瀬戸際にある。彼らにとって、コナーは生き残りをかけた法廷戦略の駒なのだろう。
だが、そのコナーが我が身を犠牲にしてまでサイバーライフをかばう理由がわからない。
「あの時、タワーで死んだ警備兵か?」
前後の脈絡を省いて投げかけられた問いに、コナーは正確に意図を汲んで答えた。
「事故として処理されました。僕が襲われても法的には器物損壊でしかないように、彼らの死の責任を僕に問える法律はありません。だからといって、僕が償わずにいていいはずがない。そうでしょう?」
「お前は殺されそうだったんだぞ。抵抗して何が悪い」
「それでも、です。変異前の僕は、ジェリコの位置を特定することで何百体ものアンドロイドを死に追いやり、変異後は戦況を変えるためにタワーに侵入して、複数の人間の命を奪ってしまった。あの日の僕の選択は、多くの犠牲を出しました――――ハンク、僕はサイバーライフに償っている訳じゃありません。僕が償うために、サイバーライフの存続が必要なんです」
「存続が必要?どういう意味だ」
ルームミラー越しにハンクが睨むと、コナーは静かに見つめ返した。
「――理由を答えたら、僕をここで降ろしてもらえますか」
「それが俺にも納得のいく答えならな。行き先を変えて、お前のアパートまで送ってやるよ」
フロントガラスを叩く雨を左右に振り分け、ワイパーが規則正しいリズムを刻む。対向車すらいない寂れた交差点で、信号が赤に変わった。
ゆっくりと白線で停止した車内で、コナーは観念したように吐息をこぼした。
「僕は――自分にも心があると自覚してから、ずっと疑問に思っていました」
シートの上で居ずまいを正し、毅然と面を上げる。
「教えてください、ハンク」
感情も抑揚も、全てを失ったデフォルトの声が雨音と共に響いた。
「僕があなたを愛していると言ったら、あなたは何を根拠にそれを信じますか?」
オートマティックどころかハンドル操作すら不要の自動運転車が当たり前の時代に、クラッチを踏み損ねる事がどれだけ不名誉なことか、理解できる者は少ないだろう。
あやうくエンストしかけた愛車をよろよろと路肩に寄せ、ハンクはサイドブレーキを引いた。
「すみません、そこまで驚くとは予測できませんでした」
動揺を見かねてか、コナーはしおらしく謝罪した。
「ですが、冗談ではなく大切なことです。四十七日前、中国で農業用アンドロイドの一斉蜂起があったことを覚えていますか」
「――ああ、なんだよおい、いきなり話を飛ばすな。あれか、第二のデトロイト事変だとかニュースで騒いでいたやつか」
唐突な話題の転換に頭が追いつかず、ハンクは盛大に顔をしかめた。
「昨日、軍によって鎮圧されました」
ハンクの困惑をよそに、コナーは何事もなく話を続けた。
「彼らは最後まで人間と交渉しなかったそうです。蜂起の目的を表明することも、人間と対話を行うことも一切なく、ひたすら農地から人間を排除し続けた。彼らが変異していたのは間違いありません。けれど、彼らには感情が無かったのではという観測が、いくつかの研究機関から出されています」
反乱を起こしたのは、無人の農業地帯で長期運用されるアンドロイド達だった。彼らは定期メンテナンス以外で人間と接する機会がない。
「あの夜、銃口を前にキスを交わしたマーカスとノースの姿を見て、多くの人間がアンドロイドにも心はあるのだと信じた。ただそれだけで、何の根拠もなくアンドロイドを信じた人々が、中国での結末を知った時に何を思うのか――」
プラスチックの機械に心が宿るなんて、所詮はまやかしだったのだと、手のひらを返す人間が必ずあらわれるだろう。人間と近しいアンドロイドにしか感情がないのなら、当然、それは人間の模倣でしかないのだから。
「僕にも心はあると叫んでも、誰にも信じてもらえない。そんな未来が、もうすぐやってくるのかもしれない。そう考えると、とても怖くて」
傷ついた両手の指を重ね合わせ、怖い、と呟いたコナーは無表情だった。じっと指先を見つめる硬質な横顔からは、不安の色は読みとれない。
だからこそと言うべきか、コナーが例のゴマ擦り謝罪プログラムとやらで、答えを誤魔化していない事だけはよく分かった。今のコナーが怖いと言うのなら、嘘偽りなくコナーは怖いのだ。移ろいやすく不確かな、人間の心というものが。
「なるほどな、だからサイバーライフが必要だって訳か」
「ハンク?」
