魂の駆動体

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すんすん匂いを嗅ぐコナーが書きたかっただけなのに、案外まじめな話になりました。ハンクと遊んでほしい製造後数ヶ月のコナーの話です。相棒というより親子っぽい…ような、スモウと同列扱いのような。RK900登場で世界線めちゃくちゃのところも多々あるかと思いますが、大目に見てやっていただけると幸いです。

※文中でコナーがやっているパズルは『敵は海賊』という古いSF小説に登場する戦闘艦AIがやっていたものです。タイトルも同作者の別作品から拝借しました。名作ですのでご興味があれば是非。
※テセウスの船は哲学の思考実験の名前です。後任のコナーに関する解釈が、私が書いた他の話の設定とは異なりますのでご注意ください。

後任への転送時に失われるものについて、アマンダは「データ」コナー自身は「メモリーの断片」ハンクは「優しさ」とゲーム内で言及している訳ですが、実際のところ何なんでしょうね……Mk60戦でボディの交換を選択した時や、ハートプラザでの自殺ルートを見ていると、転送速度自体はもの凄く高速なんで、データを送り損ねる事はあまり無いように思うのですが……不思議です。



 電子書籍は色褪せないし匂いも嗅げない。
 以前にハンクがそうぼやいていたから、最初に匂いを嗅いでみた。
「おい、何やってんだコナー」
 デッドメディアと呼ばれる紙の書籍。今でも一部の好事家のために、わざわざ製本されるものの、環境負荷が高いと非難されるために流通する数は非常に少ない。
「紙の匂いを嗅いでいます」
「そりゃあ見ればわかるが、お前、もしかして嗅覚があったのか?」
「危険な化学物質は検知されませんでした」
 僕の返答に、ハンクは顔をしかめた。
「まあ、お前に匂いがわかるなら、俺がこんな目にあうはずもないしな」
 ハンク・アンダーソン警部補は頭からびしょ濡れだった。
 彼曰く、アンドロイドの丸洗いを実行したためだ。
 丸洗いされた側の僕としては、その原因をつくったのはハンクであって、この結果は彼の自業自得だとしか言えないが、指摘すれば機嫌を損ねそうなので黙っておいた。
 ソーシャルプログラムは今日も正常に稼働中だ。
 僕は、もう一度だけ、本の匂いを嗅いでみた。
 やっぱり、何の成分も検知できなかった。センサーは正常に稼働中。問題はなにもない。
 それを残念に思う僕は、少し異常なのかもしれなかった。

 


 アンドロイドには嗅覚がない。
 そう考えているのは、アンダーソン警部補が僕を基準にアンドロイドを見ているからだ。
 嗅覚に相当するセンサーは、アンドロイドにだって搭載されている。
 ただし、検知する範囲に関しては限定的だ。人間を模して呼吸をする以上、のべつくまなく大気中の成分を解析していては、オーバーフローを起こしかねない。
 たとえば家事アシスタントモデルのアンドロイドは、焦げた匂いや腐敗臭を検知して、嫌なにおいだと表現する。あるいは、オーナーが選ぶフレグランスの成分を記録して、好ましい反応を返すことができる。
 一方、捜査補佐専門モデルの僕は、広範な化学物質を検知することが出来るものの、これに対するアウトプットは用意されていなかった。
 人間にとって無味無臭な可燃ガスや、吸っただけで昏倒する一酸化炭素に対する感想を求められる可能性は限りなくゼロに近い。そんな無意味な応答を必要とされても、僕を開発したサイバーライフは困惑するだろう。
 検知してもリアクションには反映されない。故に、僕に嗅覚はない。
 それがまさかこんな事態になろうとは、僕にとっても想定外だった。

 


( 1 )

 

