HeavenlyBlue 04:長い夜が来る前に



 レールを切り替える微かな振動に目を上げると、舞い飛ぶ雪が窓の外を高速でよぎっていた。自動で連結を切り離し、別の路線へと遠ざかってゆく貨物車両を見送り、独り、コナーは無人の客車にたたずんでいた。
 ベル島地下のプラットフォームを発着するサイバーライフ社専用列車は、朝夕に限り通勤用の旅客車両が連結する。生体部品を積みこんで港へと向かう貨物車と別れ、デトロイト市交通局の路線に乗り入れる通勤電車は、終業直後の混み合う便にもかかわらず、コナー以外の乗客がいなかった。
 さすがに六度目ともなると、関連部署以外の人間にも噂は届くものらしい。これから襲われる予定のアンドロイドと乗り合わせ、巻き添えになりたい者などいるはずもない。いっそ潔いほど無人の車内に苦笑しながら、ブロードウェイ駅のホームに降り立った、その時だった。
――見られている。
 何者かの視線がコナーを捕らえ、背後に貼りついた。
 素知らぬふりで歩を進め、改札を出る。付かず離れずの最適な距離を保ち、ひっそりと後をつけてくる影に、コナーは警戒を強めた。
 今までの襲撃とは明らかに練度が違う。追跡者の足取りは、素人とは思えないほど尾行に慣れている。改札下のエスカレーター、エントランス、街路沿いの監視カメラを順に検索し、コナーは追跡者の特定にとりかかった。
 ハッキングしたカメラからの映像に、手持ちのリストを照合する――該当なし。
 やや猫背ぎみの骨格データと、せっかちな歩容からの照合にも――該当なし。
 白髪交じりの髪色と、栄養素の偏りで荒れた肌からの照合にも――該当なし。
 当然だ、合致するはずがない。確かにアンドロイド嫌いで偏屈だが、敵対的人物のリストからは程遠い、この世にたった一人の人間が自分の背後をつけている。
 歩調を変えずにビルの角を曲がり、コナーは後ろを振り返って可能な限り愛想よく告げた。
「こんばんは。こんな所で会うとは奇遇ですね、アンダーソン警部補」
「奇遇もクソもあるか。理由は分かってるんだろうが、この馬鹿」
 曲がり角で待ち受けていたコナーに片眉をあげ、ハンクは不機嫌な顔で吐きすてた。いったい何があったのか、この一週間でハンクのストレス値は恐ろしく増大していた。眠たげに垂れた目の下に、くっきりと浮いた黒い隈が強い疲労を物語っている。
 遅刻が常態の不良警官が相手では、意味のない牽制だと知りつつも、コナーは抗議した。
「何のことかは分かりかねますが、あなたはまだ勤務時間なのでは」
「パトロール中なんだよ。悪いか」
「そうですか。じゃあ、なんで僕の後ろをついてくるんです」
「たまたま方向が同じなだけだ。気にするな」
 歩みを速めても、ぴったりと真後ろをついてくるハンクに、コナーは懸命に計算をめぐらせた。職業柄、疑り深いハンクの気をそらすにはどうするべきか。少なくとも今この時に、こんな状態のハンクをつれて襲撃を受けるわけにはいかない。
「いい加減にしてください、僕はこれから友人に会う予定なんです」
「へぇ、友人ね。まさか、刃物を持ったお友達じゃあないだろうな」
「そんな物騒な相手を友人にした覚えはありませんよ。本当についてくるつもりなら、その怖い顔つきは止めてください。子供が怯えます」
「俺の顔が――何だって?子供?」
 どういう事かと困惑するハンクの手を引き、コナーは青に替わった横断歩道を渡りはじめた。
「行きましょう。もう、待ち合わせの時間から68秒の遅刻です」

