嘘歌 -翼折れた鳥の歌-




 その昔、世界は何処までも広く、一点の曇りなく明瞭だった。
 水が高きより低きに流れるごとく、雨の一滴がいずれ大河になるように、すべての条理は掌の上に在り、
 研ぎ澄まされた思考は、はるか高みからの眺望のように、あらゆる事象を眼下におさめていた。
 叡智という名の知力の翼。
 飛べなくなったのは、いつからだろう。
 どれだけ集中を重ねても、羽ばたく距離はごく僅か。咳きこみ、熱に魘され、軋む肺に身を捩り。
 血を吐きながら失速して、それでも鳥は智謀を歌う。

 翼折れた鳥が歌う、嘘の歌。






 

[ 1 ]


 策が提示された瞬間、広間の床がどよめきに震えた。
 諸将の動揺を一瞥して、つんと澄ました笑みをうかべる軍師に溜め息がでる。
「半兵衛、本気か?」
「もちろん。僕が冗談を言っていると思うのかい」
「いや……」
 大規模な戦を発する軍議の席だ、真面目でなくては大いに困る。
「何か問題でも?」
 神算鬼謀並ぶ者なく、深慮遠謀に敵う者なし。
 表情を隠す仮面の下で、いったい何を考えているのやら。
 数日後、主君を戦で動座させておきながら、軍師が城で留守番という前代未聞の策にもとづき、豊臣軍は進発した。





 その噂は、軍を興した当初から囁かれていた。
 奇矯な仮面に隠してなお、美貌のうかがいしれる軍師。仕える主には、絶えて女の影がない。
 これで噂にならない方がおかしいが、噂は噂以上ではありえず、二人の関係は友以外の何物でもなかった。
 これまでも、これから先も。
「……つねづね、おめでたい頭だとは思っていたけれど」
 半兵衛は額を押さえて唸った。
 大坂城の奥御殿のさらに奥、水堀に近い離れの一室。日頃は静かな部屋の中は、今日に限って大騒ぎだった。
「とうとう頭の中身も腐ってしまったのかい、慶次君」
「いや、だってなあ。このチビ見たら、誰だってそう思うんじゃねえ?」
 半兵衛の嫌味に、前田慶次は肩をすくめた。
 おめでたいと評された、ど派手な羽根飾りが頭上で揺れる。
 自由気ままで嵐のごとく傍若無人なこの男の来訪は、例によって唐突だった。案内の小姓を仔猫よろしく襟首で捕まえて、部屋に踏み込むなり発した言葉が、
「こいつ、お前と秀吉の隠し子か?」
 だ。
 おかげで書きかけた添え文の上、ぼったりと墨をこぼして筆がすべってしまった。
 台無しになった書状を破り捨て、半兵衛は顔をしかめた。
「たとえ僕が女だったとしても、秀吉の子は産まないよ。馬鹿なことを言ってないで、その子を降ろしてくれ」
 癖のない銀髪を振りみだして、小姓の少年が抗議の声をあげる。
 その言葉は、猿轡のせいでくぐもっていた。おまけに、ご丁寧にも縄で後ろ手に縛られている。
 城内で人さらいでもあるまいに、何がどうしてこうなったのか。考えただけで頭が痛い。
 じたばたと暴れる少年を床に落として、慶次は頬をかいた。
「なんで縛ってあるのか、聞かないのか」
「おおかた君を見るなり、秀吉の敵だと言って殴りかかったんだろう」
「よくわかったな」
「殴るだけ無駄だと知らなければ、僕だって殴ってるよ」
 城を預かる警備の兵には、慶次が現れたら行く手を阻まず、素通しするように申しつけてあった。
 拒んだとて、どうせ力ずくで罷り通るのだ。いつぞや慶次が城に乗りこんできた際の惨状を知っているから、兵もよく心得えている。
 それをあえて挑む愚か者がいようとは、想定外だったが。
「それで、今更この城に何の用だい?秀吉なら留守だよ」
 縛られたまま、むう、とむくれた少年の頬を、筆の穂先でくすぐりながら半兵衛は聞いた。
「戦だろ、知ってるぜ。お前は行かなくていいのかよ」
「問題はないよ。これも策のうちだ」
 目線を上げず、淡々と答える。
 これだから、真実を知る人間は困るのだ。おそらく半兵衛が城に残ったことを深読みして、様子を見に来たに違いない。
「用がないなら帰ってくれ。こう見えても僕は忙しいんだ。前線に立つばかりが戦ではないからね」
 事実、半兵衛は忙しかった。
 ひとたび戦が始まれば、兵は莫大な物資を消費する。ある程度は現地でまかなうにしろ、追って補給が届かねば陣に留まることすらままならない。
 糧食、資材、弾薬といった輜重を、いかに迅速に動かすか。それが今回の策の要だった。
 いずれ、天下の覇権を握るため、豊臣の全兵力を挙げる日がやって来る。今のうちに、十万の兵を支えるに足る編成を整えなければならない。
 半兵衛が城に残ったのは、その試案のためだった。
「お前が何考えてようと、俺には関係ねえよ。ただ、ひとつだけ聞くぜ」
 半兵衛の説明を、慶次は一蹴した。
 気難しく眉をよせ、容赦のない言葉で問いただす。
「秀吉には、話したのか」
「何を?」
「とぼけんな。倒れてからじゃ手遅れだろうが」
 半兵衛は答えなかった。
 やはり慶次は苦手だ。長谷堂城で剣を交えたとき、発作を起こして慶次の目の前で血を吐いたのが、運の尽きだった。
 その上、こうして容態を確かめに来られては、嘘の吐きようもない。
「余計な世話は承知だけどな」
 黙りこむ半兵衛に、慶次は鼻を鳴らして立ち上がった。
「言えよ、友達なら」
「……慶次君」
「帰る。じゃあな」
 無造作に席を立ち、大股に歩み去る背中には、うっすらと怒りの気配が漂っていた。
 慶次の激情は友なればこそ。
 秀吉を友と思うなら、秀吉の望む未来のために、余命の少なさを告げるべきだ。
 そんな事ぐらい、言われるまでもなく分かっている。
「友達なら、か………」
 むー、むー、と膝元でもがく声がして、半兵衛は我にかえった。
 気がつけば、頬を真っ黒に染めて少年が目に涙をためていた。



