とじめやみ




 強烈な光は、視界を白く塗りつぶす。
 深い闇は、視野を黒く塗りつぶす。
 畢竟、人は光の中でも闇と等しく盲目であり、なにひとつ象を得ることができない。
 ならば、光をめざすことに何の意義があるのだろうか。
 目を開けようとも、目を閉じようとも。

 いずれも同じ、闇、ならば。




[ 1 ]



「やめよ、半兵衛。指が傷む」
 指を噛んで呻きをこらえた半兵衛に、秀吉は顔をしかめた。
 手首をつかんではずさせると、指の腹にくっきりと歯の形が浮いている。
 半兵衛は横たわったまま、静かに吐息をついた。
「……傷を気にやむほど、僕は綺麗な身体じゃないよ。秀吉」
 初めて肌をあわせた夜よりのち、閨のしきたりに従って、寝所には灯りが入れられた。
 手燭の炎がゆらめく闇に、白い裸身がさらされる。
 それは奇妙な光景だった。
 点々と紅く染まる肌吸いの痕。そのあだ花を散らすように、醜い傷跡が幾つも幾つも肌に連なる。
 刀傷ではない。笞の跡でもない。
 腰骨のあたりから背にかけて、えぐったような丸い傷跡が無数に散っているのだ。
 なめらかな肌を汚して醜悪な影を落とすその様は、ひどく淫らに灯火に映えて、男の劣情を誘った。
 身体を繋いだまま、背を丸めて肩口の傷跡を舐める。
 舌で丹念になぞると、ひくりと半兵衛の腰が揺れた。
「感じるのか?」
「……………………」
 薄い唇を強く噛みしめて、半兵衛は黙した。苦悶の表情に似た、艶めいた色を浮かべて眉をよせる。
 腕をおさえた秀吉を、うらめしげにチラリと見やる視線に背筋が粟立った。
 こうして身体を重ねるのは、何度目か。
 睦言がわりに尋ねてみたことがある。男に身体を開くのは、如何様なものなのかと。
 問われて、半兵衛は乱れた息を殺して喉で笑った。
「………ここから」
 ゆらり、と白い指先が、猛りを飲みこんだ肉の際をなぞる。
「身体が蕩けてしまいそうだよ」
 笑んだ瞳に、うっすらと涙の膜がかかる。熱に浮かされた妖しい目つきに思わず怯めば、揶揄するように腕がからんだ。
「君も、試してみるかい?」
「いや、それは……」
 たじろいだ秀吉の顔を、面白がるようにのぞきこみ。
 今度こそ、半兵衛は声をたてて笑った。
「冗談だよ」
 くやしまぎれに腰を突きあげてやると、笑いはすぐに悲鳴まじりの喘ぎにとってかわった。
「……っ……ぁ、…!」
「……半兵衛」
 何度言ってきかせても、半兵衛は指を噛むことを止めようとしない。
 会話には応じるが、善がる声を漏らすまいと、交わる間は必ず沈黙を通す。
 それが妙に腹立たしく、秀吉は両の手首を取りあげて夜具の上に縫いとめた。
 前のめりの無理な姿勢に、銜えこんだ男根に釣り上げられるようにして半兵衛の腰が浮く。
「……んぅ…っ…あ、ひ、でよし……やめ、放し、て」
 揺さぶられて感極まった半兵衛が懇願する。封じられた両腕を藻掻いて、はらはらと涙をこぼす。
「このまま、ゆけ」
「―――――――――――……!!」
 委細かまわず腰を進めた瞬間、ひゅう、と鋭く喉を鳴らして唇を噛み、半兵衛は果てた。
 その余韻に蠕動する半兵衛の体内に、秀吉も精を放って息を吐く。
 ずるりと我が身を引き抜けば、身体の下で半兵衛が小さく震えた。


 眠れぬ夜を慰められて、これで幾夜を経ただろう。
 交わるたびに、不思議に思う。
 これは恋情ではない。
 ましてや友愛でもない。いわく言い難い、安らぎだけがそこにある。

