嘘歌 -翼折れた鳥の歌-




[ 2 ]



 最初に異変を感じたのは、唇の色だった。
 奇抜な兜、南蛮渡来の鮮やかな具足、目を射るばかりの派手な陣羽織。戦に臨んで、おのれの力を誇示するべく異装を競う風潮のなか、半兵衛の軍装はいたって簡素だった。
 纏う具足は最小限。組紐をほどこした純白の鎧下、これに小札を連ねた袖鎧を左肩に当てるのみだ。
 ただし陣中に在る時だけ、半兵衛は冴え冴えと青く唇を染める。その異様な戦化粧は、どんな軍装よりも凛々しく映えた。
 ゆえに、半兵衛が化粧をすることに関しては、誰も疑問をもたなかったのだ。
 半兵衛が、唇に紅をさす理由を知るまでは。





 主君が城に帰還した晩、奥御殿ではささやかな宴が催された。
 雉の焼物、すし鮒、壷煎り、冷汁、雑煮、燗をつけた酒。勝栗、豆餅、ひめ胡桃。
 無礼講とまではゆかぬものの、気心の知れた臣を集めての、戦祝いの膳である。
 杯が進み、席をたって唄う者から踊る者まであらわれて、座がくだけ始めた頃。
 ふと、三成の姿をみとめて秀吉は首をひねった。
 ごく内輪の宴であるゆえ、小姓達も末席に侍ることを許されている。最年少の三成は、下座の一番端に席があるはずだ。
 それが何故だか、ちょろちょろと上座の周辺をうろついているのだ。しかも、本人は隠れているつもりなのか、中廊下の柱の影からじっとこちらを見ている。
「半兵衛、三成は何ぞあったのか」
 不思議に思い、隣に尋ねかけて秀吉は驚いた。
 珍しいことに、半兵衛が唇を曲げて渋い顔をしている。
「どうしたのだ、一体」
 むっつり黙りこんだ半兵衛と、こそこそ上座をうかがう三成と。二人の様子に気づいた城番の将が、笑いながら秀吉に答えた。
「三成は、半兵衛様を見張っているのですよ」
「半兵衛を?」
「熱をだされても、お役目にいそしむ半兵衛様が心配なのでしょう」
「何だと、熱があるのか?」
 手を伸ばして額の熱を計ると、半兵衛が物憂げに口を開いた。
「……君まで、僕を病人扱いするのは止してくれ」
 顔の半分をふさぐ秀吉の大きな手を、両手で押しのける。その指先が、ひどく冷たい事に秀吉は眉を寄せた。
「しかし、ほとんど食べておらぬではないか」
 膳の上は、汁物以外ほぼ手つかずの状態だった。その汁物も、椀のふちに跡をのこして、形ばかり口をつけただけのようだ。
「あんな風に見られていたら、おちおち食べることも出来ないよ」
 半兵衛は憮然と肩をすくめた。
 俯いた紫の仮面が、何処となくやつれた翳りを帯びている。
「ここは構わぬから、もう下がって休め」
「うん……済まないけれど、そうさせてもらうよ」
「すぐに休むのだぞ。さもなくば、三成を見張りに行かせるからな」
 立ち上がった半兵衛は、唇の端に青褪めた色をのぞかせて、力なく笑った。
「それだけは勘弁願いたいね」