 待ち合せの場所は、ブロードウェイ駅からオペラハウスへと向かう路地の片隅にある、小さなドーナツショップだった。瀟洒な赤い屋根の下、明るいショーウィンドウの向こうに昔ながらの素朴なドーナツが所狭しと並んでいる。
 その店舗の入り口に、細身の女性がコナーを待っていた。タイトなレザーパンツに黒のパーカー、剃った眉に銀のピアスを幾つも連ね、黒々と目蓋を彩るアイシャドウで道行く人々を威圧するように睥睨している。短く刈りあげた髪の色は鮮やかなピンクだった。
「ずいぶんと気合の入った友達だな」
「聞こえますよ、彼女は耳がいいんです」
 小声で評したハンクの脇腹を肘で小突き、コナーは片手を挙げた。
「やあ、ジョイス。待たせてすまない」
「162秒の遅刻。悪いね、あいつら待ちきれずに店に入っちゃったよ」
 挨拶をかわしながら、なにげなく相手の肘をつかんだコナーにハンクは目をみはった。派手な化粧に、舌を巻き気味の話し方、どこからどう見ても人間にしか見えないが――
「……まさか、アンドロイドなのか?」
「彼女ほどの改造は珍しいですが、リコールの際に外見をカスタマイズして難を逃れた変異体は多いんですよ。同じ顔が何人もいれば、見ただけでアンドロイドだと分かってしまいますから」
 データ通信を終え、コナーは腕を放した。
「今回のリスト更新はこれだけだ。いつもの通り、他の仲間にも配布を頼むよ。何か問題は?」
「リアムが今日、ジェリコの変異体と揉めた」
 値踏むように、ちらりと横目でハンクを睨みつつ、アンドロイドは肩をすくめた。
「ジェリコの連中はおせっかいなんだよ。人間と一緒にいるだけで、目を覚ませだの自由なんだの説教してくるし。それで止めにはいったリアムと喧嘩になった」
「わかった、リアムと話してみるよ。彼はどこに」
「店のなかで双子にドーナツ買わされてる」
 親指を立てて示した背後のショーウィンドウに、両腕に一人ずつ同じ顔の少年をまとわりつかせた青年の姿が見えた。ひとつ頷いて店内へと入っていったコナーに続いて、足を踏み出したところでハンクは顔をしかめた。
「お嬢さん、こいつは何の真似だ」
「コナーは味方だとしか通信で言わなかったけど」
 ハンクの進路をさえぎって、アンドロイドが足先でドアを押さえていた。
「リストに載ってないからって信用できるとは限らないしね。だから入店はお断り」
 強い警戒心を隠しもせず、斜に構えて動く様子もない。細くすがめた目の奥で、冷たい機械の視線が念入りにこちらをスキャンしている事を感じとり、ハンクは身を引いた。
「さっきも言ってたな。リストってのは何だ」
「アンドロイドに暴行したり、ハートプラザで反アンドロイドの集会やってる人間のリスト。ジェリコで共有してるデータを、コナーが届けてくれてる。知らないの?」
「初耳だ。あいつは、いつもそんな事やってるのか」
「他にも、ジェリコを頼りたくないアンドロイドのために、ブルーブラッドや生体部品の調達をサイバーライフと交渉してくれてる。だからコナーには感謝してるよ、本当に」
 市内に五ヶ所あったサイバーライフの直営店をはじめとして、アンドロイド関連の施設は今も閉鎖されたままだ。メディアの注目を集めるジェリコには多くの支援物資が寄せられているが、ジェリコと距離をおく変異体には個別の支援など届かない。
 さまざまな事情で孤立している変異体にとって、サイバーライフ社とジェリコの双方に通じているコナーは頼れる存在なのだろう――――だが。
「そう言うわりには、あんまり喜んではいなさそうだな」
 ハンクは眉根を寄せた。謝意を示しながらも、アンドロイドの言いまわしには含みがある。
「まあね。世話を焼きすぎるのは、ジェリコもコナーも似たようなもんだからさ」
 アンドロイドはしみじみと、いやに人間臭い溜め息を落として再び肩をすくめた。
「あんたが本当にコナーの味方なら、頼みがあるんだけど」
「頼み?」
「迷惑だって、コナーに伝えてくれないかな」
 容赦のない言いざまに、ますます顔を険しくしたハンクを見て、アンドロイドは面白そうに唇の端を吊り上げた。