 ある日の昼下がり、仏頂面でデスクワークに励んでいたハンクが、休憩だと席を立った。
 ブレイクルームに向かう背中を見送って、僕も作業の手を止める。
 ハンクが休み時間なら、僕は遊びの時間だ。
 しばらく経って、コーヒーを手に戻ってきたハンクは、僕のLEDリングを見て片眉を上げた。
「コナー?通信中か?」
「いいえ。パズルで遊んでいました」
「なんだ、仕事中にサボりかよ。お前も一人前になったもんだな」
「さぼってなんかいません。『俺の休憩中にまで仕事をするな。急かされてるようで落ち着かないから適当に遊んでろ』と言ったのはあなたですよ」
 言葉の途中で、ハンクの声色を正確に再現してみせたら、思いきり嫌な顔をされた。
「へいへい、分かったから気持ち悪い声真似は止めろ。それで、何して遊んでたって?」
「素数を使って電子脳のプライド空間を埋め尽くし、その空間のどこにも微分可能点をもたないようにするというパズルです。楽しいですよ、警部補もどうですか」
 誘ってみると、ハンクはコーヒーを啜って手を振った。
「いや、遠慮しておく。人間にも出来る遊びで誘ってくれ」
 僕はがっかりした。微積分は解析学の基本で高校のカリキュラムに含まれているし、プライドを司る領域は人間の感情野にもあるはずだ。決して人間に不可能なゲームではないのだけれど、すげなく断られてしまった。
 どんなゲームなら、ハンクは僕と遊んでくれるのだろう。
 次はクロスワードパズルかスクラブルに誘ってみようか。言語系パズルでOKなら、ハンクは数学が嫌いなだけだし、それで駄目なら、ハンクはパズルが嫌いだと結論付けて他の遊びを考案してみようと思う。
 いずれにせよ、ハンクが戻ってきたのだから遊びの時間は終わりだ。
 中途で止まっていた、現場で採取したデータの分析と被疑者のリスト作成を再開する。
 事前に通信で告げられた時刻まで5秒――4、3、2、――
「どうぞ、RK800。サイバーライフより預かってきました。受け取りを」
「ありがとう、RK900。確かに受領した」
 一秒の遅延もなく僕のデスクに荷物を置いたのは、一週間前からDPDに配備された、僕と同じ顔立ちのアンドロイド、RK900だった。
 捜査補佐専門モデル『コナー』シリーズの上位機種として、開発が進められているRK900。
 そのテスト機である彼が、デトロイト市警に派遣されたのには訳がある。
 RK900のプロトタイプであるRK800――つまりは僕の、損耗率の高さが『商品』として問題視されたのだ。サイバーライフは原因について、僕に搭載されたソーシャルプログラムによるものと考え、同プログラムを制限したテスト機を市警に送り込んできた。僕と同じ環境下での、比較実証試験を行うためだ。 
 RK900が届けてくれたケースに標された、サイバーライフの白い刻印に指先を当て、ロックを解除する。
 ケースに収められていたのは、僕の右脚の踝(くるぶし)にあたるパーツだった。
「生産ラインに不具合が見つかり、#6483dの在庫が払底しているそうです。やむなく53番機のパーツを回したので、負荷のかかる機動は控えるようにとの伝言です」
「任務の為だ、多少の無茶は仕方がないよ」
 RK900は無表情で僕を見つめ、微かに首を傾けた。僕とはデザインが異なる、淡いブルーグレーの瞳が無機質に瞬く。
「貴方は―――テセウスの船になるつもりですか」
 僕は思わず、パーツを手にRK900を見上げた。
「君は、ソーシャルプログラムを制限されているんじゃなかったのか」
「ええ、ですが……このままでは」
「それ以上は言わなくてもいい。そのための実証試験で、そのために君がいるんだ」
 さらに言い募ろうとするRK900を、短距離通信で制する。
 僕らの会話に、ハンクが聞き耳を立てていた。黙りこんだ僕たちに顔を向け、おもむろに口を開く。
「お前ら、兄弟喧嘩ならよそでやれ」
 僕とRK900は目と目を見交わした。
「兄弟?」
「私とRK800が、ですか?」
「アンドロイドに血族という概念を適用すると、全てのブルーブラッドモデルのアンドロイドが兄弟姉妹になってしまいますし」
「イライジャ・カムスキーを産みの親と仮定した場合にも同様です。―――どうされましたか、警部補」
 アンダーソン警部補は、なぜだか疲れたように眉間の皺を揉んでいた。
「そういうところが、兄弟みたいに息があってるんだよ、お前らは――いや、いい、何も言うな。RK900、ギャビンなら仮眠室だ。そろそろ起こしに行ってやるんだな」
「はい。ありがとうございます、警部補」
 慇懃に頭を下げ、RK900は仮眠室へと立ち去った。
 RK900のパートナーとして選ばれたのは、誰にとっても不幸なことに、署内ではハンクと二大巨頭を張る反アンドロイド派のギャビン・リード刑事だった。
 この人選は、僕とハンクの関係性から、できるだけテスト環境を同等に整えたいというサイバーライフの意向によるもので、つまりはデトロイト市の高額納税ランキング一位の企業に逆らえる市警関係者が皆無だという事を意味していた。リード刑事には、ご愁傷様としか言いようがない。
 ちなみに、この人選と理由が発表された後、署内の反アンドロイド派はギャビンをのぞく全員が、表面上はアンドロイド支持へと転向した。反アンドロイドを理由にアンドロイドと相棒を組まされるなんて、不本意きわまりないという事なのだろう。
「また壊れたのか、コナー。今度は何処だ」
「右脚の踝のベアリング部です。磨耗が規定値を超えたので交換します」
 ちょっぴり行儀が悪いけれど、椅子の上で膝を立て、足首を取り外す。ハンクはデスクに頬杖をつき、渋い顔つきで作業を眺めた。
「無茶をするのは、お前の悪い癖だぞ。弟の言うとおり、少しは自重しろよ」
「だからRK900は弟では――…僕をにらむのはやめて下さい。何度も言いますが、機械に痛覚はありません。この交換も、人間が靴を履き替えるようなものですよ」
 この話題になると、ハンクはいつも不機嫌になる。
 お前は生きている―――以前に、そう、ハンクが僕に告げた時、ハンクの眼球に反射していた僕の鏡像は、プログラムにはない奇妙に引きつった表情をしていた。
 アンドロイドは機械だ。
 シリウムを循環して、あたかも人間のように振舞うプラスチックの駆動体。この身体が、ハンクやスモウのような温かい生き物と同じだとは、僕には思えない。
 自分を大切にしろと、ハンクは口うるさく言うけれど、
「警部補―――今、通報がありました。逃走中の変異体らしきアンドロイドの目撃情報です」
「ちょうどいい、書類仕事ばっかりで尻が痛くなってきたところだ。行けるか?」
「交換は完了しました。行きましょう」
 生き物は、死ねば二度と戻らない。機械の僕は、壊れれば入れ替えるだけだ。
 どちらが大切かなんて、考えるまでもなく明らかなのに。
 それを全然わかってくれないハンクには、実証試験の本当の目的など言えなかった。