 ところが。
 明くる朝、秀吉は半兵衛にげんなりとした口調で抗議された。
「あれは君の差し金かい、秀吉」
 半兵衛が城内に寝泊まりした日は、秀吉と食事を共にするのが、いつもの決まりである。
 座敷に現れた半兵衛は、昨夜きちんと眠ったのかも怪しいほど、胡乱な目つきをしていた。
「何のことだ?」
 心当たりのない秀吉に、半兵衛が細い指を突きつける。
「三成君だよ。彼ときたら、僕が眠ったかどうか、部屋の外に張りついて離れないんだ」
「我は命じておらぬぞ。……昨夜は」
「昨夜は?」
「あ、いや」
 三成ではないが、城内には幾人も秀吉の目となり耳となる者がある。彼らは城の中で働きながら、登城した家臣達の雑談から下仕えの噂話まで、さまざまな情報を拾い集めて秀吉に伝える。その中には、半兵衛の動向も含まれていた。
「それで、どうしたのだ」
 用意された膳につき、秀吉は続きをうながした。
「さすがに夜は冷えるからね。風邪をひかれても困るし」
 梃子でも動きそうにない三成に、とうとう根負けしたらしい。部屋に入れて隣に寝かせたのだと、半兵衛は溜め息をついた。
「秀吉、ちゃんと聞きわけるよう、君からも言ってくれないか。彼が居ると、仕事が全然進まないよ」
「うむ……」
 秀吉は唸った。二人の押し問答を想像すると微笑ましいかぎりだが、三成が行き過ぎているのも確かだ。
 朝餉の間に呼び出され、秀吉の小言を頂戴した三成は、しゅん、とうなだれた。
「誠に申し訳ございません」
 小さくなって伏し詫びる姿が憐憫を誘う。思わずほだされて、秀吉は声を和らげた。
「身を案じることが悪いわけではない。しかし、何故そこまで半兵衛を気にかけるのだ」
 面を上げた三成は、秀吉と半兵衛を交互に見上げ、困ったように口を開いた。
「半兵衛さまは、秀吉さまの一番大事なお人ですよね?」
「うん?」
 隣で半兵衛がいきなり茶に噎せた。ごほごほと咳こむ背を撫で、なだめながら話に戻る。
「違うのですか?」
 真剣な顔の三成に、秀吉もまた大真面目にうなずいた。
「違わぬな」
 天下を掴む覇道の夢、その長い道程の始まりに何より望んで手に入れた相手だ。
 秀吉の答えに、三成は得たりと目を輝かせた。
「ですよね。この度の遠征でも、半兵衛さまがお側に居ないと、やっぱり殿の御機嫌がよろしくないと、皆が申しておりましたし」
「なっ…」
 とんだところに、とんだ伏兵がいたものだ。
 屈託なく嘘を暴かれ、慌てふためく秀吉にはお構いなく、三成は力説した。
「なのに、豊臣の御大将が大切に思うお方が、まったく御身をいとわれないのは、いけない事だと俺は思います」
 半兵衛の咳は、まだ続いていた。
 喉を震わせ、華奢な肩が小刻みに跳ねる。
「―――大丈夫か、半兵衛」
 さすがに心配になり、苦しげに丸めた背を抱き寄せると、上気した頬をうっすらと染め、息も絶え絶えに半兵衛は言った。
「君がそこまで、僕を思ってくれているとは知らなかったよ」
 気まずそうに口ごもる、耳の先までが赤い。
「いや、それは……」
 半兵衛が照れている、そう悟った途端、火のつくような羞恥を覚えて秀吉はうろたえた。
 何とも言えない沈黙が、二人の間におちる。
「秀吉さま、半兵衛さま。どうかされましたか?」
 赤面する大人達を見上げ、少年はきょとんと瞬いた。