 肉欲を交えておいて、可笑しな話だ。
 その絆は、信頼と呼ぶのが最も正しいような気がしてならない。


 絶頂に身を震わせた半兵衛の唇から、ひとすじ、細く血が零れていた。強く噛みすぎたせいだ。
 あきれた強情に、秀吉は眉をよせた。
「戦場でもあるまいに、閨で傷を負うてどうする」
「………ん……」
 のろのろと腕をあげ、半兵衛は口元をぬぐった。朱に染まった指先に、気怠げに呟く。
「……血の味がする……」
「当たり前だ」
 身を起こした半兵衛を助けて、腋の下に腕をさしこむ。
 そのまま膝の上に抱きあげて頬を寄せれば、くすぐったげに身をすくませた。
 もつれて絡んだ白い髪を撫で、秀吉は半兵衛の耳に囁いた。
「嫌ならば、そう言え」
「………そういうわけじゃないよ」
 秀吉の胸に華奢なうなじをくたりと預け、半兵衛はかぶりをふった。
 事実、半兵衛が秀吉の求めを拒んだことは、一度もなかった。何をどうしてそれと察するのか、口に出して誘う前から身を清めて待っていることもしばしばある。
 柔らかな髪を啄み、しっとりと汗ばんだ肌の、ほのかに甘い匂いを愉しむ。背骨をたどり、肉の薄い双丘を手のひらに納めれば、腕の中で半兵衛の身体がぴん、と張りつめた。
「秀吉……っぁ…」
 うるんで蕩けた双丘の合わせ目に、指を差し入れる。何度も突きこまれて腫れあがった其処から、指先をつたって白濁が流れおちた。
 さらに奥へと指を進め、掻きだすように内をぐるりと回す。
―――気がかりは、他にもある
 腰から背にかけて散る、尋常ではない傷痕の由縁。
 それを、決して半兵衛は語ろうとしない。
 さらに、もうひとつ。
「っ……、まだ、足りないのかい?」
 熱い息を短く吐いて、半兵衛は面を上げた。上気した頬で秀吉を見上げる、その瞳。
 過去に苛まれ眠れぬ夜に見た奈落は、半兵衛が祓ったはずだった。
―――なのに何故、その闇がここにある
 淫蕩に濡れて黒々と光る瞳の奥に、ぽっかりと開く虚空が見える。その奈落、底無しの闇の色。
 視線をあわせる事に堪えきれず、秀吉は唇を寄せた。
 両の目にくちづけを落として、強引に瞼を閉ざす。
「秀吉……?」
 そのまま無言で身体を倒し、腕の中の小さな身体を褥へと横たえた。








 仮の拠点に定めた屋形は、霧深い峡谷のなかにあった。
 峻険な山肌が背後を護り、眼下を流れる川を下れば一夜にして兵馬を運ぶことができる。
 地の利を得て、ますます看過しえぬ勢力になりつつある一党の、その主たる秀吉は文机を前に深々とため息をついていた。
 理想の国をめざす道程に、様々な障害が立ちふさがるであろうと、覚悟はしていた。
 だが、よもやこんな所で忍耐を試されるとは、思いもよらぬことだった。
「上手くいかぬものだな……」
 くしゃくしゃと、書き損じた紙を丸める。
 目下のところ、秀吉の最大の難敵は手習いだった。
 読み書きと算用は、ひととおりの手ほどきをうけている。しかし、それなりの家格に生まれついた者でなければ文字に親しむことなど無い世の中で、民草から身を立てた秀吉は、やはり字を書くことが苦手だった。
「秀吉、すこし良いかい?」
 書状をたずさえ部屋を訪れた半兵衛は、床をころがる紙くずに、わずかに目を丸くした。
「……苦労しているようだね」
 言い淀んで、そっと視線をそらせた肩が小さく上下する。
 忍び笑う半兵衛に、秀吉は唇を曲げた。
「笑うな、半兵衛」
「ごめん、ごめん。それで、何を書いていたんだい」
 丸めた紙をひろいあげ、指先で丁寧にのばす。墨の色もあざやかに、おおらかな筆遣いで流れた文字が、紙の真ん中でぶつりと途切れて大きな染みをつくっていた。
 書きかけの文章を目で追い、半兵衛は口を開いた。
「川上からの訴状、結局、仕切ることにしたのかい」
「放っておいても、うるさく吠え続ける気だろう。早々に落着させた方が、まだましだ」
 戦のない平時において、軍勢の頭目がすべき仕事は多くあった。
 兵を蓄え整えるだけでは、戦には臨めない。
 一軍をやしなう莫大な費用を用立てるため、土地の筋へと申しつける見返りに、その後ろ盾となる。この利害の調整が、最も頭の痛い仕事だった。なにしろ、戦で切り取った土地が広がるほどに、貪欲に主張する連中は増える一方なのだ。
 時に、ひとつの利権をめぐって対立する双方から、同じ訴えを持ちこまれる場合もある。
「なるほど君らしい。けれど、ね」
 半兵衛は人の悪い笑みをうかべて、秀吉に書状を差し出した。
「こういう訴えは、一筋縄ではいかないよ。どちらの陣営も、君には隠していることがある」
「……何をだ?」
 受け取った書状を広げ、秀吉はしばし沈黙した。宙をにらんで眉をよせ、むう、と息を吐く。
 がっくりと、その幅の広い肩が落ちた。
「せっかくここまで書いたのに、やりなおしではないか」
「ご愁傷さま。でもまあ、間に合ってよかったよ」
「まったくだ」
 応対を誤れば、不満を抱えたどちらかが豊臣の敵に寝返ることもあり得るのだ。
「おかげで助かった。しかし、よくそうだとわかったな」
「経験と勘かな。数をこなせば、そのうち君にも、こつが飲みこめるようになるよ」
 照れたように小さく首をすくめて、半兵衛は謙遜した。
 秀吉と出会う前、半兵衛は自らが放逐した国主の代わりに、一年あまり訴状をさばき令を発して城下を治めた経験がある。
 そこで半兵衛が得た見識は、もの慣れない秀吉にとって、なによりも貴重なものだった。
 散らかった紙を束ねて片づけながら、半兵衛は言った。
「もう少し時間をもらえるなら、さらに調べを進めておくけれど」
「頼めるか」
「もちろん」
 うなずいた友の頼もしさに、秀吉は目を細めた。
 豊臣は悪名高い。卑賤の身がと罵られることは数知れず、急激に台頭した軍勢に対する警戒や妬心から、いわれのない蔑視をうけることも少なくない。
 歓心を買おうとおもねる者も、敵意をあらわに歯を剥く者も、いずれ劣らぬ悪心が豊臣の周囲を渦巻いていた。
 その中で、この友だけは。
 暗闇のなかから、いつでも正確に一条の光を示してくれる。
 半兵衛が傍らにあるかぎり、自分が道に迷うことはないだろう。
「いつもすまぬな、半兵衛」
 秀吉の言葉に淡く微笑んで、半兵衛は首をふった。
「なに、君あっての僕だ。礼には及ばないよ」