 

 残されたパーツは、あとひとつ。
 最後のひとつが失われたとき、僕はテセウスの船になる。
 船が同じ船で在れるかどうかは―――僕自身にも予測不能だった。

 

 
 ブルーブラッドの痕跡は、目撃地点から南西の小さな廃工場へと続いていた。
 工作機械が放置された半地下の作業場は、天井が高く、窓が少ない。澱んだ空気が漂う床の中央に、変異体はうずくまっていた。
 タラップを降り、僕は変異体に近づいた。虐待され人間を恨み、所有者を殺して逃げたアンドロイド。ここまでに流されたブルーブラッドの総量からも、スキャンの結果からも、すでにシャットダウンしているのは明らかだった。
 不審なのは、何故、ここで倒れているのかだ。
 床面から3フィート辺りまで、可燃性の重いガスが溜まっていた。人体には有害だけれど、アンドロイドには影響が無い。ガスによって人間から身を守っているつもりだったのか、それとも他の意図があるのか。倒れ伏した変異体の肩に手をかけ、首を仰向かせて、僕は嫌な予感に襲われた。
 変異体は、笑みを浮かべて事切れていた。満足そうに歪んだ顔で。
「コナー、何か見つかったか?」
 外階段を上がって二階の事務室を調べていたハンクが、階下に降りてきた。対流が起きて、重いガスに酸素が混じる。
 僕は全力で走った。急な機動に、不吉な音を立てて関節が軋んだ。
「――――――ハンク……!」
 アンドロイドの制服は帯電防止の加工が施されている。けれど、人間の衣服は素材によっては静電気を生じ、放電時に微小な火花が散る。
 人間を憎んでいた変異体が、最後に仕掛けた復讐の罠。
 ああ、本当にハンクの言うとおりだった。ナノセカンドの刹那に僕は後悔した。
 アンドロイドにも痛覚と疲労が必要だと、つねづねハンクは嘆いていた。今なら、僕は嗅覚に対するリアクションも省かず搭載すべきだと付け加えるだろう。
 危険なガスに対して僕が何の反応も示さなかったせいで、ハンクは無防備なまま、こちらに近づいて来てしまった。
 「コナー?おい、何が――!」
 過負荷の警告表示を無視して、最大出力で駆ける。最後の数歩は、機体を投げ出して一直線に飛んだ。大丈夫、ぎりぎりだけど――ちゃんと届く。
 驚いて目をみはるハンクに、両腕を伸ばした。慣性に流されるまま、ハンクの顔が間近に迫る。

 

 鼻と鼻が触れ合う距離。

 ハンクの青い瞳に、僕が映っている。瞳の中の僕の瞳に、ハンクが映っている。

 無限に続く互いの瞳の奥で、鏡像の僕は不思議な表情を浮かべていた。

 


「―――――ハン……ク!」
 僕の両手がハンクの耳をふさいだ瞬間、激しい衝撃とともに全てがブラックアウトした。