嘘歌 -翼折れた鳥の歌-
[ 3 ]
霜月に入り、豊臣軍は移動を開始した。
大将みずからが軍を率い、選ばれた将と常備の兵のみが付き従う。一昼夜の行軍の後、山崎の砦に辿りついた一行は、すみやかに兵を展開した。
天候は穏やかな薄曇。日没までは、あまり時間がない。
「いよいよだな、半兵衛」
本陣の将几に腰を下ろし、秀吉は試射の時刻を待った。
傍らに立つ半兵衛は、いつもの軍装に尾羽を挿した黒い外套をなびかせている。青く染めた唇が、自信ありげに笑みを刻んだ。
「これを実戦に投入すれば、戦術の幅が広がる。最強の軍は、もう間近だよ」
闇夜で戦える軍隊など他国にはない。火矢の通じぬ鋼鉄の軍艦。八雲、滅騎、一夜城。最強の軍をととのえる、それが最近の半兵衛の口癖だった。
このところ、半兵衛は一段と痩せた。
常に微熱があるようで、うつろな瞳で遠くを見ていることも多い。
本音をいえば、今回の演習の布陣を示された時、秀吉は胸のうちで安堵した。豊臣の軍が大きくなるにつれ、半兵衛は秀吉が単独で軍を率いる作戦をたてるようになっていた。
軍の規模を考えれば当然のこと、先だっての戦でも、二人が別々に動いたからこそ戦果をあげられたのだ。それを承知の上でなお、近頃の半兵衛は、見る者を危ぶませる儚い雰囲気をただよわせていた。
半兵衛は、本陣の中央に枝を広げる欅の大樹を見上げている。
席を立ち、秀吉も隣に並んだ。
「いつ見ても、見事な樹だ」
「うん」
「あの枝の先は、さぞ眺めがよいだろうな。城の天守よりも遠く、はるか地平を見晴らせるかもしれん」
その言葉に、半兵衛の顔がわずかに曇る。
「君は、地平の彼方が見たいのかい」
「いいや。戦場を見渡すなら、この場所で充分だろう。もっと遠くを見たいのなら、枝に登らずとも、そこまで歩けばよいだけの話だ。違うか?」
「……確かに、君の言う通りだ」
うなずいた半兵衛は、ふと、悪戯っぽく瞳をひらめかせた。
「それに、君が登れば枝が折れてしまうからね」
「よく分かっておるではないか」
声をあげて笑いあった、その時だった。
曇天に鈍く、爆音が轟いた。
「何事だ」
試射の開始には、まだ早い。空はようやく暗く翳りだしたばかりだ。
半兵衛は即座に身をひるがえした。
「麓を見てくる。君は絶対に本陣を動かないでくれ」
止める暇もあればこそ、軽々と砦柵を越えて走り去る。秀吉は漠然とした不安に広い肩を震わせた。
その後、爆音は二度三度と続き、急に途絶えた。
山頂からは、麓の様子を確かめにくい。せめて中腹の二の陣まで下ろうとした秀吉は、周囲を固めた近習達に強く制止された。
どの者もみな、忠義と才能を認められた選りすぐりの将ばかりだ。たとえ勘気をこうむろうとも、状況のわからぬうちは、主君を本陣の外へ出すはずがない。
かくして、苛立ちをつのらせながら陣幕の内をうろうろと歩き回っていた秀吉は、陣幕に沿ってそわそわと歩き回っていた三成に出くわした。
「……………何をしておるのだ」
「…………ひ、秀吉さま!」
びく、と三成が飛び上がる。その出で立ちに、秀吉は感心した。
小姓といえども、戦場においては武人の心得が要求される。三成は小柄な身体に胴鎧と脛当だけをまとい、身の丈にあった小太刀を帯びていた。半兵衛と同じく、速さと軽さを追求した身支度だ。己の力量を、よく考えている。
しかし今は演習であり、不測の事態とはいえ小姓までもが武器をとる程ではないはずなのだが。
「ふむ」
秀吉は片頬で笑い、何食わぬ顔で陣幕をめくりあげた。
「厠はこちらではないぞ。さっさと行け」
陣幕の裏側は鬱蒼と草木の繁る獣道だ。三成は、こくりとうなずいた。
「迷うなよ」
「はい!」
素早く陣幕をくぐりぬけ、少年は一目散に山を駆け下りていった。
それを見送り、秀吉は小声でぼやいた。
