美しい日々
君の知らない誰かから、僕へ。
僕から君へ。
君から、僕の知らない誰かへ。
連綿と紡ぎ、世界を織りなす行為の果て。
突然だが、村雨が小さくなった。
「はい?」
と、問い返したのは壬生だ。冷静沈着な彼らしくもなく、声が裏返っている。
「小さく、ってのは縮尺が下がったってコト?それとも、歳が若返ったってコト?」
茶請けの煎餅をかじりながら、タツマ。
我が家の居間に集う面々は、皆、一様に困惑していた。時を刻む柱時計だけが、やけにのどかな音を響かせている。
僕は、ため息をついた。僕も当事者も、起きた事態を把握するには程遠いが、困惑するだけでは話が前に進まない。
「現在、十二歳だそうだよ」
「ってことは、もしかして………………あれ?」
おそるおそる、指さした縁側には小柄な影。全員の視線が、集中する。
僕らの視線を感じたのだろう。つまらなさそうに庭を向いていたその顔が、こちらを振り向いた。
つり上がり気味の目尻。鋭い面差しはそのままに、けれど日焼けの浅い肌色。顎の傷跡は消え、口元にはあの皮肉な笑みも無精ヒゲもない。
そして何より、決定的に上背が足りなかった。
「う…っわ……、可愛くねー……」
タツマがつぶやいた、その瞬間。小さな身体が発条のように跳ねあがり、強烈な拳がタツマの顎に炸裂した。
「………っぐは!!」
「村雨!」
腰を浮かせた僕に、村雨は吐き捨てた。
「わッけわかんねェ!アンタら何なんだよ」
その瞳は怒りに燃えていた。
何なんだ、という問いはひどく漠然としていた。関係性を問われるなら、十二歳の村雨とつながりを持つ者などいなかったし、何者であるか、という問いなら、初対面の人間に正直に白状できる素性の持ち主は、ごく真っ当な学生であるタツマの他にはいなかった。村雨自身もまた然り。
「……………………」
答えない僕らを、村雨は無言で睨みつけた。
その気迫を、何と言ったらよいのだろう。幼い身体にみなぎる猛々しさは、およそ子供らしくはなかった。その剥きだしの鋭さは、僕らが知る不遜で人をくった態度の村雨とは、まるきり結びつかないものだった。
「………帰る」
口元を強気に引き結んで、村雨は踵を返した。
「村雨、どこへ…………!」
「アンタにゃ関係ねェだろ」
荒々しく音を立てて扉を開け、村雨は出ていった。
「あーあ」
タツマが顎をさすって言った。
「どうする?追っかけなきゃマズイだろ」
「……必要ないよ」
「何故です?如月さん」
首を傾げた壬生に、僕は首をふった。
「いずれ戻ってくるだろう。どこへ行ったにしろ、ここは十二歳の村雨が知る世界とは違うんだ」
「帰ってこなかったら?」
「帰る場所があると思うかい?」
僕は笑った。
「子供に戻った村雨を見分けて、それでも受け入れてくれるような場所があったなら、十二歳の子供があんな目をしていたりはしないよ」
もしも可能性があるとすれば浜離宮ぐらいだが、そちらは既に連絡済みだ。
「それに、タツマ」
「うん?」
「君、村雨に反撃しなかっただろう?」
「そりゃ………さ、何というか」
「きっと、村雨にも分かっているよ。僕らが、敵ではないことぐらいは」
僕は、帳場から持ち出した大福帳を卓の上に広げて、二人を手招いた。
「それよりも、君たちに頼みたいことがあるんだ。話を聞いてくれないか」
よくわかんねェ事が起きた。
気がついたら、他人の家に居た。その上、この家の住人は俺を知ってるようなのに、俺には誰だかわからなかった。
そして、誰も俺に状況の説明ができなかった。
ワケわかんねェ。
「………………」
あてもなく、ただひたすら歩く。
電柱の地番から、ここが北区の王子だということはわかった。すぐに線路に行きあたって、あたりをつけて駅を目指した。
この辺には一度も来たことが無い。俺のテリトリーは、たいがい山の手線で用が済む。なのに、何故か……。
神社の門前を通りがかった。ジーワ、ジーワと蝉の声がする。どこかで子供の歓声があがった。
―――――
王子の狐、という落語があってね。
ふと、耳元で声がよみがえった。誰の言葉だったか。よく知っている気がするのに、思いだせない。
―――――
装束稲荷からここまで、狐の扮装で行列があるんだ。
―――――
来年の大晦日には、君も見にくるといい。
狐。狐の装束。狐面。………女。
王子の狐は使い姫………その話、俺は誰に聞いた?