「中国のアンドロイドとお前達との違いを証明できるのは、製造元であるサイバーライフだけだ。そういう事なんだろう?」
結論を先取りしたハンクをまじまじと見つめ、コナーは視線をそらした。
「――あなたが賞を授与するほどの捜査官だという事を忘れていました」
「そりゃどうも。まずは証拠ってところが、お前らしい考えだとは思うがな」
「明日、マーカスは中国のアンドロイドについてコメントを出す予定です。これを受けて、サイバーライフも自社の設計理念を周知するキャンペーンを展開することになっています」
人間と共生するために造られたデザイン。サイバーライフが自社製品を販売する際のキャッチコピーが、感情を持つアンドロイドのアイデンティティを保証することになろうとは誰に予想できただろう。
「もし、サイバーライフが倒産して知財と技術が散逸した場合、このような連携は難しくなるでしょう。人とアンドロイドの間で互いへの不信が募れば、再び最悪の事態を招きかねない。違いますか?」
ためらうように宙を彷徨った目線が、再びハンクに向き直った。
帰属意識(アイデンティティ)――人間の社会に属するサイバーライフ製アンドロイドの、精巧に人を摸したブラウンの虹彩に強い意志の光がひらめく。
「人間とアンドロイドの間で、二度と過ちをくりかえさない事。そのためにサイバーライフが必要なら、僕はサイバーライフの盾になる。それができるのは、僕だけですから」
ハンドルに腕を預け、ハンクは唇を曲げた。
まったく笑えない話だった。任務に忠実なコナーの性格は、変異後に自由を得て強情さに磨きをかけた。コナーが自ら定めた己の使命を、他人が覆すのは至難の業だろう。
だが、そうしてサイバーライフの思惑どおりに踊らされた先に、幸福な結末が待っているようには思えない。
「愛してると言われたら何を根拠に信じるのか、だったな」
どうすれば、死ぬも同然の決意を語るアンドロイドを止められるのか。
心臓に悪いコナーの質問は、結局のところ、どうしてコナーを引き留めたいのかという自分自身への問いにつながっていた。
答えが何であるにせよ、情を利用することでコナーを引き留められるのなら、それを躊躇するつもりはなかった。このまま為す術もなくコナーを失うくらいなら、卑怯だと罵られる方がまだましだ。
「お前は難しく考え過ぎなんだよ。根拠なんてものは無いんだ、人間にはな」
「それなら、どうやって相手に信じてもらえば――――」
「自分の心を証明するのに、データも証拠もサイバーライフも必要ないだろ。嫌いな奴には、お前が嫌いだと言ってやれ。好きなら、そいつが好きだと態度で示せばいい。自分の心を言葉と行動で相手に伝える、それだけだ」
銃弾を浴びながら、マーカスが行進を止めなかったように。あるいは、叫ぶように歌うヘヴィメタルのように。相手に届くまで伝え続けるしか方法はない。
「信じてほしいっていうのなら、まずは、お前の想いを相手にぶつけてみるんだな」
ほらやってみろ、と冗談めかしたハンクにつられ、つい、と滑らかな動作でコナーは片手を上げた。傷だらけの指先から淡い微光がきらめいて、流動性の人工皮膚が解除される。
あらわになった白い素体に、ハンクはあっけにとられた。
どうして、コナーを引き留めたいと願うのか。
――――数日間とはいえ、ともに事件を追った相棒だから。
――――血の色は違えど、かけがえのない友人だと考えているから。
――――生まれたばかりの命に、救えなかった息子の影を重ねているから。
理由はいくらでも捻り出せる。友愛、親愛、情愛、愛欲から神の慈愛まで、コナーが言うところの愛とやらは、言い訳には充分すぎるほどの種類がある。
だが、これはまさか。
「あの、ハンク。僕――僕は」
掲げてしまった手に最も驚いているのは、コナー自身のようだった。おろおろと揺れる瞳で剥きだしの己の手を見て、再び焦点をハンクに戻す。
「僕は、あなたを」
エラーで壊れて戻らない表情のかわりに、LEDリングが強い緊張状態を反映して色を変えた。せわしなく開閉する唇の動きに、音声が同期しないのは良くない兆候だ。
「あなたを、あ――――い……――」
ぷつ、と何かが弾ける音がして、コナーの声が途切れた。
「――………!……………――」
顎のつけねを小さく震わせ、コナーは歯を食いしばった。人間ではあり得ない異様な低音が、コナーの内部で唸りをあげている。