「また、半兵衛に文句を言われるな……」
部下には行く手をはばまれ、軍師にはつつかれ、大将というのは存外に不自由なものだ。
ようやく麓からの一報が届いたのだろうか、殿と呼ばわる声に応えて、秀吉は歩きだした。
同じころ、半兵衛は苦戦していた。
半兵衛が駆けつけた時点で、麓の陣はほぼ壊滅状態だった。敵の忍びが砲台に細工をし、同士討ちになったのだ。敵ながら称賛に値する手際だが、惜しむらくは、篭められた弾丸の性質を忍びは知らなかったに違いない。陣中は、右往左往する兵達と光弾に目が眩んだ忍びが取り残されて乱戦になっていた。
まったく、なんという醜態だろうか。
現場の指揮をとるはずの将は、とうの昔に昏倒している。
「少しでも動ける者は消火にあたれ!これ以上、炎を広げるな!」
声を嗄らし、兵を叱咤しながら事態の収拾にあたっていた半兵衛は、嫌な胸騒ぎを覚えて周囲を見まわした。
突然、土塁の裏から白光があふれだした。続いて、凄まじい轟音が耳をつんざく。
「―――ッ、しまった!!」
誘爆だ、と気づいた時には手遅れだった。次々に光が炸裂し、視界を灼き尽くす。
音が鳴りやみ、そろそろと目を開けると、景色が白く濁っていた。
目の奥が刺すように痛い。
「やられたな……」
呻きながら、剣を構えた。無事の者も多いようだが、どれも影法師のようにぼんやりと揺らめいている。こちらに近づいてくる人間が、敵なのか味方なのかも見分けがつかない。
目の前の影が、不意に掻き消えた。
「―――ちッ!!」
半兵衛は舌打ちした。どうやら敵のようだ。勘を頼りに、数合、剣を交えて飛びすさる。
斬り結んだ感触が、敵は一人だと告げていた。瞬きを繰り返し、目をこらして周囲をさぐる。
ふっ、と空気が動いた。
「半兵衛さま!!―――右です!」
声と同時に斬りはらう。今度は確かな手ごたえがあった。血臭が鼻先をかすめる。
当りをつけて蹴り上げた重い塊は、すでに事切れているようだった。
「半兵衛さま、ご無事ですか?!」
「……三成君……」
駆けよってくる幼い声に、思わず膝から力が抜けた。今更ながら荒い息が喉を焼く。
剣を地に立て、半兵衛は切れ切れの呼吸の合間に声をしぼりだした。
「戦場は、子供のいるところじゃない。本陣に帰りたまえ」
腕の下に肩を差しいれ、三成は半兵衛の身体を支えた。こましゃくれた顎の先が、不服そうに上を向く。
「俺は子供じゃありません。元服だって済んでます。それに、本陣も戦場の一部なんだから何処にいたって同じでしょう」
相も変わらず口の減らない様子に、半兵衛は苦笑した。
まだまだ子供だと思っていたのに、肩を貸す三成の足取りは意外にもしっかりとして力強い。身長も、いつの間にやら、ぐんと伸びたようだった。
「―――三成君」
歩きながら、半兵衛はゆっくりと口を開いた。
足が重く、全身がだるい。目が霞むのは、光弾の所為だけではないだろう。
「君は、秀吉のことが好きかい?」
「はい」
ためらいなく、まっすぐな返事がかえってくる。
「世の中の全てが、秀吉の敵になっても?」
「もちろんです」
三成は素直すぎる。度重なる軍令違反に、職分をこえた行動。真っ正直で歯止めがなく、残念ながら将の器とは言えない。
―――……でも、この子は秀吉のために命を投げだせる。
ほろ苦い笑みが、青い唇を歪めた。
「……よろしい。ならば君に、戦を動かす算用を教えよう」
ただ一人を護るための最強の軍、強力な兵器、将器のない将。
この国の行く末が夢みた通りの平和なら、これらはいずれ国土を蝕む毒に変わる。
秀吉の夢のためではなく、秀吉のために策を紡ぐ。
その後ろめたさを恋というなら、それでもよかった。
いつか命が止まるまで、この唇は嘘を歌うだろう。
智謀という名の、嘘の歌を。