何かを思い出しそうで、思わず足が止まった。
夏の日射しがジリジリと照りつける。灼けたアスファルトに、うなだれた俺の影がくっきり焼きついた。
一度も来たことのない街。なのに、何故か懐かしい。
目眩がするまで立ちつくしたが、答えは出なかった。
「しっかしさー、あれだよな」
JRのホームに仁王立ち、緋勇タツマは暑ちぃと舌を出して仰向いた。帰宅ラッシュまでは、あと少し。人もまばらなホームは風がなぎ、空気が温く淀んでいた。
「……なにが?」
並び立ち、壬生は双龍の片割れに問い返した。
「愛されてんのかね、やっぱ」
「村雨さんの事かい」
愛という奇天烈な形容には反応を示さず、壬生は必要な単語のみを口にした。
「あの銭亀がツケをちゃらにするって、よっぽどだと思わないか。いつもどおりに見えて、結構キてるような気がすんだけど、オレは」
「それはまあ、これから僕らが向かう先を考えれば、妥当な計算と言えるんじゃないかな」
「そうかなあ。それくらいなら、もっと何か買っときゃよかった。だいたいオレのツケは、九割がた京一の買い物なんだぞ」
ぼやく緋勇の後を受けて、壬生は淡々と閉めくくった。
「いずれにせよ、失敗は許されないよ。失敗すれば、きっと大変な目にあうだろうね」
「うむ………」
「如月さんなら、トハチぐらいやりかねない」
「うむむむ…………」
ホームの天井を見上げ、京一のバカヤローと緋勇は呟いた。
中国の方向はこっちだよ、と壬生は冷静に西の空を指さした。
新宿に着いたのは、すでに夕暮れだった。
マズイ。
俺はあせって、足を早めた。
姐さんたちは、そろそろ出勤の時間だ。仕事に飽きた真夜中過ぎならともかく、こんな時間に煩わせようもんなら、機嫌がみるみる悪くなる。
アルタ前を抜け、歌舞伎町へと向かう。うざいくらいに多い人混みを、ぬうように走って、ふと、違和感を覚えた。
色が違う。
見慣れた町並みの、看板の色が昨日までとは違う。見ればビルの形が違う。入っているテナントが違う。
一瞬、違う駅で降りてしまったのかと思った。だが、ここは間違いなく新宿だった。
見慣れた靖国通り。歌舞伎町一番街のゲートを頭上に走り抜ける。
嫌な胸騒ぎがした。
息を切らせて小汚ェ雑居ビルに飛びこむ。目指す階でエレベーターを降り、俺は立ち止まった。
けばけばしい色彩のスナックの名前。レイナって誰の名だ。少なくとも俺が知っているババアじゃねェ。
降りる階を間違えちまったのか。もう一階下にくだって、やりなおす。さらにもう一階。最後に一番上から総当たりした。
違う。
通りに出て、汗をぬぐう。頭がくらくらした。まさかとは思うが、ビルを間違えたのか?
隣のビルで上から下まで確かめた。さらに隣の隣、その隣まで。
違う。違う。違う、どうなってんだ。
思いついて大久保町まで走った。そこには、ババアの店にアルコールを卸している酒屋があったはずだった。
「嘘だろ、オイ……」
店はあった。軒先まで積み上げたビールケース。じめじめと暗い店の奥、カウンターに肘をついて若い男が店番をしていた。
知らない顔だ。
狭っくるしい店に繋がる住居部分から、小さな仏壇がのぞいて見えた。その隣にある黒縁の額に、見知った親爺の顔があった。
「…だって、昨日までピンピンしてたじゃねェかよ……」
額から冷たい汗がふきだした。目には見えねェ嫌なもやが、背中のあたりを漂っている気がした。
気持ち悪い。
酔ったオヤジが俺を殴る時。口汚い罵りあいに耳をふさぎながら眠る時。猫なで声の大人が、俺を意のままにしようと近づく時。いつも感じる、手足から血の気が引くようなあの感触。
アタマん中が真っ白になった。
ふらふらと歩いて、気がつけばコマ劇場の前に立っていた。
見上げる正面に、一枚のポスター。
『ファミリーミュージカル・新オズの魔法使い/二〇〇〇年八月四日▼三〇日』
おさげの女が犬を抱いて笑っている。派手なレインボーカラー。
にせんねん。
数字が理解できなかった。読めるのに、頭ン中に入らねェ。
阿呆みてェに口を開けて、じっと突っ立って眺める。
ダメだ。
あきらめて、その場を離れた。自販機の前で、ポケットの小銭を探る。
考えろ、頭を使え。
今いちばんヤバイものは何で、そいつは何に操られている?
