アニマ pain killer 2
零れ落ちるように、さらさら。
手のひらから逃げ落ちるように、さらさら。
固く閉じた指の隙間から、さらさらと。
時は、流れ落ちてゆく。
* 3 *
情事の後、ずうずうしくも腹が減ったと言いだしたので朝食の用意をすることになった。
何故こんな男にと、思いながらも気怠い身体で台所に立つ。
青菜の味噌汁。鮭の切り身に博多の同業から贈られた明太子を炙って添える。出汁巻き卵に山椒と煎ったちりめんじゃこ。海苔を焼いて、白飯を碗に盛りつける。
村雨は少し面食らったようだった。
「朝から随分立派な食卓じゃねェか」
そうだろうか。僕からすれば、栄養の偏った手抜き料理でしかないのだが。まぁ、夜の街に精通するこの男の食生活は、今の言葉で推して知るべきなのだろう。
「不満か?」
「誰もそんな事は言ってねェよ」
箸を取りあげて、村雨は両手を合わせた。そのまま驚くほどの勢いで、食事をたいらげ始める。
二人分の加減がわからず、少々多めだったおかずが一品、また一品と消えていく。
呆気にとられた僕に、村雨が碗から顔を上げた。
「何だよ」
「朝からそんなによく食べるな」
「そりゃあな。下になる奴とは違って、自分で動く分だけ腹も減るぜ」
箸を止めて、ニヤ、と笑う。
「良かっただろ?」
「な………っ!」
思い出させるな。抱かれた肌の感触がリアルによみがえって、頬が火照る。
声が上擦りそうになって、僕は無理矢理しかめつらしい顔をつくった。
「食事中に下品な話をするんじゃない。黙って食べろ」
「へぇへぇ」
村雨は肩をすくめ、おとなしく食事を再開した。
ガツガツとせわしない箸の動きを何気なくながめて、僕はあることに気がついた。
村雨の背中。
胡座をくずしてなお、真っ直ぐに伸びた背筋。
乱雑に見えて、何ひとつ行儀にはずれない箸の使い方。
普段あれほど斜に構えてみせる態度の下に、隠しきれない育ちの良さがほのみえる。それが妙におかしかった。
僕を組み伏せて圧倒するこの男の、意外な幼さを見たような気がした。
食卓をはさんで向かいあい、僕はいつのまにか村雨から目が離せなくなっていた。
物事の順序はまるで逆だが、恋をしていると自覚したのはこの頃のことだ。
その数日後、最初の発作に襲われた。
暗い。
そう思った瞬間には、全身が冷たく感覚を失っていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動だけが嫌に耳に響く。
ドクン。
ドクン。
――――― ドクン!
「痛ッ、………ゥ」
慢性的に僕の身体を蝕んでいた傷が致命的な域に達した、最初の一打。
とうとう、その時が来てしまった。
覚悟をしていたわけではないけれど、とりたてて感慨はなかった。
≪黄龍の器≫をめぐる闘いは、すでに最終的な局面を迎えつつあった。この流れなら、最後まで闘いきれる。問題はない。
――――― ドクン。
それにしても、寒い。
―――――――――― ドクン。
痛……い。何か忘れているような、気が。
「このままイチャイチャしてェってんなら、俺は一向に構わないんだがな?」
「は?」
目を上げると、ごく至近に村雨の顔があった。状況が理解できない。
村雨は、軽く鼻を鳴らして札を切った。
「赤短・舞炎ッ!」
爆炎があがる。つんざく悲鳴が紅蓮の業火に飲みこまれた。フッ、と一筋の煙を残して異形の鬼が消える。
「強い……」
僕は、思わず声に出していた。
その頃には、自分が誰に縋っているのかわかっていた。村雨は片腕で僕を支えた無防備な姿勢のまま、堂々と敵を屠っていた。これを強いと言わずして何と言うのか。
「そりゃどうも。おい、立てるのか?」
「……放して、くれ」
自分の足で立った大地は、奇妙に頼りなかった。村雨は顔をしかめた。
「俺が強いんじゃなくて、単にお前が虚弱なだけなんじゃねェか?」
「失敬な。誰が虚弱なんだ」