「納得がいきません」
 あどけない頬をふくらませ、少年は唇を尖らせた。
「何がだい?」
 水を含ませた懐紙で、墨に汚れた頬をぬぐってやりながら、半兵衛はため息混じりに聞きかえした。
 子供らしく、さらさらと軽い銀の髪に猫のような細い目。少年の名を石田三成という。
 側仕えに上がったばかりの三成は、このところ秀吉のお気に入りだった。
 小姓達のなかでも、特に目立って面白いからだ。
「あの男は、城をめちゃめちゃにして秀吉さまを殴ったと聞きました。なのに、誰も仕置きをしないのですか」
「三成君、あのね……」
 半兵衛は、うんざりと天を仰いだ。
 さても、難問ばかり続く日もあるものだ。慶次が突きつけた言葉にも答えられずにいるというのに、小姓の少年までが小賢しい口をきく。
「前田慶次に手を出すなと命じたのは、僕だ。これに反すれば、軍令に背いたとして処罰がある。豊臣軍の一員ならば、君のした事は本来許されるものではないよ」
 あえて論点をはぐらかし、やんわりと諭す。
 こんな子供に、秀吉と慶次の間にある確執を話せる訳がない。
 ついでに言うなら、小姓は軍師の配下ではなく、処罰を与えるには少なくとも小姓頭を通さねばならないのだが、半兵衛は素知らぬふりで恩にきせた。
「頬を塗られる程度で済んで、ありがたいと思うんだね。さ、仕事に戻りたまえ」
 少年は、不満げに半兵衛を見上げた。
「……半兵衛さまは、秀吉さまの無二の友ではないのですか」
「何だい、いきなり」
「女だとしても秀吉さまの子は産まないって、先程おっしゃいました」
「はあ?」
 半兵衛は、あっけにとられた。
 まさかとは思うが、あの時あげた抗議の声は、半兵衛に向けたものだったのだろうか。
「君は……もし女だったら、秀吉の子を産みたいのかい」
「もちろんです」
 当然とばかりにうなずいた少年は、かたく拳を握りしめた。
「かっこいいし大きいし強いし恐いけど優しいし!男が惚れる男というのは秀吉さまのことです、違いますか!」
 ぐう、と喉の奥で言葉を飲みこみ半兵衛は黙った。
 三成は面白い。そう、秀吉や他の武将たちにとっては。
 誰もがみな、口を揃えて三成は半兵衛に似ていると言う。見目かたちだけでなく、秀吉に対する言動が親子のようにそっくりだと。
 鏡写しの自分を見る気がして、半兵衛は三成が苦手だった。
 少年が秀吉を絶賛するたび、自分も周囲からはこう見えるのかと、冷や汗が出そうになる。
「君が秀吉を敬愛していることは、よく分かったよ。しかし……」
 そもそもの前提として、それは友情とは呼べるまい。
 子供が言えば他愛のない憧れだが、大人の自分が言えば、痴情に狂ったと思われてしまうだろう。
 きらきら目を輝かせた無邪気な少年を、何と説得したものか。吐息をこぼした半兵衛に、三成は首をかしげた。
「半兵衛さま?」
 失礼します、と前置きして小さな手が伸びる。
 額に触れ、三成の目が丸く見開かれた。
「お熱があります、半兵衛さま」



