インナーロジック
眠りの中で、俺はくだらない夢をみた。
招き猫が女になる、それだけの夢だ。何の影響なのかは考えるまでもない。
ただ、女は如月ではなかった。
そう若くもない、目尻の婀娜っぽい女だった。大柄の派手な銘仙、崩れた襟からのぞく鮮やかな緋の襦袢。化粧の仕方が、明らかに堅気じゃねェ。
水商売の女だ。
男と寝る商売女を寝子、ネコと言う。諸説あるが、人を招く左手挙げの招き猫がメスで夜の商売向けとされることには、そのあたりに由来があるらしい。
いつのまにか、辺りには一面の水が広がっていた。
見ている俺の存在に気づいたか、女は黙って足元を指さした。
水鏡に映る女の影は、如月だった。
反転した世界で、如月は何かを叫んでいた。身を拉ぐ何かに、必死で耐えていた。組み敷かれて、抗えず、身を委ねる。
俺は嘆息するしかなかった。
女と如月の共通点、それは猫という隠喩だ。
その結びつきが身体の変容を引き起こしたなら、責めは如月を猫として扱った俺にある。
旧い器物に憑き、祟る女の表情は険しかった。
詰るように俺を睨み、紅い唇を動かす。
「……何だって?」
声は、俺の耳には聞こえなかった。無音のまま、女が繰り返す。
同時に、水面が音もなく波立った。荒れる水鏡の下で、苦しげに眉を寄せた如月の姿がかき消される。
はやく。
女の唇は、そう言っていた。
はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく。
無声の焦燥が夢の中を埋め尽くす。
この夢は、ただの夢じゃない。
見せられたものだと直感して、そこで俺の目は覚めた。
「くっ、そ……」
無理やり身を起こすと、頭が割れるように痛んだ。
飲んでもねェのに宿酔いの気分だ。
枕元の時計は、午後11時を指していた。青く闇に沈む、寝室がわりの客間。隣を見ればもう一組、白い布団が延べてあった。几帳面に角を合わせた敷き方は、如月のものだ。
「おい、如月」
だが、そこに如月の姿は無かった。
「どこだ?」
居間には明かりが灯っていなかった。
台所をのぞいたが、火の気もなく静まりかえっている。
かわりに、チリチリとした気配が俺の神経を刺激した。
「……庭、か」
勝手口からサンダルをつっかけて、母屋を回った俺は、そこで絶句した。
大当たり、だ。
視界いっぱいに、黒いものが蠢いていた。
開け放った蔵のなかから、溢れるように傾れ、大量に吐き出される無数の小さな影。
おどろに靡く髪、いびつな手足。きゃわきゃわと高い歓声をあげてひしめく異形の群れは、手鏡や琵琶、壺といった年経た器物の変化だった。
その中心で、青い火花が散った。
「如月!」
時ならぬ百鬼夜行に囲まれて、如月は奮戦していた。
印を結び、口中で激しく呪を唱える。血の気の引いた白い面に汗がしたたり、乱れた髪が額にはりついていた。
再び、青い光が弾けた。
ことり、と足元に鼈甲の櫛が転がった。それに一瞥をくれて、次の呪を唱えだす。
「如月、何やってんだ!」
次々と呪に縛られて付喪神が器物に戻る。それでも異形は諦めることなく、如月を取り巻いた。
連中が、如月の消耗を狙っているのは明らかだ。
それが分からないはずはねェだろうに、
「ちッ、十一・空刹!」
真空の刃で有象無象を吹き飛ばした俺を、如月は見咎めた。
「止めろ、村雨!」
制止の声は、悲鳴に近かった。
「店の売り物だぞ!壊さないでくれ」
「はァ?」
舞炎の札を喚びかけて、俺は転びそうになった。
「阿呆かお前は!こいつらの数を見て言え!そんな調子じゃ死んでも終わらねェだろうが」
「馬鹿にするな!死ぬ前に終わる!」
如月の返答は、意固地を通り越して素ッ頓狂だった。まともに頭が働いているとは言い難い。
「俺はお前が老衰するまで待つ気はねェぞ!」
怒鳴り返して、舞炎を解き放つ。紅蓮の劫火が小物を次々に飲みこみ焼き尽くす。