「斬ったはったにゃ、圧倒的に体力が足りねェ。身が軽いのは結構だが、見切りとスピードにものを言わせた刹那的な戦法じゃ、そのうち後が続かなくなるだろうよ」
村雨の指摘は、嫌味なほどに的確だった。頭にくるが、言い返すことはできない。僕自身、よく分かっていた。もしも後が続かない、最期の時には、せめてこの身を………
「守ると言いながら、盾にもなりゃしねェ。……捨て駒だぜ」
「なっ………!!」
僕の思考を見透かしたように、村雨は吐き捨てた。
また、だ。
初めて会った時もそうだった。時折僕に向けられる、鋭い言葉。憎まれているとしか思えないような、痛み。
「何が、わかる。……君に、何がわかると」
声が震えた。
どうしてこんな男に否定をされなければならない。
どうしてこんな男に恋をしなければいけない。
「何が、わかるって……ッ…!」
僕は、村雨に手を上げていた。
「ッ!」
「……あ……」
反射的にのけぞった村雨の頬に、血が流れていた。握ったままの忍び刀が、村雨を薙いだ一筋の跡。
「……村雨……村雨、すまない。僕は……」
「……いや、今のは俺が悪い」
ぬぐった純白の袖に、鮮やかな赤を認めて村雨は首を振った。
「悪かった」
言って村雨は、踵を返した。
「この辺りの敵は始末したな。先生たちに合流するぜ」
「……村雨」
歩き出したその背に、かける言葉を失って僕は立ちつくした。
忍び刀を染める、村雨の血。
振るい落として鞘に納める、ただそれだけの動作がひどく難しかった。
怖かった。
傷つけることができた、自分が怖かった。
何かが、壊れはじめていた。
夕暮れから降り始めた雨は、止む気配がなかった。
途切れることなく続く雨音に、少しぼんやりしていたらしい。居間の時計が、深夜に近い時間をさしていて、僕は手を止めた。
部屋には、冷たい空気と薬臭が満ちていた。
一人でいるのにストーヴを点けるのはおっくうで、食事をとるのも面倒くさく、気がつけばずいぶん身体が冷えていた。
発作が起きたあの日から、村雨は僕の家に来なくなった。
毎夜の来訪が、ふつりと無くなった。
何故と問わずとも、原因は明らかだった。せいせいしたと思ってもよいはずなのに、気持ちが沈む。温もりが恋しいのは、何も身体が冷えている、それだけではないとわかっていた。
溜め息ばかりが、口からこぼれる。
「……これで、足りるといいけれど」
僕は、出来上がった丸薬を盆の上に転がした。
飛水に伝わる鎮痛丹。
ザラザラと盆からあふれる白い粒は、三百錠。多いように見えて、実はこれでも二ヶ月と保たない。
一回につき二錠が限度。一日当たりは六錠まで。
過去に同じ症状を示した一族の者が、どこまで生きたのかはわからない。秘伝に記された調合の分量が、あらかじめ三百錠だったことを鑑みれば、これ以上ではないのだろう。
副作用の多い薬でもある。
「六錠で彼岸を望む、か」
文献の末尾に書きつけられた、詩とも散文ともつかない副作用の記述。声に出して唱えればなお、癒す薬ではないことが悲しかった。
………………悲しい?
考えてから、僕は驚いた。
何が悲しいのだろう。使命を果たすためならば、命は捨てても惜しくはないのに。
くだらねェと、そう吐き捨てた村雨の言葉が脳裏をよぎった。その時、
「い……痛ッ……」
突き抜けるような痛みが、胸を刺した。息を詰めて堪えると、口の中に苦い味が広がった。
笑ってしまうような、絶好のタイミング。激痛にうずくまりながら、僕は出来たばかりの薬に手をのばした。二粒を手にとり、飲みこむ。
「……っ、く……ハァ、ハァ、ハ……ッ」
額を流れる脂汗が嘘のように、痛みが遠のいた。調薬は、成功している。
呼吸を整えながら、ふと、何を忘れていたのか、僕は答えを思い出した。
残り、二百九十八錠。
時間が、無いのだ。
ジリリリリリ、と黒電話が鳴った。
こんな真夜中にと、不吉な予感を覚えて受話器をとる。
「如月か?夜分に済まん。実はタツマが…………」
その知らせは≪黄龍の器≫の、意識不明の重体を告げるものだった。