HeavenlyBlue 04:長い夜が来る前に



 自己診断プログラムが、凄まじい勢いで大量のアラートを表示していた。
 右前腕部損傷74パーセント、異物による腹部大動脈の破断、ブルーブラッドの流量減少とシリウムポンプの速度低下。軽微な損傷は35箇所、重篤なエラーが12件。
 倒れこんだ機体に駆け寄る足音を、聴覚プロセッサが感知する。
「……ナー!ああ、なんてこった」
 瞼を開くと、こちらを覗きこむ人間と目が合った。白人男性、年齢は50代前半――ネットワーク接続の切断により照会はできないが、脇のホルスターに携行している拳銃はデトロイト市警の制式銃と一致する。
 男性をスキャンして、その輪郭が金色に輝くことを確かめ、コナーは安堵した。
 警護対象は無傷だった。戦闘の結果は、死傷者ゼロ。すべての敵は意識喪失の状態で無力化されている。
 シミュレーションの実行は成功した。やるべきタスクは、もう何も無い。
「くそっ、目を開けろ。なあ、頼むから目を開けてくれ」
 閉じかけた瞼を再び開くと、男性のバイタルが大きく揺れた。ソーシャルモジュールの判定は、強い悲しみの情動。何が彼を悲しませているのか、原因を探ろうと視線を動かして、ようやくコナーは自分が横たわっている理由に気がついた。
 腹部の動脈を貫いて、突き立った一本のナイフ。ブルーブラッドの流出を少しでも止めようと、傷口を押さえた彼の手が青く染まっている。
――彼は、僕が死ぬから悲しいんだ。
 ブルーブラッドの残量が減るにつれ、シリウムポンプの鼓動が遅くなり、機体を動かすエネルギーが低下してゆく。ゆっくりと彼を見上げ、コナーは口を開いた。
「こんにちは。私はコナー、サイバーライフのアンドロイドです。あなたの名前は?」
「名前?お前、こんな時に何言って……まさか」
「シャットダウンまで、残り91秒です。あなたの名前を教えてください」
 人間は不思議な生き物だ。ただの機械に過ぎないアンドロイドの命を、こうして惜しんでくれる。だから、せめて彼の名前を知りたかった。
 けれども、この質問は失敗だったようだ。
 信じられないものを見るように、彼が大きく目をみはる。つかの間、息を呑んで動きを止めた彼の、震える手がコナーの頬を包みこんだ。
 青い血に染まった親指が、優しく頬をなぞる。何度もそうしてようやく、彼が名前を告げた。
「ハンク。ハンク・アンダーソンだ」
 ハンク――ひと連なりの音節を認識した瞬間、形のない何かが胸を打った。
 遠いこだまのように響く、ぼんやりとした何か。その何かがプラスチックの機体を共振させ、残りわずかなシリウムを沸きたたせ、プログラムをざわめかせている。
――彼は悲しい。
 悲しいとは何だろう。相手の感情を鏡のように模倣する、初歩的な心理テクニックはソーシャルモジュールに搭載された機能のひとつだ。
――彼が悲しいと、僕も悲しい。
――僕は悲しい。
 コナーは瞬いた。ハンクの青い瞳から、静かに光が消えてゆく。絶望にうちひしがれた彼の姿に、正体不明のざわめきが渦を巻いて唸りをあげ、胸を突きあげた。
――僕は悲しい。 
――でも違う。僕の悲しいは、彼の悲しいと同じじゃない。
――彼が悲しいと、僕が悲しいんだ。
 自分ではない誰かとの狭間でせめぎあい、響き渡るもの。それが声もなく叫んでいた。
――悲しいのは、嫌だ。
――嫌だ。僕は彼が悲しむ原因になんか、なりたくない。
 声なき声に突き動かされ、コナーはナイフに手をかけた。驚いたハンクが制止するよりも速く、ありったけの力を込めてナイフを引き抜いた。

 ナイフの刃で堰き止められていた動脈から、青い血が噴きだした。急激な出力低下に、シャットダウンまでのカウントが一桁へと飛んだ。
「ハンク。僕は、再起動します」
 OSが立ち上がるまでに血が流れすぎれば、エネルギー不足で再起動は失敗するだろう。それは、二度と目が覚めることのない死の眠りだ。
「名前、呼んでください」
 重い瞼に逆らいながら、コナーはハンクに囁いた。もう、音量を上げるだけの余力は残っていない。
「コマンド――目を、開けろって。さっき、みたいに命令して」
 そこまで言うのが精一杯だった。ゆるやかに瞼が閉じて、コナーはシャットダウンした。