ガコン!とコーラが取出口に落ちた。プルタブを立てて、ひと息に流しこむ。
「今、いちばんマズいのは…」
二〇〇〇年、だ。問題は、その次。
どうしてこうなったか、そいつは何が原因か。これがわからねェことには、どうしようもない。
頭に浮かんだのは、皇神学院初等部の嫌味な白い制服だった。アイツなら、こんな大がかりなイヤガラセもできなくはない。けど、
「違うだろーな……アイツ、無駄な事は絶対しそうにねェし」
ついでに、女の仕業だという気がする。根拠はねェが。
「狐面の女……か」
口に出してみると、ますます怪しく思えてくる。ただし、手がかりは何ひとつない。
「どうすっかな……」
小銭の残額を考える。
あの家で、最初に着ていたぶかぶかの服の袖にあった金を、そのままくすねて来たものの、額面はそう多くない。
アパートに戻るか。
それとも千代田区まで行ってみるか。
そこまで考えて、寒気がした。
ババアの店はもう無かった。アパートや皇神に行ってみたところで、俺を知る人間がいるとは限らない。居るはずがない。
二〇〇〇年の俺は十八歳だ。十二歳じゃねェ。
なら、今ここにいる俺は誰だ?
「俺は………」
急に、足元から世界が揺らぎだして、俺は吐き気を飲みこんだ。
玄関先に人の気配を感じたのは、真夜中を少し過ぎた頃だった。
「おかえり」
戸を引くと、そこには案の定、幼い村雨が立っていた。門灯の黄味を帯びた明かりが、途方に暮れた横顔を照らしだす。
「あんまり遅いから、新宿まで迎えに出ようかと思っていたよ。疲れただろう?風呂は落としてないから、ゆっくりするといい」
村雨は顔を上げた。
睨むように僕を見上げて、噛みつくように短く問う。
「何で知ってる」
僕は肩をすくめた。
「行き先のことかい?それとも君が帰ってきたことか」
村雨は無言だった。その両方ということか。
「新宿に縁が深いということは、以前に君から聞いたことがある。今の君には覚えがないだろうけど」
両脇にだらりと下げた小さな拳が、固く握られていた。張りつめたその肩に、触れてよいものかと僕は迷った。
「そして、君は馬鹿じゃない。状況を理解できれば、ここに戻ってくる思っていたよ。……なんて」
僕は玄関の石敷きに膝をついた。村雨を見上げる形で、目線をあわせる。
「見透かしたように言うけど、実際、そんなに確信してたわけじゃない。ただ、君が自分で安全だと思える場所に居てくれれば、それでいいんだ。ここが嫌なら、明日、別の場所まで送ろう。それじゃ、駄目かい?」
僕の言葉に、村雨はとまどったようだった。
「……別に、ワケわかんねェだけで、嫌とかじゃねェし。そうじゃなくって、……アンタ、誰なんだ?」
「如月翡翠。骨董品を商っている。君との縁をいうなら、黒帝水龍だ」
「…?」
「ちゃんと説明するには時間がかかるよ。とにかく家の中に入らないか」
「俺は……」
言葉尻があやふやにしぼんで、小さな身体がぐらりと揺れた。
「村雨?」
倒れかかる村雨を支えて、僕は驚いた。手のひらに伝わる体温が高い。
「村雨!」
ぐったりした身体は思いのほか軽く、僕を不安に陥れた。
あわてて家の中へと担ぎこみ、計ってみれば熱は三十九度を超えていた。
奥の間に布団をのべ、村雨を横たえる。
医者か薬かと考えて、はた、と困ったことに気がついた。
見たところ外傷はない。熱は高いが嘔吐や発疹もなく、異常らしい異常もない。
だが、そもそも村雨が十二歳であることが異常なのだ。
いったい、どこの医者にかかれば良いのだろう。
普通の医者で済むならいいが、村雨が村雨であることに起因する熱ならば、霊的治療が施せる者でなくてはならない。しかし、半端な使い手に治療されて、事をこじらせることだけは避けたい。
「桜ヶ丘か、それとも……」
僕は左胸に手を当てた。浴衣の下、ちり、と疼くような違和感が皮膚をはしる。
「やはり、彼には伝えておくべきか……」
受話器を取りあげ、僕は黒電話のダイヤルを回した。