「壊すなと言っているだろう!飛水十字!」
技のモーションは確かに飛水十字だった、はずだ。
次の瞬間、巻きあがった水の奔流は、十字ではなかった。怒濤の無差別全方位攻撃。巨大な洗濯機に丸ごと放りこまれたようなもんだ。
俺の符術で焼け焦げ、もろくなった付喪神はこの水圧でトドメを刺された。
「しまった……!」
火を消すつもりで水を喚んだのだろう。無惨な結果に、如月は呆然と立ちつくした。
その隙をついて、次の札を放つ。
「青短・吹雪ッ!」
水びたしの庭中に溢れる有象無象が、音をたてて凍りついた。
「む、村雨!」
「壊してねェよ。よく見ろ」
霜の降りた夜の庭に、動く影はもう無い。
幾筋も氷柱を垂らし、うねり狂い踊る姿のまま百鬼夜行は静止していた。水氣の技を逆手にとった、不気味な氷のオブジェだ。
「……なるほど、足止めか」
ようやく頭が冷えたか、如月は構えをといて息をついた。
「助かったよ、村雨。礼を言う」
「おう」
「ああ、これは神代物だったのに。惜しいことをしたな」
自分で壊した鏡台の破片に顔をしかめ、如月は頬にかかる髪をかき上げた。
袖から二の腕がのぞく無造作は、完全に男の仕草だ。
帯が崩れ肩から落ちた銘仙の下、薄い襦袢は汗に濡れ、柔らかな身体の稜線を露わにしていた。
女の肉体、女の衣装。
にも関わらず、今更のように強く意識した。
俺が惚れた相手は、確かに男だ。何が変わろうとも、揺るぎなく。
「それで、何があったんだ。この騒ぎは」
「大した事じゃない。封じが少しゆるんだだけだ」
「よく言うぜ。これがその程度の話かよ?」
「封じ直せば済む」
「一匹ずつ、か?無理を言うんじゃねェよ。まとめて封じる方法が無ェなら、このまま灼き払うぞ」
「……………」
押し黙る如月に、たたみこむ。
「灼き払うしか、ねェんだな?」
凍てつく庭に相反する炎熱を席捲させれば、異形は溶ける前に爆散する。膨大な熱量を召喚するのは少々骨がおれるが、それが一番てっとりばやい。
再び、掌に舞炎の札が集う。
「待ってくれ、村雨。方法が、ないわけじゃない」
俺の腕を抑えて、如月は唇を噛んだ。
「封じがゆるんだのは、主である飛水の血脈が呪われたからだ。封じ主の力に同質の呪いが混じっているのに、うまく抑えきれるはずがない」
道理で、ちまちまと手間暇かけて封じていたわけだ。
無謀は承知の上で、如月としては他に方法がなかったのだろう。
「この呪いさえ解ければ、封じる力も回復するよ。器物の怪は消えるはずだ」
「つまり、あの招き猫が原因ってわけか。まいったな……」
元凶はキレイさっぱり砕けちまって、来週には不燃ゴミだ。
眉をよせ、如月はますます表情をかたくした。
「自業自得とはいえ、今は僕が器として取り憑かれているようなものだからね。僕自身の力で呪いを解くことは出来ない」
「仕方ねェな。誰か、祓えるヤツを呼ぶしかねェか」
御門か織部の巫女姉妹か、あるいは桜ヶ丘に駆けこむか。真夜中に傍迷惑な話だろうが、さっさとカタをつけねェと、庭の氷が溶けちまう。
「それは……必要ない」
「お前な、いいかげんあきらめろ。俺の符術も、せいぜい夜明けまでしか保たねェぞ」
「…………」
俺に答えず、如月は身をかがめて庭に散らばる欠片を拾い上げた。
折れた扇子の骨、砕けた手鏡、朽ちたように焦げて煤けた撞木。指先でそっと霜を払い、積み重ねる。
幾つも幾つも丁寧に拾い集めて、いくらも経たねェうちに残骸は山と積み上がった。
「おい、如月」
「…………この呪い、解ける人間を呼ぶ必要はないよ」
「そういうわけにもいかねェだろうが」
「必要ない。もう、ここにいる」
振り返った如月の、面差しからは綺麗に表情が消えていた。
「君だ」
俺を射抜く視線にのみ、僅かな感情が宿る。
内面世界を埋め尽くす、強い焦燥。
その瞳は、あの女と同じ色をしていた。