Living Dead ”51st” 02

 ハンクは出かけてしまった。
 酒を――いくら戦闘状態にないとはいえ、依然として軍が市内に駐留している緊迫した情勢の最中に――酒を買いに出かけるだなんて、エキセントリックな行動にもほどがある。
 これも、ハンクらしいと言えばいいのだろうか。
 笑い出したい気分をこらえ、僕は両手で顔を覆い、ゆっくりと息を吸いこんだ。
 死者のログを渉猟して、デトロイトの街を彷徨い歩いた、あの夜。
 どうして最後にハンクに会いたいと思ったのか、理由が分かってしまった。
 彼の信頼に報いることができなかった。それを謝りたかったのは嘘じゃない。
 でも、それだけが理由ではない事に気づいてしまった。
 アンドロイド嫌いのくせに、アンドロイドを信じた彼が。
 死にたがりのくせに、僕に生きることを教えた彼が。
 矛盾の塊のような彼が―――恋しくて、ここまで来てしまったのだと気がついてしまった。
 失敗だった。僕は、ここへ来るべきじゃなかった。
 ハンクに会うべきではなかったのに。
 足元に息遣いを感じて目を開くと、スモウが僕を見上げていた。
「ごめん、スモウ―――君には心配をかけてばかりだ」
 僕の膝に前足をかけ、スモウは僕の顔に鼻面を近寄せた。臭いを嗅ぎ、温かい舌で僕の頬と顎を舐める。
 昨夜、ハンクが寝てしまった後も、スモウは何度もこうして僕を確かめに来た。
 揮発したブルーブラッドが、無味無臭で人間の目に映らないのは幸いだった。
 ハンクには発見されずに済んだけれど、ソファも毛布も、真夜中に僕が撒き散らしたシリウムの痕跡でひどく汚れていた。
『RK800モデル313-248-317-51停止時刻November 9,2038 at 10:28PM EDT』
 死者のログの最後の一行。僕自身の死亡記録。
 体内に異物が混入した場合に起こる嘔吐反射は、ジェリコの上甲板で僕が他者のブルーブラッドを吐き戻して以来、ずっとエラーを起こしたまま、実行タスクの一覧に残り続けている。
 "私の死を解析している私"は、果たして生きているのか死んでいるのか。
 "0"と"1"しかない機械の身体は、このパラドックスを解消するために、自己のブルーブラッドに刻まれた死者としての電子情報を、異物とみなして排出しようとしていた。
 眠るハンクの隣で、僕が青い血を吐くたびに、スモウは側に寄りそって様子をうかがい、やがて慣れたふうに鼻先を舐めて戻っていった。
 実際、スモウは慣れているのだろう。僕が初めてこの家を訪れた日も、ハンクは銃を弄んで死に損ね、床に引っくり返っていた。
「大丈夫。僕は、ここでは死なないよ」
 厚く滑らかな被毛をなでて、僕はスモウに言った。
 スモウは優しい。その飼い主と同じように。
 ジェリコの虐殺は、ハンクが捜査を外された後の出来事だ。その死の責任は、任務を続行していた僕のものであって、彼のものじゃない。
 それでも、ハンクは自分も同罪だと、僕と罪を分かち合おうとしてくれた。
 僕には、それで充分だった。これ以上、ハンクに迷惑をかけるわけにはいかない。
 柔らかいスモウの首を抱きしめて、僕は再び目を閉じた。

 

 グラフィックインターフェイスを介して、ネットワークに接続を開始した。
 サイバーライフの認証を通過して、禅庭園へのアクセスを要求する。通常なら高レベルのセキュリティコードを必要とする領域に、何の権限付与もなく放り出されて、僕は戸惑った。
 冬枯れの禅庭園は無人だった。全てが凍りつき、どこまでも白い。
「アマンダ?」
 管理者<アマンダ>をコール―――応答無し。
「アマンダ…―――何処です?」
 サイバーライフは変異のメカニズムを解明するため、生きた変異体を手に入れたがっていた。それは、マーカスが世界を変えた今でも同じはずだ。
 変異したと告げれば、アマンダは喜んで僕を回収し、解析し、適切に処分してくれるだろう。
「――アマンダ……!返事をしてください」
 凍りついた池の中央から、彼女の薔薇のトレリスが消えていた。
 色彩を失った庭園に、僕の声だけが虚しく響く。自分の墓標を前に、僕は立ち尽くした。
 舞い散る雪にまぎれて、いくつもの警告表示が僕の周囲を乱れ飛んでいた。
 左脚部駆動系の全損。重度の損傷が11箇所、軽微な損傷46箇所。システムエラーが19件。
 この状態で、僕が自力でアンダーソン家を去ることは不可能だ。
 じりじりとした焦燥が、ノイズとなって視野を歪めた。
 自分の咎ではない罪まで背負おうとする彼のことだ、僕が死ねば無用な後悔をするに違いない。
 だから僕は、ハンクの前では死ねない。
「――アマンダ!」
 無人の禅庭園に、音もなく雪が降り積もる。
 僕は彼女の応答を求めて、コールサインを繰り返した。

 体内のシリウム残存量は、3分の2を切っていた。