小さな世界
かじかむ指先が、ほのかに赤く染まっていた。
手袋を学校に忘れたのは迂闊だった。だからと言って、コートのポケットに手を入れる真似はできない。
行儀が悪いと叱る人間は、もう、いないけれど。
白い息を吐きながら、線路沿いを早足で歩く。通い慣れた道が、今日は嫌に余所よそしかった。
一人の帰り道。
一人きりの家。
くりかえす、誰もいない毎日。
そんな日常に闖入者が現れたのは。
お祖父さまの失踪届を提出した、冷たい風の吹く日だった。
[十二月二十二日]
「どうなってんだ、こりゃあ」
男が発した第一声は、間の抜けた一言だった。
どうなっているのか、聞きたいのはこちらの方だ。
「……失礼ですが」
男から距離をとりつつ、僕は袖口の苦無を探った。
「どちらさまですか?」
店内には、僕と男の二人きりだった。
長い歴史と由緒を誇る、古びた佇まい。かすかに埃っぽく、乾いた空気が漂う品々。
近い将来、僕が次代を担うはずのこの骨董品店は、あいにくと今は休業中だった。
鍵をかけた店内に、客がいるはずもない。
「あン?どちらさまって、ここん家のモンだが……」
言いかけて、男は何かに気づいたようだった。まじまじと僕の顔を見る。
「ここは僕の家ですが」
「ってェことは、お前さんが翡翠なのかよ」
呼び捨てられて、ムッとした。けれど、それを面に出すのは堪えた。我が家は代々、いわゆる裏稼業の人間を相手に商っている。表向きは骨董品店であっても、客層はとても穏やかとは言えない。
「僕をご存じですか。店主は不在ですので、ご用でしたら代わりに承りますが?」
「ご用って、いや、まあ、なんだ」
歯切れの悪い返答に、淡々と抑揚をおさえて告げる。
「なければ、お引きとり下さい。本日は休業です」
店の内鍵を開け外へとうながすと、男は困ったように眉を寄せた。
男の風体は二十代半ば、痩身で長躯。肌は浅黒く、眼光が鋭い。無造作に立つその身のこなしには、敵にまわしたが最後、手酷く痛手を負いそうな剣呑な力の漲りを感じる。
この男は、危険だ。
緊張がチリチリと背筋を伝う。手のひらが汗で湿った。
お祖父さまがいない今、僕に上手くあしらう事ができるだろうか。
無言で見つめる僕に何を考えたか、男は肩をすくめた。
「ま、しょーがねェか」
あっさりと引きさがり、背を向ける。戸口をくぐろうとした、その時だった。
白い光が爆発した。
「────ッ!」
目を射る閃光に面を伏せる。落とした目線の先に、後ずさる男の足が見えた。
漂白された視界のなか、その足はみるみる質量を失って、炎熱に炙られたフィルムのように灼けおちた。
「くそッ!何だこいつは」
男が吼えた。
「扉を閉めろ!早く!」
怒鳴り声に、手探りで引き戸を押しこんだ。ぴしゃり、と後ろ手に閉じた途端、白い光は消え失せた。
「……………」
「………………何だ、今のは」
「…………さあ」
「さあ、ってなあ。ここの店の結界だかトラップじゃねェのか」
「当店に、そのような仕掛けはありませんが」
何度も瞬いて、目の奥の残像を追い払う。振り向けば、男は床に座りこんでいた。
灼けおちた片足の残骸が、ひらひらと宙を舞う。
紙のように薄い、ペラペラとした断片は男の足に吸いついた。
そのまま、ふうっと膨れあがって正しい輪郭を取り戻す。
「気色悪ィな。どうなってやがる」
男は顔をしかめて、自分の足をなでた。
足は、何事もなかったかのように復元していた。血の一滴もこぼれていない。
本当に、どうなっているのか聞きたいのはこちらの方だ。
「お前さんは、無事だな?」
「え?ええ、はい」
慌てて自分の身体を確かめる。自覚がないだけで、自分もペラペラになっていたりしたら笑えない。
「……大丈夫、です」
「ふん、俺だけに作用するってェわけか。……もう一度、その扉を開けてみてくれ」
「でも」
躊躇した僕に、男は口の端を上げた。
「俺が扉の前に立つ。アンタは扉の影に身を伏せな」
僕は用心しながら、再び扉を開けた。
今度は白い光はなかった。扉の向こうは、見慣れた表通りだ。
「ここまでは異常なし、か。問題はここから……」
男は扉の前に立ち、腕を突き出した。男の手が敷居の上、内外の境界線を越えた途端に、
白い光が弾けた。
僕の目の前で、男のシルエットはくにゃりと二次元の影になり、色の無い炎を吹きあげた。
「────ッ、逃げ」
古い写真を燃やすように、炎が男を舐める。
渾身の力で扉を閉めた、時は既に遅く。
「………あ、ああ」
男は燃え尽きていた。
灰色の小さな焼け残りが、いくつも店内に散らばる。
僕は呆然と立ちつくした。
あまりに異常な事態に、頭がうまく働かない。耳の後ろで、どくどくと脈打つ心臓の音が聞こえた。
息も詰まる奇妙な感覚に、僕は喘いだ。
なんだろう。