 その後、大騒ぎした三成と駆けつけた部下によって、半兵衛は寝床に押しこまれた。
 城に留守居の身だが、戦の最中だ。寝ている暇などあるはずがない。
 そこで寝たふりをしながら人のいない隙を見計らい、布団の中で筆をとっては仕事をしていたのだが、
「……半兵衛さま」
 障子の隙間から、じっと様子をうかがう三成と目があってしまい、諦めざるを得なくなった。
 どうしてか、秀吉の小姓であるはずのこの少年は、半兵衛を気にして何度となく部屋を訪れた。
 小姓の勤めは主人の身のまわりを助ける事であって、登城した家臣の世話ではない。
 多忙な半兵衛が城に住まうも同然の生活をしているにしろ、三成が半兵衛を心配することは、明らかに己の領分を超えている。
「そんな所で何をしている。仕事はどうしたんだ」
 語気を強めてたしなめると、少年は真っ直ぐに唇を引き結んだ。
「大丈夫です。今日の仕事はぜんぶ終わりました」
 確かに、主人である秀吉がいない今、小姓の仕事は多くないだろう。半兵衛が言葉を続けるより早く、三成が反撃にでる。
「半兵衛さまこそ、お熱があるのに何をなさっているんですか」
「仕事が山積みなんだよ。邪魔をしないでくれ」
「病人は、寝ていることが仕事です」
「………………」
 きっぱりと正論で説き伏せられ、半兵衛は疲れを覚えて目を伏せた。これでは、どちらが大人で子供か分からない。
 ぐったりと布団に身を沈めた半兵衛を見て、三成が部屋に入りこみ、てきぱきと筆や墨壺を片づけ始める。
 それをぼんやり眺め、半兵衛は口を開いた。
「君は、手習いができるかい」
「はい、お城に上がる前に手ほどきを受けました」
「じゃあ、算術は?十露盤を使ったことはあるかな」
「算術は得意です。でも、そろばんって何ですか」
「商人が使う、算用の道具だ。城の役方でも使っているよ」
 三成に背伸びさせ、床脇の違い棚に置かれた文箱から、柔らかな布にくるんだ十露盤を取り出させる。
「これが、そろばん?」
 天に二珠、地に五珠。よく磨かれ、つやつやと飴色に光る木枠の中に、軸を通した珠が何列も並んでいる。
 半兵衛は寝そべったまま十露盤を手にとると、しゃん、と鳴らして珠の並びを整えた。
「これは、動かした珠の数で数字を表す道具なんだよ。いいかい、地の珠を一つ上に押し上げれば壱、二つ上げれば弐だ。こうして……」
 壱から十五まで、ひととおりの数を並べて示し、三成に十露盤を渡す。
「やってごらん」
「えっ。あの、俺がですか」
「君がやらなければ僕が計算するだけだ。その間、僕は起きているけれど、君はそれでいいのかい」
「だ、駄目です!」
 あわてて居住まいを正した少年に、半兵衛は次々と算式をたたみかけた。
 初めは単純な問題から、次第に複雑な算式へと難度を上げてゆく。
「一日に十二里を歩く男がいる。一日に七里をゆく荷車が、男と同時に百里先の村へ着くには、何日前に出発しなくてはならないか」
「ええと、その」
 額に汗を浮かべ、三成は十露盤を弾いた。
「――次。先程の男は、旅のあいだ三日で一升の米をたいらげ、二日に一度一斤の塩をなめる馬を一頭ひいている。旅に必要な米と塩はどれだけか」
「………馬が……一日半斤だから……えーと」
 むむむ、と眉を寄せ三成は必死だった。
 許しを得て、再び筆と墨壺を用意し、紙に中途の解を書きこんでゆく。
 全ての問いに答えが出ると、半兵衛は三成から十露盤を取りあげた。熱の高い病人とは思えぬ手つきで、素早く珠を弾き、三成の解答を確かめる。
 三成が悪戦苦闘した算式を、あっという間に検算し、半兵衛は言った。
「次は、手習いをしてもらおうか」
 新しい紙を用意させ、横たわったまま口述をとるよう命じる。
 公式の文書は、身分の上下や内容よって文言が定められており、様式を知らぬ者には難しい。それを丁寧に書き取るうち、だんだん三成の顔がこわばってきた。
「…然るに…糧米八百、内証の通り申し含め…迄遣わし候……」
 書状の宛て先は密約のある西国の領主、内容は旅征にでた豊臣軍の補給物資に関わるものだ。
 もし書き間違えでもしたら、崇敬する主君に恥をかかせかねない。
「半兵衛さま……」
 怖くなってそっと伺うと、気づいた三成に気がついたのか、半兵衛は唇だけでひんやりと笑った。
 ひぃ、と思わず悲鳴がもれる。
 年若い小姓たちの間では、常に穏やかで声を荒げることのない半兵衛は優しいと評判だった。けれど、こちらの方が怒鳴られるより数倍怖いに決まっている。
 半分涙目になりながら、三成は懸命に書いた。 
 どうにか最後まで仕損じずに書き終え、墨が乾くのを待ってから、角をそろえて文箱にしまう。あとは、半兵衛が元気になったら末尾に判を入れるだけでいい。
「終わりました、半兵衛さま。次は何を」
 振り返れば、半兵衛は目蓋を閉じていた。
「あのう……」
 そろそろと枕辺に近づいて、寝息に耳をすます。咳で傷んだ喉が、時折かすれた音をたてては速い呼吸を繰り返していた。
 まだ熱が下がらないのに無理をするからだ。
 眠る半兵衛の寝具の裾を軽くつまんで整え、三成は静かに部屋を出た。