 ひとしきり部下への指示を伝え、屋形の備えを見回って、ようやく半兵衛は遅い朝餉にありついた。
 炊き場の者が気をきかせて握ってくれた糅飯に汁物が一膳の、いたって簡素なものである。
 塩漬けの山菜を炊きこんだ糅飯は、握ったあとで味噌をすりつけ炙ってあり、香ばしい焦げ目がついていた。
 ―――味がしない………
 さくさくと山菜を噛み、半兵衛は眉をひそめた。山深い土地では、全般に味付けが濃い。半兵衛の生国でもそうだったし、ましてや荒武者の集うこの屋形で、薄味を好むものは一人もいないはずだった。
 疲れているのだろうか。風邪の引き始めのような、ぼんやりとした悪寒を感じる。
―――休む暇など無いというのに……
 美味くも不味くもない、雑穀と米のざらざらとした食感が喉をすべり落ちてゆく。
 呑みこむごとに、胃の腑が重くなるような嫌な痺れが下腹につのった。
 無理やり飯を呑みくだし、半兵衛は吐息をついた。
 開け放った蔀戸のむこう、川面からなびく霧が墨絵のように峰を滲ませていた。
 霧の漂う山中の、川を見下ろす堅固な砦。そういえばこの土地は、かつて仕えたあの城に気候がよく似ている。
 そこまで考えて、半兵衛はぞくりと身を震わせた。
―――見られている……?
 どこからともなく、視線を感じる。
 振り向いても、そこには誰もいない。けれども確かに、視線を感じる。
 天井あたりの高みから、こちらを見下す冷たい目線。
 その正体に思い当たった時、それは起こった。




 閉ざされた部屋に、下卑た笑いが響きわたる。
 その中央で、縫いとめられた蜘蛛のようにもがく白い肢体。
 あびせられた男の汚濁に濡れまみれ、示されるままに舐めしゃぶり、突き入れられては腰を揺らす。
 いつ果てるとも知れない狂宴に、喉を震わせて堪える背に向け、憎々しげに声が言った。
―――耐え忍ぶふりにて心の内は、我らを下衆と侮るか
―――いかに己があさましいか、己の身体で証してくれよう
 撫でさすられ、耐え難いほどの熱が下肢にうまれる。みるみる昂ぶる欲の兆しに、嘲笑がひときわ高くなった。
―――この好きものめが、涎を垂らして喜んでおるではないか
―――なにが智謀ぞ
―――己も下衆だと思い知るがよいわ
 背後から貫かれ、いやいやと首を振る白い背に、ひたりと小柄の刃が押し当てられる。
 おびえる肌を愉しむように刃の腹で撫で、次いで、刃先を立てて素早くぐるりと皮膚を削いだ。
 血が吹き出る。
 激痛と衝撃に、噛みしめていた唇が大きく外れた。
―――……………!
 喉から漏れでた悲鳴は、苦痛の声ではあり得なかった。

 いつまでも続く男達の哄笑が、耳の奥を責め苛んだ。



「違う!違う違う違う……!」
 生々しく甦った過去の記憶に、半兵衛は身をよじった。
「違う………」
 舌が干上がり、額に脂汗が浮いた。
 あの頃と今は違う。秀吉には慰めが必要であり、そのために自分は身体を開いたのだ。
 決して快楽のためではない。
 だが、同時に視線は無言で指弾する。容赦なく。
 たとえ理由が何であれ、この身体は喜んでいる。
 あさましい。
 いとわしい。
 無感動に見下ろす視線の先で、半兵衛は己の身体がゆっくりと折れ、食べた朝餉を吐き戻す様を見た。




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