 ドーナツショップを後にした頃には、完全に陽が落ちていた。
 オペラハウスを過ぎてダウンタウンの東端へと続く区域は、裁判所をはじめとした司法関係のビルがひしめいている。雪がちらつくオフィス街は、明かりが少なく行き交う人もまばらだった。
 後ろをついてくるハンクは気難しい顔のまま、ずっと黙りこんでいる。
 ぽつりぽつりと等間隔に街灯が照らす路地を歩きながら、コナーは語った。
「ウィリアム・バークは腕のいい技術者なんですよ。西部工業地区で中古アンドロイドの販売と修理を手掛けていて、早くから変異体の存在に気づいていた人間の一人です」
 十一月のリコールの際、修理に預かっていた子供型アンドロイドが変異体だと知っていたリアムは、アンドロイドを自分の弟とそっくり同じ姿に”修理”した。それをきっかけに、リアムの姉がジョイスのコピー元を申し出て、さらに父と祖母も他の変異体に容姿を提供した。修理不可のため廃棄したと書類を整え、体温検査を人間側の家族で受けてしまえば、同じ顔のアンドロイドを見かけても機械だと疑う者はまずいない。こうして軍の回収が間近に迫るなか、人間とアンドロイドによる鏡合わせの家族が誕生した。
「その中心になっているのが、リアムの弟と事の発端となったYK500です。彼らは自分たちを血の色が違う双子だと言って、週末にウッドワード通りでフリーハグを行っています」
「フリーハグ?このご時世にか。そいつはちょっと危険すぎやしないか」
 狙い通りにハンクが反応して、シリウムポンプの鼓動が速くなる。異常な速度上昇を強制的に正常値に戻し、コナーは穏やかに調整した声で答えた。
「そうでしょうね。だから彼らは、どちらが人間で、どちらがアンドロイドなのかを明かさずに通行人とハグを交わしているんです。人間を傷つければ犯罪だ。見分けがつかなければ、反アンドロイド派といえど簡単には手が出せない」
「危ないのは人間だけじゃないだろ。ジェリコと揉めたと言ってなかったか」
「見た目のせいで、ジョイスは態度を誤解されがちなんですよ。ですから――ハンク、あなたにお願いがあります」
 足を止めて、ゆっくりと振り向く。
 街灯の光を背に、陰影を濃くしたハンクの表情は読み取りにくい。それでも勝算はあると信じたかった。統計による確率は71パーセント。この数値が高いのか、それとも低いのか、それすらも判断がつかないのは初めての経験だ。
「今日は頼まれ事の多い日だな。何だ、言ってみろ」
 薄暗がりのなか、ハンクは苦笑したようだった。
「あなたのパトロールの途中で、彼らを見かけたら声をかけてあげてください」
「それだけか?それなら、お前に言われなくても、そうするつもりだったんだが」
「先週からマーカスは本格的に政府との交渉に入っています。この時期に、あえて事件を起こしたい変異体はいません。警官と顔見知りというだけでも、充分な抑止力になるんですよ」
 慎重に、ソーシャルプログラムが算出した愛嬌のある仕草をそえて念を入れる。
「残念ながら、ジョイスはヘヴィメタルよりもテクノが趣味だそうですが、リアムと双子はあなたと同じデトロイトギアーズのサポーターです」
「そいつは気が合いそうだ」
 そっけないハンクの返答には、昔を懐かしむような切ない響きがまじっていた。我が子を亡くした悲しみに、ハンクは癒えない傷を負っている。その痛みを、同じ年頃の子供を使って呼び覚ます行為が、残酷で卑劣だとわかっていても手段は選べなかった。
 さりげなく視線をめぐらせ、コナーは周辺状況を確認した。オフィス街といえど、このあたりは監視カメラの数が少なく、市警の巡回ドローンのルートからは外れている。
 ここが限界だ。ここから先に、ハンクを連れてはいけない。
 今なら、ハンクの意識は過去の記憶と父親としての情に傾いている。このまま上手く誘導すれば、予定通り無事にハンクを帰すことができるはずだ。
「そういえば、あのお嬢さんに渡したリストってのは、お前も持ってるんだよな」
「ええ、それが何か」
 不意の質問に、再びシリウムポンプの速度が跳ねあがった。動揺を悟られてはいけない。ハンクが何を疑問に思おうが、それは杞憂だとたしなめて冷静に振舞わなくてはならない。
 分かっているのに、どうしても抑えきれずに肩が震えた。
「そうか、だったら教えてくれ」
 気に入らないふうに鼻を鳴らし、ハンクは悠然とコナーとの距離を詰めた。影になった表情のなか、青い瞳が真っ直ぐにこちらを見据えている。
「このあたりに、今、リストに該当する人間は何人いるんだ?」
「何の……話ですか」
 コナーは一歩、後退った。その一歩を詰めて、ハンクがさらに迫ってくる。
「とぼけるなよ。これまでにお前が襲われた状況を、五件とも洗いなおした。サイバーライフがお前に用意した”社宅”は豪勢だな。まんまと煽られた馬鹿な連中も、ご立派すぎて手が出せなかったんだろう」
 人間づらをした生意気なアンドロイドの住処を突き止めた――サイトに晒されたコナーの住まいは、サイバーライフ社が来賓のために常時リザーブしているホテルのスイートルーム、招聘した研究者が長期滞在するための高級コンドミニアム、支社や工場から異動してきた社員向けの家具付きアパートメントなどだった。アンドロイドのせいで失職した人間からすれば、逆恨みに値するほど贅沢な住居だ。当然、警備員や防犯カメラによるセキュリティのレベルも高い。
「だから、お前が襲われた場所は五件中四件が最寄り駅を出た直後だ。サイバーライフの専用列車は目立つからな、駅で張ってりゃ必ずお前を見つけられる。ただし、最後の一件は別だ」
 ハンクの力強く大きな手が、コナーの腕を捕まえた。
「お前が指を切り落とされた一件だけは、ごく普通のアパートだった。カメラも警備員もない、襲ってくださいと言わんばかりの無防備な場所だ。実際、襲撃犯の人数も多いしな。今回も同じようなアパートだと知って、例のサイトじゃお祭り騒ぎだぞ」
「――手を離して下さい、ハンク」
 弱々しく、コナーは懇願した。焦れば焦るほど、さらに一歩、逃げるように足が後ろに引いてしまう。
「いいか、コナー。馬鹿な真似は止めろ。自分が何処で襲われるか、誰が襲ってくるのかも全部わかっていて、襲われてやるのは命の無駄だ」
「離して」
「過激な連中は、今度こそお前を完全破壊してやると息巻いてる。それでも家に帰る気か」
「離してください!」
 こらえきれずにハンクの手を振りほどいた、次の瞬間、全てが動きだした。