 戦に明け暮れた夏が過ぎ、慌しく秋の実りを刈りいれて、城下は束の間の平穏を取り戻した。
 夕暮れは日を追い早くなり、木枯らしの舞う鋭い風鳴りに、冬の足音が間近に迫る。
 半兵衛は水堀近くの離れから、奥御殿の一室へと居を移した。
 大坂城は高低差のある曲輪を幾重にもめぐらせた、小高い造りになっている。守りやすく攻めにくい城ではあるが、階段と坂が多く、住むには少々不便でもあった。海が近い所為で、潮風も強い。
 水堀の周辺は夏こそ涼しいが、冬場は底冷えがして筆を持つ手が凍った。
 そこで秀吉に勧められ、ありがたく居室を替えてみたものの、
「これでは駄目だ……」
 つぶやいて、半兵衛は筆を放りだした。
 どうあがいても、悩ましいものは悩ましい。床に散らかした国見図に、各地からの書簡。紙に書き連ねた陣繰りの試案は、何度も手を入れなおして真っ黒になっている。
 この冬、豊臣軍は新しい兵器を配備しようとしていた。
 まだ、どこの軍にも導入されていない、特殊な配合の光弾だ。これがあれば、月より明るく夜を照らして有利に戦うことができる。
 試射の場所は山崎の砦に決まった。
 しかし、砦の何処に配置し、どのように兵を動かすのか、そこが決まらなければ演習は出来ない。
 照明の弾とはいえ、砲弾であるからには危険がともなう。特に今回は、秀吉自らが視察に臨むのだ。万が一、刺客に襲われる可能性を考えれば、本陣の近くに設置するわけにはゆかなかった。
 かと言って、砦の外郭に砲台を据えるのならば、無能な将には任せられない。
 そうすると、秀吉の側には誰が居るというのか。
 十万の兵を擁する豊臣といえど、人材には限りがある。演習に必要な将を砦の外に遣わせば、本陣が手薄になるのは目に見えていた。
「考えろ、考えるんだ」
 こつこつと、こめかみを叩いて自分に言い聞かせる。
「必ず、最適の布陣があるはずだ」
 山崎は険阻な地だ。流れのゆるやかな船着場から山麓の集落へ、そこから蛇行しながら険しい隘路が延び、いくつもの大門をへだてて、山頂の本陣へと続く。 
 山頂には見事な欅の大樹が、雄々しく枝を広げて立っているはずだ。その一番高い枝の先の、さらに上を目蓋の裏に見渡せば、意識は翼に風をはらみ、ふわりと地表を離れた。
 峰をつらねる山々の稜線、果てなくひろがる蒼穹。
 どこまでも遠く高く清澄な世界。
 やがて地平の彼方から、一条の光が射す。
 あまねく光が照らし出す、整然として美しい精緻な布陣。
 全貌を視野におさめるべく、さらに高みへと羽ばたこうとした瞬間、
―――半兵衛さまは、秀吉さまの一番大事なお人ですよね?
 不意に、無邪気な少年の声が耳によみがえり、景色は反転した。
 空が消える。地平が消える。山々が迫り峰が迫り、無慈悲に地表が迫りくる。
 墜ちる墜ちる墜ちる―――一直線に墜ちてゆく。悲鳴をあげた視線の先、燃えるような鎧の緋は。
「―――秀吉…!」
 半兵衛は目を見開いた。
 額を流れる冷たい汗を、手のひらで拭う。
 胸の奥がひどく熱くて、動悸が止まらない。 
 同時に、喉元から重い塊がせりあげた。粘りつくような湿った咳に、鮮やかな血が点々と床に飛び散る。
「秀吉……秀吉……秀吉……!」
 名を呼ぶごとに、血の塊がこぼれだした。
 本当に、自分はどうしてしまったのだろう。
 こんなことは、今までなかった。どれだけ集中を重ねても、羽ばたく距離はごく僅か。何度、意識を解き放っても、思考は必ず秀吉へと還ってくる。
 これではいけないと、思えば思うほど止まらない。
 半兵衛は震える手で筆をとった。


 この病を告げろと、人は言う。
 心優しい彼のこと、限られた命と知れば身を案じ軍役から遠ざけようとするだろう。
 それだけは嫌だった。
 たとえ、それが彼の夢の妨げになるかもしれなくても。



 翌日、朝議の席で諮られた演習の布陣は、何事もなく了承された。
「半兵衛、この布陣でよいのだな」
 主君の問いに、軍師は静かに微笑んだ。
 総大将の側近く、本陣の将に竹中半兵衛の名は記されていた。






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大昔には黒とか青の口紅が流行したそうですが、半兵衛の場合はおしゃれというより機能性のような気がします。