 二ヶ月後、怒濤の進軍で敵勢を打ち破った豊臣軍は、新たな領土の仕置きを済ませ、帰城の途についた。
 早馬にて知らせを受け、いまかいまかと待ちわびた城の一同は、軍頭の馬影をとらえた物見番の一報に、こぞって門へと詰めかけた。
「御身の威勢ますます御目出たく、まずは無事のお戻り祝着至極に存じます。―――おかえり、秀吉」
 城代と並んで出迎えの口上を述べ、半兵衛は微笑んだ。
「西国はどうだった?」
「やはり手強いな。だが、お前の策の通り、合戦では大した苦労もなかったわ」
 奥御殿で馬を降り、具足の緒を解く秀吉に手を貸しながら、手短に不在の間の報告をする。
「我の居らぬ間、皆、息災だったか」
「何も問題はないよ」
 目の隅で、三成の姿が近くにないことを確かめ、半兵衛は肩をすくめてみせた。
「君こそ、僕が側にいなくて大丈夫だったろうね」
「子供の遣いではないのだぞ。心配なぞいらぬわ」
「それは失礼した」
 くすくすと笑いながら、その実、陣中で秀吉がずっと不機嫌だった事を半兵衛は知っていた。
 何も言わず、ただひたすら眉根を寄せているものだから、いったい何が秀吉の不興を買ったのかと、従う将は戦々恐々だったらしい。
 その他、兵糧の供出をしぶった土豪の動きや小荷駄の行き違いなど、膨大な情報が半兵衛の手元に届いていた。
 これら戦地からの報告を元に、早急に軍備を練り直さなければならない。
「さて、忙しくなるね。これから」
 半兵衛の言葉を聞き、秀吉はあきれて眉をあげた。
「戦を終えたばかりというのに、まだ働くつもりか、お前は。今晩ぐらいは酒につきあえ」
「うん……」
 はたして病の身に、そんな時間が許されているのだろうか。
 胸をよぎった一瞬のためらいを、秀吉が見咎めた。
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
 首をふって否定したものの、秀吉は顎に手をあて、疑わしげに半兵衛の顔をのぞきこんだ。
「何でもないようには見えぬがな」
「何だい、秀吉。君は僕の言葉を疑うのかい」
 拗ねるそぶりで見上げれば、さらに真っ直ぐな視線が返される。
「そうではない。ただ……」
「ただ?」
 秀吉は笑い含みに答えた。

「―――お前は、嘘が多いからな」






NEXT 02

子三成の一人称が「俺」なのはBASARA3発売前に書いたから。
と、いうか、三成の一人称が「私」になったのは半兵衛の死後、心を開く相手が秀吉しかいなくなったからとか勝手に妄想してます。
刑部に対しては、心を開いている自覚が無いと思う。