 路地の影から飛び出してきた人間が一人。反対の側道からは二人。
 アンドロイドに詰め寄るハンクを見て、ひと足先にパーティを始めた飛び入り参加者だと勘違いしたのだろう。隠し持っていた武器を手に、次々に攻撃をしかけてくる。
 武器はそれぞれ、ナイフ、スタンガン、ネイルハンマー。最も効率的な動き方を求めて、シミュレーターが演算を開始する。
 右手から襲いかかってきた男の腕を肘で跳ねあげ、ナイフを弾く。同時に振り下ろされたネイルハンマーを避け、勢い余った二人目が最初の男にぶつかるように半身を引いた。
 だが、三人目の処理に入る前に、新たな一人が視界の端に映りこんだ。
 ジェリコのリストに記載された反アンドロイド派――急速に接近してくる人物を追加して、シミュレーターが再計算に入る。
「コナー!」
 ハンクが呼んでいる。けれど、そちらを振り向く余裕はなかった。転倒した二人と駆け寄ってくる一人、振りかざされたスタンガン。シミュレーターが導きだした二百八十四通りの未来予測のうち、損傷せずに攻撃を回避できるルートは五つしかない。
 違法改造されたスタンガンが予測通りの軌道を描いて振り下ろされる様を横目に、転倒から起き上がった二人の処理を計算しながら回避のタイミングを計っていた、その時だった。
 スタンガンの軌道に人影が割り込んだ。
「――――ハンク!」
 コナーをかばうように腕を広げたハンクは丸腰だった。勤務時間中ならば、市警の制式銃を携行しているはずだ。なのに何故、ハンクは銃を抜かないのか。
 疑問に思うと同時に、肩越しに振り向いたハンクと目があった。偶然ではない、確信をもって行動している者の目だ。
 ハンクは、自分を犠牲にするつもりだ。
 人間を傷つければ犯罪だ。ましてや警官への暴行は、捜査も追及も格段に厳しいものになる。器物損壊の罰金刑で済んでしまうアンドロイドへの暴行とは、罪の重さが違うのだ。警察という組織の威信にかけて、パーティの参加者は一人残らず逮捕されるだろう。
 コナーは手を伸ばした。かろうじて届いた指先を、ハンクの襟首にひっかけて引き寄せる。体勢をくずしたハンクの身体の向こうから、火花を散らす改造スタンガンが突きだされた。
 激しい衝撃。過電流。メモリの一部が消し飛ぶ白い感覚。
「コナー……!この、クソ野郎が」
 ノイズに歪む視界の向こうで、ハンクが誰かに拳をふるっている。その背後から忍びよる四人目の男に、コナーは体当たりした。口汚く罵る男とともに路上に転がり、横倒しになった視界のまま緊急通報番号911をコールする。
 署から救援が到着するまで、最短でも五分。
 絶望的な予測にコナーはあえいだ。シミュレーターが計算できるのは、せいぜいが十秒後の未来だ。しかも対象者が三名以上の場合には、個別の演算で導きだされた予測結果を、さらに掛け合わせる作業が必要だった。実際には実行不能な選択肢を振るい落としても、派生する未来は億を超える。
 よろめきながら立ち上がり、コナーはシミュレーターを起動した。五分間、億を超える未来を計算しつづけた先に、ハンクが無事なルートは存在するのか。
 わからない。わからないけれども、やるしかない。
「警察――に通報した……ぞ、今すぐ暴力行為を止め、るんだ」