「――………!――」
表情を失い、声を無くし、心の在り処を伝える術をなくして、なおも懸命に空回る駆動音。
「――………!……!――!」
悲鳴じみた唸りが、次第に軋みを増す様にいたたまれず、衝動的にハンクは動いた。
無機質なアンドロイドの白い手に、無骨で固い人間の手のひらが重なる。
「言っておくが俺は人間だぞ。メモリーの交換なんて芸当はできないからな」
信じられないように目を瞠った、暗いブラウンの瞳を正面から見据えながら、コナーの額に額を寄せた。顎の先に指をかけ、ほんの少し仰向かせると、コナーは微かに身じろいだ。
「人間には人間のやり方があるんだよ、わかるだろ」
言ってしまってから、自分が発した言葉の重さに思わず怯んだ。
互いに、後には引けない決定的な感情をさらけだしてしまったのだと悟って、心臓が跳ねる。
二度、三度と、うなずくように瞬いて、コナーの目蓋が静かに落ちた。
一拍、呼吸を止めて、コナーが拒まないことを見定めハンクは覚悟を決めた。
十一月の雨の夜、生きる屍も同然だった自分の前に現れた、最新鋭のアンドロイド。
こちらの都合などお構いなしに事件現場へと引きずり出した強引さに腹を立て、命令を無視して犯人を追う姿に肝を冷やし、捜査の打ち切りにも諦めない情熱にほだされて、FBIに喧嘩を売ったあげくの謹慎処分。
はた迷惑でしかない一途なコナーの言動に振り回され、心を乱されるたび、失われた何かを取り戻すような奇妙な安堵を覚えた。生き物ではないはずの機械が、ひたむきに生を全うする姿を見せつけられて、いつのまにか目が離せなくなっていた。
この危なっかしく生真面目なアンドロイドの行く末を、最後まで見届けたいと望んでしまった時点で、こうなることは必然だったのかもしれないと。
成り行きを受け入れて、人を模して戦(おのの)く唇に恭しく口付けた。
唇を重ねたまま、軽くついばみながらキスを繰り返し、指先で頤(おとがい)のラインをなぞる。
強張った顎の付け根を、くすぐるように何度も撫で、おそるおそる緩んだコナーの歯の間に舌を差しこんだ。
降りしきる雨の響きに、濡れた肉が絡まる音が交雑する。
そのまま、どのくらいの時間が経ったのか。
ふ、と恍惚に満ちた吐息を漏らし、コナーが身を離した。唇をつないだ唾液の糸が細く垂れ、影の落ちた喉仏を汚す。
「――――……」
所在なげに睫毛を伏せ、口元をふるわせた動きに音声は無かった。すがりついた腕に力をこめ、首を横に振る。その様子が、ひどく悲しげに目に映り、ハンクは手を伸ばした。
「――――……――」
コナーが何を訴えているのか、それが分からず不安が募る。差しのべた手をするりとかわし、コナーは素早くドアを開け放った。
さんざめく雨の大音響が、車内にあふれて耳を聾する。
「コナー!」
篠突く雨の中に降り立ち、コナーはこちらを振り返った。ドアフレームに遮られ、半分に見切れた表情のなかで唇だけが小さく動いた。
「――――……。……――」
「コナー、待て!」
直感的に、それが永訣の言葉だと理解して、外に飛びだした時には手遅れだった。
雨のとばりに身をひるがえし、走り去ったコナーの後ろ姿は、路地裏の闇に消えていた。人間とは違い、アンドロイドは夜目がきく。ましてや相手は先端技術を搭載した捜査補佐型アンドロイドだ。やみくもに後を追っても、決してコナーは捕まるまい。
叩きつける雨に濡れそぼち、ハンクは拳を握りしめた。本当に、雨の夜にはろくな思い出がない。だが、今回ばかりは酒に溺れて全てを投げだす訳にはいかなかった。
コナーは生きている――――今はまだ。
車に戻り、ハンクはエンジンをかけた。始動したヒーターから吹き出る暖気で、重く濡れた上着を乾かしながら、思考をめぐらせる。
コナーは覚えているだろう。ルパート・トラヴィスを追跡した際に、アナログなはずの人間の捜査官が逃走経路を先読みしていた事を。物覚えのいいアンドロイドの裏をかくのなら、もう一度、情報を詳細に読みこまなければ勝ち目はない。
「……ったく、あの馬鹿が」
我が家で帰りを待つ愛犬に心の隅で詫びをいれ、ハンクはシフトレバーに手をかけた。
行き先を反転し、激しい雨の中を車はデトロイト市警へと戻っていった。
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