HeavenlyBlue 04:長い夜が来る前に



 呼べというから、名前を呼び続けて二十三回。亡き息子の最期が脳裏をよぎり、背中に冷たい汗がにじむ頃、唐突にアンドロイドが目を覚ました。
「……ハンク」
 不思議そうに瞬いて、ブラウンの瞳がハンクを見上げる。
「もしかして、泣いているんですか」
「ああ?泣いてなんか――」
 いない、とは言えなかった。もはや汗だか涙だか分からない液体が、ぼたぼたと、こめかみから滴り落ちてコナーの額を濡らしている。
 慌ててコナーの顔をふき、ついでに自分の顔も袖でぬぐってハンクは大きく息を吐いた。
「くそったれ、誰のせいだと思ってるんだ。無茶ばっかりしやがって」
 雪が積もる冷たいアスファルトに尻をつけ、そのまま座りこむ。再起動とやらには成功したようだが、まだ嫌な動悸がおさまらない。身体を起こしたいのか、コナーはもぞもぞと動いていたが手を貸してやる気にはなれなかった。
「ブルーブラッドが不足しているため、起き上がるのは無理のようです。サイバーライフ社に回収を依頼しました」
 そのサイバーライフのせいで酷い目にあったというのに、コナーはまったく懲りていない。
「そいつは今すぐキャンセルしろ。修理なら、お前の友達を呼んでやる」
「友達――とは、誰のことです」
 聞き返したコナーの顔をまじまじと見て、ハンクはうめいた。まるで初対面のように名前を聞いてきた時点で、そうではないかと思ってはいたが。
「心配するな。腕のいい技術者って話だ」
 はぐらかしたハンクの携帯端末に、コナーの指先が触れた。ダイヤルを発信するより速く、通話画面が勝手に終了する。
「リアムのことでしたら、やめて下さい」
「おい、待て。お前、記憶があるのか」
「すみません、先程はご心配をおかけしました。サーバーに再接続したので、メモリーは全て回復済みです。貴方の名前も役職も、ジミーのバーで最後の一杯をおごったことも、ちゃんと覚えていますよ」
 今度こそ、本当に全身から力が抜けて、ハンクはぐったりした。頻繁に襲われて怪我をするわ、ぼろぼろの状態で愛を語るわ、あげく死にかけて記憶が飛んだかと思えば元に戻るわ――出会った時からそうだったが、こちらの心臓をわしづかみにして振り回す、コナーの無軌道ぶりは身体に悪い。
「今のところ、リアムはジェリコ以外の変異体が頼りにできる唯一の技術者です。そこへ僕が押しかけて迷惑をかける訳にはいきません」
「あのな、コナー」
 それがコナーだと言ってしまえばそれまでだ。けれど、少しは安心できる場所に居てほしいと願うのは我が儘だろうか。
「テクノが好きなピンクの髪のお嬢さんから、お前に伝言だ。贖罪で怪我をされるのは迷惑だ。どうせやるなら、好きなようにブッ飛ばせ。それで壊れたら、いくらでもウチで修理してやる――だそうだ」
 困惑したようにハンクを見上げ、コナーは気の抜けた声を出した。
「はあ、その、そんな過激な事を言われても」
「お前が普段やってることも、たいがい過激なんだがな」
 ハンクの評にコナーは不満げな表情をうかべたが、反論はしなかった。
「あと一分で通報を受けたパトカーが到着します。現場の検証と聴取を受けて、事件を成立させたら、僕はサイバーライフに戻ります」
 位置情報を取得しているのか、時折、コナーのLEDが黄色く明滅する。秒速数百億の処理速度を誇るアンドロイドの思考など、人間に理解できるはずもない。ただ、コナーに関して言えば事は単純だった。戻ると言ったからには、コナーは間違いなくサイバーライフに戻る気だ。
 この石頭め――ハンクは声に出さずに毒づいた。そちらがそのつもりなら、引きずってでも家に連れ帰ってやるまでだ。
「今夜の僕の行動を踏まえて、サイバーライフは法廷戦略を見直すことになるでしょう。それだけじゃない、僕が――僕がしたことは」
 コナーの手が伸び、ハンクの上着の裾をつかんだ。
「長い夜が来るんです」
 幼い子供のように、ぎゅっと裾を握った手は力の込めすぎで震えていた。
「僕の与えたデータで未来予測が変わってしまった。それでサイバーライフの方針が変われば、アンドロイドと人間の関係も変わってしまう。そこから僕が逃げ出すなんて事は許されない。そうでしょう?」
 しがみつくコナーの手に、ハンクはそっと手を重ねた。酒、自堕落な生活、ロシアンルーレット。他の誰が罰せずとも、自分を罰する自分から逃げることは不可能だ。コナーが何を恐れているのかは話が飛びすぎてさっぱりだが、その孤独は嫌になるほど知っている。
 だからこそ、ハンクは次の言葉を聞いて笑った。
「僕は僕にできることをしなくてはいけない。それで、あの……すべき事が終わったら、その時は、貴方の家に帰ってもいいですか」
 コナーは真剣だった。そこまで追い詰められた顔をしながら、優先順位の判定にしたがって最後に己の望みを付け足す合理性に、つい、吹き出さずにはいられなかった。
「ハンク、なぜ笑うんです」
「いや、何でもない。気にするな」
 ハンクは周囲を見まわした。パトカーのサイレンが、まだ遠い事を確かめてから、軽くコナーの唇にキスを落とす。
「お前が帰ってくるまで家で待ってる。この間みたいに、やり逃げするなよ」
「やりにげ」
 ぽかんと口を開いてコナーは言った。
「やり逃げというのは、継続的な行為の途中で離脱したという意味です。つまり――」
 くるくると高速で回るLEDリングが、一瞬だけ赤く染まる。首だけを起こして、コナーは叫んだ。
「キスには続きがあるんですか?」
「馬鹿でかい声で恥ずかしい事を叫ぶな」
 今の大声で、そこらに転がる襲撃犯が目を覚ましていないことを祈るばかりだ。けたたましくサイレンを夜空に響かせ、パトカーが次第にこちらへ近づいてくる。取り調べ中にコナーがろくでもない事を口走らないよう、ハンクは釘をさした。
「続きが知りたきゃ、家まで我慢しろ。いいな」
「はい」
 返事だけは素直なコナーに一抹の不安をおぼえつつ、ハンクは到着したパトカーに片手を振った。ハンク以外の全員が倒れている現場の状況に、車から降りた制服警官は目を丸くして戸惑っている。片付けるべき問題は山積みで、コナーの立場も自分の事情も劇的に変わることなどまったくない。それでも気分は悪くなかった。
 これから始まる長い夜を前に、ハンクはゆっくりと腰をあげて歩きだした。