 敵に向けた警告は、音抜けがひどく言語の体を為していなかった。スタンガンの影響で、プログラムの処理速度が低下している。
 コナーは即座に発声に関するプロセスを削除した。削除した分のリソースを、そのままシミュレーターの高速化に割り当てる。
――大丈夫。怖くなんかない。
 まばたきに関するプログラムを、呼吸を制御するプログラムを、表情を司るプログラムを、未来予測には不必要な人間らしさを消去して、コナーはシミュレーターを最大限まで加速した。
 ハンクを囲む人の輪が崩れる。
 起き上がったコナーに気づいた一人が、ターゲットをこちらに変えた。確定した条件をもとに、億の未来が絞りこまれて五十六の選択肢が提示される。
 まずは一人。向かってくる相手の動きにそって、シミュレーターが示すガイドラインの通りに足を踏み出した。すれ違いざまに肩を当て、つま先で相手の足をかすめ転倒させる。アスファルトに跳ねたハンマーを排水溝へと蹴りとばし、次の処置に入る寸前、路地の向こうから新手があらわれた。
 悪意とは、野火のように広がるものだ。
 サイバーライフがお膳立てした襲撃は最初の二件のみ、以降は全て何者かによる便乗だった。社員として厚遇されている裏切り者のアンドロイドを、不愉快に思う人間は社内にも多い。
 ハンクの指摘どおり、回数を重ねるごとに襲撃者の人数は増える一方だった。
――シミュレーターの再計算を。
 たった一人、計算要素が増えただけでも億の未来は兆の可能性に膨れ上がる。仮想メモリを拡げるため、コナーは記憶領域の削除を開始した。
 ダウンタウンで変異体が少女を人質にとった事件の記録。雨の降るなかバーを五軒まわった移動履歴。廃屋に身をひそめていた変異体の分析データ。手を取りあうトレイシー達への戸惑い。あれでよかったのかもなと小さく笑ったハンクの後ろ姿。
 続々と記憶を消し去り、メモリーが空白に染まってゆく。
――まだ足りない。
 ちらつく雪が、いつの間にか激しさを増していた。この雪が現実に降るものなのか、メモリーの欠如によるものかも分からないまま、ひたすらシミュレーターを加速する。
――もっと速く。
 処理落ちを避けるため線画になった世界のなかで、敵とラベルされた個体が蠢いていた。脅威の度合いを判定して、そのつど修正をかけた結果を仮想メモリに書き込みながら、コナーは動いた。
 滑稽なほど遅い敵影の向こうで、保護対象のラベルを冠した金色のシルエットが叫ぶ。
「コナー!後ろだ」
 身をひるがえし、背後の路地から出現した新規の敵を捕捉した。さらなる再計算にシミュレーターが軋みをあげている。兆の可能性に新たな要素が加わった時、起こり得る未来は無限に等しい。キャパシティを超えた演算に、最後のメモリーが飛んだ。

 輝かしい冬の朝。力強く温かい腕のなかで。
 目を閉じて感じた、このひとでなくてはいやだという――はじめての感情。

 誰かが自分を呼んでいる。
 金色のラインで象られた、保護対象のシルエット。彼を護ることが最重要の任務であることは間違いない。けれども、

――このひとは、いったい誰なんだろう。

 疑問は、おしよせる演算の波に白く塗りつぶされて消滅した。

 遠く電子の海の何処かで、誰かが無慈悲な笑みを漏らした気がした。