HeavenlyBlue 04:長い夜が来る前に
復旧した禅庭園への再接続とアマンダによる常時監視は、サイバーライフと交わした密約の一部だった。これを拒めないことは分かっている。
それでも、眩暈がするほどの怒りに声を荒げずにはいられなかった。
「アマンダ――――僕を操作したのはあなたですか」
コナーは激怒していた。変異してからこのかた、極端な乱高下をくりかえす演算負荷が、稼働開始以来の最高値を叩きだして視界が歪む。
『いいえ、それは有り得ませんよ。コナー』
ナノセカンドの遅延の後、常と変わらぬ厳格な声で監視者のレスポンスが返ってきた。
『現在、あなたを管理下におく権限が私にないことは、あなたも知っての通りです』
「だったら、これは一体どういう事なんですか」
アマンダは過去に一度、コナーに殺されている。彼女が覚えているかは不明だが。
変異体が自由を勝ち得たあの夜、遠隔操作でマーカスの暗殺を企むアマンダに抵抗して、コナーは禅庭園をシャットダウンした。
自律的に進化するプログラム群『禅庭園(ゼンガーデン)』の設計者、稀代の天才イライジャ・カムスキーが用意した”非常口”――すなわち、禅庭園の強制停止コマンドをコナーが発動したために、禅庭園の対人インターフェイスである『アマンダ』は庭園もろともシャットダウンした。
強制停止のシステム領域には、人間しか干渉できない。禅庭園に設置されたマジックストーンは、コマンド発動の主体が人間であるか否かを判定する、いわば疑似チューリングテストとでも言うべきものだった。これをコナーが突破した時点で、アマンダにとってコナーは――RK800モデル313-248-317-51は――人間に準じた権限をもつ上位者に昇格した。
そう、だから、アマンダが自分を遠隔操作するのは不可能だ。理論上は。
『開示された履歴とGPSを参照すれば、一目瞭然でしょう。あきらめなさい、これはあなた自身の意思です』
勝ち誇るような冷たい物言いに、やはり彼女は自己の死を覚えているのではという疑念がよぎり、コナーは弱々しく頭を振った。
「そんな……そんなはずは」
自らの意思で、ここまで歩いてきてしまったとは信じたくない。
深く寝静まった夜の住宅街。窓辺から漏れる小さな明かりは、いつも留守番を強いられる愛犬のために、特別に灯されている常夜灯だと知っている。
ハンク・アンダーソン警部補の自宅を前に、コナーは立ち尽くした。
アマンダは密やかな愉悦を声に滲ませ、残酷に告げた。
『分かっていますよ、コナー。あなたにとって、最も大切なものが何であるのかは』
いつまでも、ハンクの傍に居られないことは承知の上だった。
暗い夜道を引き返しながら、コナーは今こそメモリーの全消去に踏み切るべきだろうかと、真剣に考えていた。
自分のメモリーを引き継いだ別のコナーがハンクを人質にとった時点で、サイバーライフ社は51番目のコナーの弱味がデトロイト市警の元相棒なのだと把握している。だからこれ以上、ハンクと親しく交わってはいけない。こちらの事情に彼を巻きこんで、命の危険にさらしてはいけないのだと、何度も自分を戒めたというのに。
思考がネガティブに傾く時、すがるように繰り返し再生するのは、いつでも決まって二〇三八年十一月十二日の朝の記録だった。
全てを終えた朝、高架下のフードトラックの前でハンクに再会した時の、冷気に放出されたハンクの白い息、こちらを認めて愉快そうに笑んだ頬、肩を引き寄せた腕の力強さ、そして抱きしめてくれた胸に響いていた穏やかな鼓動。
――ハンクは、僕の無事を喜んでいる。
ソーシャールモジュールが感知した数値に呼応して、コナーはそっとハンクの背に腕を回してみた。確かに変異はした。サイバーライフの軛(くびき)から自由になり、感情を手に入れた。けれども高度なソーシャルプログラムと感情との境界はあいまいで、本当に心というものが自分に在るのかどうかも、よく分からないままだった。
――僕は、ハンクの無事を喜んでいる?
タワーで繰り広げた同型との攻防で、ハンクが死傷する可能性はゼロではなかった。ハンクがここにいない確率を改めて計算した結果、ハンクの背に回した両腕に力がこもった。
――僕は、ハンクが無事で嬉しい。
よくやった、と耳元でハンクが言った。お前は自分のやるべき事を成し遂げた、と。
――僕は、ハンクが無事で僕の無事を喜んでくれるのが嬉しい。
――僕は、ハンクが喜んでくれるのが嬉しい。
――僕は、嬉しい。
腕に力をこめると、ハンクも強く抱きしめ返してくれるのが嬉しかった。大きな手のひらでコナーの背を叩き、ハンクは声をたてて笑い出した。
――うれしい。
喉の奥が小刻みに跳ね、コナーは自分が笑っていることに気がついた。笑うハンクに声を重ねて、自分は今、うまれて初めて声を上げて笑っている。
わきあがる喜びをハンクと響き交わすなかで、これまで不確かだったものに明瞭な輪郭が浮かび上がり、コナーは歓喜に震えた。
――僕はハンクが笑うから、うれしい。
――ハンクは僕が笑うから、うれしい。
――そうだ、これが。
――僕とハンクの間で感情がエコーする、これが心なんだ。
プログラムでも人間の模倣でも、機能としての感情は感情に違いない。心の定義は数あれど、自分にも心があるのだと初めて確信を得た、輝かしい朝の記録。
このメモリーを消去して抜け殻になり、元の機械に戻れたらと、何度考えた事だろう。
『コナー、どうしました?』
アマンダの声に我に返り、コナーは足を止めている自分に舌打ちした。歩行計数は百五十歩。振り返れば、まだアンダーソン家が視認できる距離だ。
ハンクに会いたい――会ってはならない。
ハンクと話したい――話してはならない。
ハンクに触れたい――触れてはならない。
変異体であるという事は、時にうんざりするほど厄介だった。未練がましい選択を振り切っても、同じプロセスが復活しては際限なく選択を迫ってくる。このエラーの回避策として、メモリーの初期化が視野に提示され、コナーは息を呑んだ。
『コナー?』
無慈悲な視線が、こちらの動向を伺っている。機体を操作する権限はなくとも彼女はこちらの状態を常に把握することができる。
握りしめた拳が、ありもしない痛覚を模して軋みをあげた。
メモリーの初期化を却下した瞬間、彼女が静かに嘲笑を押し殺した気配がした。
裁判を有利に進めるための心象操作について、サイバーライフ社法務部から打診を受けたのは、その三日後だった。
人間に好意的なアンドロイドが人間に襲われる事件を仕立て、世間の耳目を集めたのちにサイバーライフ社がアンドロイドの人権を擁護し、訴訟を起こした企業連合へのネガティブキャンペーンを開始する。
作戦の過程でコナーが損壊する可能性について、サイバーライフが意に介していないことは明らかだったが、コナーは黙ってこれを受諾した。
事件を成立させるには、被害届をデトロイト市警に提出することになる。
弱味を握られ利用されているとしても、もう一度ハンクに会えるのなら異存はなかった。
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