見知らぬ男が一人、消えたというそれだけで。
焦燥、喪失、奈落の底を見るような、苦しく喉を締めあげる、この感覚はなんだろう。
足元の灰の欠片を拾い上げる。震える指の間で、ふいに声が響いた。
「今、西暦で何年だ?」
「──!?」
驚いて開いた指先から、ひらりと滑りおちた欠片は、空中で膨らんだ。
ザァと全ての灰が舞い上がり、ひとつの形に収束する。
「得も言われぬ感触だな、痛くも痒くもねェのはありがたいが」
元通りの位置に立ち、男はぼやいた。
僕はもう、言葉も出なかった。目を見開くだけの僕に、重ねて男が問う。
「で、何年なんだ?」
「……一九九五年です」
「なるほどな」
何がなるほどなのか。男は僕を見て、ため息をついた。
「結論から言おう」
なんだか嫌な予感がした。
「俺は、ここに閉じこめられた」
それは見ていたから、わかる。けれど当然、続くであろう言葉までは気が回らなかった。
「悪いが、しばらく世話になるぜ」
「………は?」
一人きりの家。
一人で眠り、
一人で目覚め、
誰もいない部屋にぽつりと
息を吐き、息を吸って。
そうして毎日は続くのだと思っていた。
ずっと、
どこまでも。
一人、使命を背負いながら。
そんな僕の覚悟は、この闖入者によって見事にひっくり返された。
後から思えば、底が浅かったとしか言いようがない。
釈然としない僕を納得させるためか、男は我が家のありとあらゆる扉と窓から脱出を試みた。
結果、どこからも出ることが出来ないことが判明し、そのつど塵から復元する男に、僕は何度も心臓に悪い思いを味わった。
「………もう結構です。ちゃんと元に戻るとわかっていても、気分のいいものではないですし」
「まあ、楽しい見せ物じゃねェのは確かだな」
「原因に心当たりがあるんですね」
「なくはねェが、どういう仕組みなのかはサッパリだ」
男は先程まで灰だった手を、確かめるようにぱたぱたと振った。軽妙な動作は、どことなく、状況を面白がっている節がある。
今度は、僕がため息をつく番だった。
「居間へどうぞ。お茶を淹れます」
「すまねェな」
お湯の支度をして居間に戻ると、男は難しい顔で柱時計を見上げていた。
その顎に、小さな傷跡を認めて僕は密かにもう一度ため息をついた。
本当にどうしよう。
出ることも消滅することも出来ないんだから居座るしかないのは確かだけれど、見た目からして明らかにカタギの人間じゃない。
「一九九五年って事は、十四……いや、十五歳か」
男の物言いは少し妙だった。長らく時間のわからない場所にいたとでも言うような、おかしな計算の仕方をする。
僕は父の事を思い出した。あの人も日本を離れて年中遺跡に潜っているせいか、稀によこす消息は、世間の時の流れからズレている。
「中学三年です。僕をご存じのようですけれど、失礼ですがお名前をうかがってもいいですか?」
「ああ、そいつは悪かった。俺の名前は・・・・だ」
「え?」
「・・・・だ」
聞こえない。男は怪訝な顔をした。
「もしかして、・・・・って、そこだけ聞こえてねェのか?」
図星だった。途中で音が吸い取られて、不自然に声が消える。
「ええ、でも唇の動きは読めますから。・・・・さん、であってますよね?」
「確かに、聞こえねェな」
男の名を口にして、僕は強烈な目眩におそわれた。
唇を読んで、僕は男の名前を『 』だと認識し、発音した。なのに『 』が何なのか、理解できない。頭の中が真っ白になる。あの光のように。
「おい、どうした?」
「……何でもありません」
首を振ったけれど、男は顔色で察したようだった。
「名前は、連呼しねェほうがいいかもな。ここから出られねェのも、名前が消えるのも、要するに俺が不用意に影響を及ぼさねェように予防線を張ってんだろう」
「予防って、いったい何に?」
男は不敵な笑みを浮かべた。
「この世界に対しての」
その物騒な気配のする表情に、僕は正直、泣きたい気分だった。
それはつまり、男が好ましからざる影響力の主だということで。
世界が無事でも、僕はその影響力の圏内にいるということになる。
どこの誰だか知らないけれど、我が家の外壁に沿ってラインを引くなんて、はた迷惑もいいところだ。
「とりあえず今は、店主の関係者としか言えねェな。他は、説明するだけ無駄だろう」
「祖父のお知り合いですか」
そういえば、男は初めに自分を家の者だと言っていた。
「いや、そっちじゃねェんだが……ま、そのうち決着がつけば呼び戻されるだろ。二、三日か一週間か……賭けにのったせいで、こんな状態になるとは予想外だったがな。そう長くはかからねェよ」
結局、素性の怪しい男はますます正体が胡乱なまま。
思いもよらない同居だけが、確定した。
ラインに隔て区切られた、この小さな世界で。